第一回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(一)&(二)』

『神国日本をさがせ』掲載にあたって

この文章は、「日猶同祖論を考える掲示板」と 歴史修正学会の機関誌『みち』に隔週で連載し ているものをまとめた原稿です。

 いわゆる「国学」について、まったくの初学 者である八神が、「平田篤胤」という江戸時代 の大国学者の書籍に触発され、色々と勉強して 洞察を述べている文章です。

 本居宣長はじめ、さまざまな国学者や、江戸 時代の学者たちにも、長期のスパンで触れてゆ くつもりです。

 これは、「国学」の主張する「日本は神国」 というテーマを、書きながら学んでゆくという 姿勢の文章ですから、いたらぬ点も多々あるか と思いますが、どうぞよろしくおつきあいの程 を、お願い申しあげます。

『神国日本をさがせ』は、現在も連載中です。 この連載が開始されてまもなく、森首相の「神 の国発言」があったのを、とても印象深く思い だす今日このごろです。

 平成12年9月21日      八神邦建


『神国日本をさがせ』

第一章『苦労人の国学者・平田篤胤』(一)

 昨年の正月に、わたしは書店で、岩波文庫版のある薄い新刊に目がとまり、なにげなく手にした。地方の中規模の市の郊外によくあるチェーン店の書店だった。

 その日は、家族を病院につれていった待ち時間をつぶすためと、執筆に必要な本を入手するため、どうしても書店にゆかざるをえなかった。(近年、書店は好きではないのである)

 買うはずの本はなかった。かわりに、手にした真新しい文庫本のタイトルは『霊能真柱』で、著者は「平田篤胤」とあった。

 平田篤胤の名は、学校の日本史の授業で聞いたおぼえがある程度、本の題名にいたっては聞いたこともなかった。

 だいいち題が読めない。

「れいのうしんちゅう?」

 よく見ると、「たまのみはしら」と読むのだという。

 明治維新政府の当初の神事官庁である「神祇省」の母体をつくったのが「平田派」 の面々だったことや、宇野政美が本居宣長を絶賛していたことを思いだし、「平田篤 胤は本居宣長の弟子だったはずだが、どんな人なんだろう」と、ただの好奇心から手 にしたのだ。

 岩波文庫の例にもれず、文章は約二百年前の江戸時代の原文の書き下しだった。

 まず、読めるところから読もうと、駐車場の車の中、病院の待合室、自宅と、場所 を変えながら、原文にざっと目を通した。

 意味のわからないところは沢山あった。

 しかし、古事記の「上巻」の冒頭「天御中主神」「高皇産霊神」「神皇産霊神」の 三神のご出現から、いざなぎ・いざなみ両神による「国生み」にいたるまで、「図説 入り」で「天」「地」「黄泉」の形成と存在理由、また人間の魂は死んだらどこへゆ くのか、という考察がなされているのはわかった。

 近代科学の体系とは全く異なるが、独自の「霊的世界観」「神界観」「国体観」を 、かなりドラスティックに記述しており、二百年前=遅れた古くさい時代、という偏 見がどうも通用しない本だぞという感触はあった。

 つまり、江戸時代に生まれ、のちの明治維新の思想的原動力になった「国学」の書 物の実物を、初めて読むことになったのだ。

 知っている諸先輩がたはお笑いになるだろうが、正直いって、まず、たまげたのは 次のような記述のあることだった。

(以下、引用は読者の便宜を考慮し、八神が現代語になおし、改行を加えた文を掲載 する。不安のある方は、直接、当該の原典にあたられたい)

「私、篤胤はいう。はるか西の国の人(エンゲルベルト・ケンプル、ドイツ人の医師 ・博物学者。一六九○年来日、オランダ商館長にしたがい江戸参府し、当時の外国人 の日本見聞記の代表作『日本誌』を著す。その付録第6章を抄訳したものが『鎖国論 として流布された。以下篤胤がひきあいにする引用はそれによる)が、万国の地理風 土を詳しく書いた書物の中に、皇国(日本)のことも書かれてある。

 それによると『さまざまな国の中でも、土地が肥えて楽しく暮らせる場所は、北緯 三○〜四○度の間にほかならない。日本は、まさにそこに位置しており、その上、万 国の極東にある。天神(大神)のいかなるご配慮によるのであろうか、この国は特に 神の恵みを受けている。

 国土の周囲には、潮流が激しく、波さかまく荒海がめぐらせてあり、外国の侵略を 防ぐようになっている。また、国土を列島の形に分断し、大きな島がいくつか合わさ った形になっているのは、その地方ごとに作物や特産物ができるようにし、互いにそ れを流通せしめ、外国に頼ることなく、国内だけでいろんな産物を自給自足・満足で きるよう、はからわれたものである。

 さらに、国土の規模が、大きすぎず、小さすぎず造られたのは、国力を充実させて 、より凝縮した強さを発揮せしめるためである。

 それゆえに、この国は人口がおびただしく、家もにぎやかにたちならび、各地の産 物は豊饒をきわめ、ことに稲や穀物(豆・粟・稗・ソバなど)は、万国に卓越してす ばらしい。国民の気性も、勇敢で激烈、強健にして盛んであり、これもまた万国にな らぶものがない。

 これらの特徴はすべて、天地創造の神が、日本に特別の恵みをたれたもうた、たし かな証拠である』

 と、以上のようなことを、ケンプルは長々と詳しく書いている。

 この西洋人がいう、皇国は神の特別な御恵みを受けているとする説明を、漢土(中 国)がもっともらしくいう『天意・天命』などと同一の概念と思ってはならない。

 というのも、西洋人というものは、天地の間の事物を、さまざまな技術や観測方法 を考案して調べ、それにもとづいて考察や推察が及ぶ限りは人知をつくすが、人知の およばないことについては議論せず、とりあげない。あらゆるものごとが、神のご意 志であることをわきまえており、真実に彼らなりの伝統と古風をとうとぶものである 。

 だからこそ、漢土のかしこぶった、もっともらしい諸説と同列に論じることはでき ない。

 そもそも、はるか離れた西方の外人ですら、このように皇大御国たる日本の尊貴な るいわれをわきまえている。それなのに、わが国の学問する同輩たちが、自国・日本 の尊さの理由と根源を追求しようとしないのは、篤胤、まことに残念で嘆かわしい限 りである。

 外国のものどもが、あえて日本と親交を結びたがるのは、日本の尊貴なる由来をわ きまえているからで、皇国の大いなる徳にあやかろうとしているのである。諸同輩は 、これらのことをご存じなのだろうか」(四六〜四七ページ)

 まず、一七世紀のドイツ人が、当時の日本をこのように見ていたというのに驚いた 。また、篤胤の自信満々の「皇国は尊し」という断言に、しびれ、うなり、心の底で うちふるえた。

 それは、まるで今まで眠っていたなにものかが、目覚めるような新鮮な感動をとも なっていた。

 思わず感激にしびれる箇所は、そのあとまだ続いた。

「『三大考』(同じ本居宣長門下の兄弟子・服部中庸の著書。古事記神話にもとづく 、天・地・黄泉という三つの世界の成り立ちを説明する。篤胤は、これを、訂正・発 展させる目的で、文化九年(一八一二)に『霊能真柱』を書いた)には、こう書いて ある。 『皇国の世界における位置は、すべての大地の頂上部にある。その理由は、世界が最 初にできるとき、葦の芽(あしかび)のようにとがったもの(うましあしかびひこじ の神)の、ちょうど根のところにあるからである。

 この葦の芽のようなものによって、まだ天と地がすっかり分離されていなかったこ ろには、大地は、天という枝からぶらさがる果物のようなものだった。皇国は、この 葦芽のようなもので天につながる、大地という果物の『へた』の部分に位置するのだ 』

 こういうと、ある人は、こんなことをいいだす。皇国は万国に先立つ大本の国で、 天の枝、地の果物の『へた』にあたるというのは、なるほどと思えるけれど、ここで ある疑いが持ち上がる。

 というのは、大本の根源の国にしては、国土が小さく、地の果ての西洋の国々に比 べて、物質文明の進歩が遅いのは、どうしてであろうか。大本の国というなら、そう いうことはないはずだと。

 私、篤胤が答えよう。

 まず、神様が、皇国をさして大きくない国として、お造りになられたのは、かのケ ンプルなどの西洋人が考えたように、神はかりがあるというべきである。

 ことにいえるのは、国のことに限らず、ものの尊卑善悪は、見かけの大小にはよら ないのである。  それは、師匠の本居宣長翁がおっしゃるように、『数丈(一丈=三・三メートル) の大岩も、一寸(三・三センチ)四方の翡翠(ひすい)には及ばず、牛馬も体は大き いが、人間には及ばない。国もおなじであって、どんなに広く大きくとも、悪い国は 悪く、逆にどんなに狭く小さくとも、良い国は良い』のである。

 たとえば、世界地図を見ると、南の下方に非常に大きな(南極)大陸がある。ほか の大陸全部をあわせて、三で割ったほどの広大さだが、そこには人も住まなければ、 草木も生えない。

 もし国土の面積の大きさをもって、国の善し悪しをいうのなら、さしずめ南極大陸 は、よい国ということになろう」

 これは、平田篤胤や服部中庸、師匠の本居宣長が、いずれも鋭く本質を見抜く力を 有していたことを示す。つまり、「量より質」ときっぱりと断言しているのだ。

 大量生産・大量消費になれた現代人が、ここまで明確に、「量より質」という価値 観を、正しいと主張できるだろうか。

 二百年前に、世界地図を見て、南極大陸があるのを知っていた事も、上記の文章で よくわかる。

「量より質」の宣言に続き、篤胤は自分で想定した疑問に対する回答として、これま た気持ちのいい記述をしている。

「また、西洋諸国よりも物質文明の開けが遅いというのも、皇国の国民は性質がおお らかで、こざかしく物を考えたり、理屈をあげつらったりしないからなのであって、 単に遅れていると思うのは、思慮が足りないいいぐさである。

 つまり、皇国は万国の元祖・大本の国で、果物の実でたとえれば、『へた』の部分 に当たる。『へた』の部分には、とくに『ものをゆっくり確実に成長させる大地の気 』が厚く集まっているために、成長の仕方はゆっくりでおおらかである。それで皇国 の民も小知恵を働かせたり、さかしい性質をもったりしないのである。

 たとえば、メロンや桃の実も、その実がだんだんと大きくなるのは、『へた』から 実の先端に向かって成長してゆく。ところが、実が育ちきって、熟するときには、先 端の方から、まず熟しはじめ、『へた』の部分は、後になって熟するものである。

 これは、『へた』の部分が、実の成長の原点であり、成長させようとする力の勢い が強く、最後まで残存するからである。

 こういうことは、すべてに言えることで、たとえば天地の間のことでも、朝日が最 初に東に見えるときは、さして日光の暖かさを感じたりはしないが、だんだん太陽が のぼって西へ西へと移動するごとに、日差しの熱さを感じるようになる。これは、東 に起こった朝日が、西に移動するうちに変化するからである。

 こういうことは、天地の間の理というものを、よく観察研究し、きわめたのちに、 はっきりとわかることである」

 以上の部分を読んだだけでも、平田篤胤がきわめて非凡な観察眼と、繰り返しにな るが、ものごとの内奥をほとんど直観的に把握する洞察力の持ち主であることがわか る。

 ことに「小知恵を働かせたり、さかしい性質(原文では「さかしらだちたる」)」 を嫌って「おおらか」である国柄を指摘している部分は、現代日本人がとくに忘れて いる重大な要素であろう。

 学校教育や、政治の駆け引き、宗教・思想・学術論争をとってみても、現代の日本 や世界で「さかしらだちたる」ことなく「おおらか」なる精神で語り、おこなう人々 が一体どれほどいるだろうか?

 篤胤は、ものごとの研究姿勢からして「本来の日本人は外国人と異なっている」と 、この後さらに訴え続けることになる。

第一章『苦労人国学者・平田篤胤』(二)

◎人と獣と日本と外国と

 篤胤は、続けて次のように、日本の有りようの素晴らしさを、諸外国と比較して論 じている。

「また、鳥獣というものは、生まれ落ちるとすぐに、自分から餌を食べ、二〜三カ月 もすれば、もう交尾などはじめるが、これは卑しいものだからである。それに比べて 人間は、食べることも、立つことも、非常におそいのであるが、やがては成長して鳥 獣より尊いものとなる。

 さらに、鳥獣は、人間に比べて寿命がきわめて短い。その理由もまた、人間より早 く成長し、交尾し、老化して、早く死ぬという一生の速度のはやさにあるのだろう。

   諸外国の文物が、早く悪く、さかしい形で発展してきたのも、皇国の文物が、長い 間、太古の神代のままにおおらかであるのも、以上のことに、なぞらえて理解できる 。

 漢土の書物にも『大器は晩成す』という言葉があるが、まさにこのことを語ってい るのである。

 さて、諸外国では、昔からさかしく物を考え、さまざまな文物を編み出してきたの である。皇国は、今なおおおらかで、強いてさかしくはして来なかったのであるが、 今いった外国人どもが、油汗ながして、血のにじむ思いで必死に考えだしたことを、 彼らはありあまるほど貢いでくれるので、皇国の役に立つことが多いのである。

 このことを思うに、高枕で腕組みした主君に、人民が腿まで泥につかり、肘まで水 に濡れながらつくった作物を、捧げたてまつる様に似ている。これも、人知でははか りしれない、神秘きわまりない、神々の大いなるご意志が、そのように尊いものと卑 しいものを、定めたもうたということである。

 それなのに、外国のことを学ぶものたちは、以上のような由来を知りもせず、外来 の文物が皇国の役にたつのを見て、貧弱な肩をそびやかし、声高・鼻高にほこってい る。かたはら痛いことである。そういう姿勢は、儒学者のみならず、最近起こってき た蘭学なる学問を学ぶものたちに、ことに当てはまることであり、大変にいとわしい ことである」

 実によく、自然現象を的確に観察している。諸外国と日本を比較して、その優劣と 賢愚、明暗の特徴を、ここまで指摘されると、なるほどなあと、うなずかざるを得な い。

「蘭学」という「外来学問」に対する危惧は、現代に生きるわれわれには、より切実 なものがある。今日の「蘭学」は「アメリカ主義」である。アメリカの政治経済、軍 事、マスコミ、コンピュータ、その他産業、思想、教育、医学、その他学術・・・・ 。

「なんのかんのいっても、アメリカはすごい」といってはならない事がこれでわかる 。アメリカナイズされた者たちが、「アメリカ流はかっこいい」といばっているわけ だが、篤胤のように、「アメリカのすごい所を、日本に貢がせる」という意識への転 換が必要だろう。

 八神邦建流でたとえるなら、日本の発展成長は「樹木」型であり、諸外国の生成発 展は「草本」型である。日本は木のように、ゆっくり着実に年輪を重ねて育ってゆく 。その速度は遅い。外国は「草」のように早くのびて成長するが、冬がくると枯れて しまう。

 若木と、雑草を比べたら、夏など雑草の方が丈高く、若木が青草に埋もれて、日光 がさえぎられ、成長をはばまれることがある。今の日本は、欧米文化という「夏の雑 草」が繁茂している中で、見分けがつかないほど埋もれた若木である。

 しかし、木は木であって、絶対に雑草にはならない。どんなに繁茂していても、所 詮、草は草である。どんなに大きくなっても、トウモロコシやサトウキビやアカザや アザミには、冬を越すことは不可能なのだ。

 日本は桧であり、杉であり、梅であり、桜である。欧米文化が滅亡することはあっ ても、日本独自の姿と本質は、決して途中で枯れたり成長が停止したりはしないので ある。

 夏草にはばまれて、苦しんでいても、若木は根をはり、着実に成長を続けている。 むしろ、どんな草よりも、はるかに深く広く、大地に根をはっているのである。

 日本という若木は、大東亜戦争という大風で枝が折れ、幹にも傷を負った。しかし 、木であるから、その傷は時間をかけて修復される。もし、これがトウモロコシだっ たら、根本から折れるか、途中で実もならずに枯れたはずである。

 だが、日本は枯れていない。ほかの国なら滅亡していたかも知れない大敗北にも、 皇室ともども滅びなかった。

 日本が、樹木であり、篤胤いうところの「果物のへた」すなわち、「万国の元祖・ 大本」の国たる確たる証拠を、私はそこに見いだすのである。

◎『霊能真柱』の数奇な成立

 上記のような箇所が、ページを開くたびに出てきて、二百年後の読者を驚かす。故 きをたづねて新しきを知るどころか、故きは飛び出し新しきを驚かすである。 『霊能真柱』という本は、初めての国学の書にして衝撃だった。なんという本だろう か、いったい、どのような形で、この本は書かれたのだろうか。

 文庫本の「解説」等によれば、文化八年(一八一一年・三六歳)の十月、江戸の篤 胤は、弟子たちに招かれて駿河の国(静岡県)を訪れる。別の伝記によれば、江戸の 自宅での篤胤の勉学ぶりが、昼夜をわかたぬ激しいものだったので、弟子たちがその 身を案じ、静養がてら、お招きしたというのが実相らしい。

 なにしろ、研究のために、一年の大半を袴を脱がずにすごし、睡眠は机にもたれ、 伏せて寝ることですましたという布団しらずの先生である。その勉学への時間と情熱 のかけかたは、超人的なものがあった。

 見かねた弟子たち(この時点では二○名くらい)が、温泉にでもつかって英気を養 っていただこうと考えたのも無理はない。

 ところが、休めなかった。招いた弟子の一人の家に投宿したところ、日頃、会えな い遠近の弟子たちが、入れ替わり立ち替わりやってきて、教えを乞う。

 もともと親切で教育熱心な篤胤は、はからずも駿河の弟子宅を、研究所分室(塾分 室?)がわりに、江戸と同じく多忙な日々を送ることとなった。

 弟子たちと応対しているうちに、「日本の神代は、本当はどうだったのか。神々が いらした古代の正しい歴史を、再現できないものか」という疑問にぶちあたる。

 記紀をはじめとし、日本の神代に関する歴史書(古史)はたくさんあったが、内容 に異同があり、矛盾があり、また儒教・仏教などの影響を受けて変形したような諸説 ・古伝があり、決して体系的なものではなかった。

 そこで彼は、弟子たちの懇請もあって、かねてより懸案だった「儒仏の影響を排し 、異説をも包含する正しい神代の歴史・古史を、体系化し、復活させる」野心的著述 を実現しようと決意する。

 そうこうしているうちに十二月五日となった。その日、篤胤は弟子たちから、記紀 や本居宣長師の「古事記伝」など七種類の古史の代表作を借り集めて、奥まった一室 を借り、猛然たる執筆活動に入る。

 どれだけ猛然かというと、まずほとんど寝ない。食事も机に向かって本を読みなが ら。二週間近く、いつ寝ているのかわからない。心配した弟子たちが「もうおやすみ になられては」としつこく頼むので「枕と夜具をもて。ただし途中で起こすなよ」と いって横になって高いびき。

 ところが、今度は丸二日、食事もとらずに寝っぱなし。弟子たち、また心配になっ て、「先生、だいじょうぶでございますか」と起こせば「途中で起こすなといったは ずだが」などといいながら、また何事も無かったかのように、昼夜兼行の執筆生活に もどるというありさまだった。

 こうして二五日間にわたる、こもりっぱなしの執筆作業が終わったのが、ちょうど 大晦日、陰暦で十二月三○日から元日早朝にかけてだった。

 できたのは『古史成史』『古史懲』の二大著作の初稿、ならびに『霊能真柱』の草 稿であった。これは分量からいっても内容からいっても、たった二五日間でできるも のではない。

 篤胤の超人的な体力気力・不眠不休の努力があって、初めてなった奇跡だが、自著 で本人もふりかえって、「あのとき、どうしてあんなに速く書けたのだろう」と述べ ている。もちろん、篤胤は神に成功を祈りながら、必死に神助を念じながら書いたの である。

 文庫解説はこう書いている。

「篤胤学と称せられる古学の中心的な著作の草稿や骨格は、この文化八年一二月五日 から三○日の深夜にかけての、短期間の、まさに神がかりともいうべき作業の結果と して成立するのである」

 篤胤を篤胤たらしめる大部からなる代表作が、三六歳のとき、たった二五日間でで きあがったのである。ちなみに、師匠の本居宣長の代表作「古事記伝」は、完成まで 三五年間の月日を要している。

 篤胤が神々に強く固く祈りながら書いたという証拠が、弟子の記録にある。そこで は、大晦日の翌日、元日の朝にいずまいをただした篤胤が、できた原稿をさしだしな がら、こう言って、ほほえんだという。

「去年というべきか、今年と言うべきか、丑の刻(午前一時〜三時)の鐘を打つころ に書き終えた。きみたちが、心から(古史の完成を)ねがったので、私も承諾して本 気でとりかかり、こもりっぱなしだったが、こもったその日から、御意志ならば、な にとぞ年内に書き上げさせたまえと、神々にお祈りし続けてきた。どうやら、そのか いがあったようだ」

 この超人的体力・気力については、『霊能真柱』を書く動機と刺激になった前述の 『三大考』著者の服部中庸も、私信でいっている。

「調べもの、著述にとりかかったら、二○日間でも三○日間でも、昼も夜も眠ること なく、疲れたときは三日も四日も飲み食いせずに眠り、目がさめたら元の通りになっ ている。なかなか、凡人にはできないことです」

 つまり、神がかりと説明するしかない、事実その通りであった篤胤の、まさに代表 的、エポック・メイキングな著作のひとつが『霊能真柱』だったわけである。

 こうして、篤胤は人生の岐路ともいうべき著作を駿河でなしとげ、正月があけてから江戸の自宅に戻る。

 だが、草稿『霊能真柱』の本原稿を書き上げようとする矢先、愛妻・織瀬(当時は珍しい恋愛結婚だった)が病に倒れた。医者の心得もあった篤胤は、半年以上もの間、必死の看護を続ける。それもむなしく、八歳の娘と五歳の息子を残し、その年の夏、織瀬は三一歳の若さで没してしまう。

 篤胤の悲嘆は、筆舌につくしがたいものがあった。しばらく、書も筆も手につかず、泣き暮れて、やつれる日々が続いたという。

 そのどん底からはいあがり、最初に書き上げたのが、『霊能真柱』なのである。

 ただ一冊の国学の本の背景に、これだけのドラマがあるとわかった以上、当然のごとく、この平田篤胤という人物をもっと知りたいと思うのは、人情のしからしむるところ。

 いったい、この人物はなにものなのか。どこで、どんな生い立ちを過ごして、超人的国学者になったのか。

 調べはじめてわかったが、さあ、この先生、とてつもない人物であることが、ますます見えて来た。

[以上、第一回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(一)&(二)』、「日猶同祖論を考える掲示板」では(1)〜(7)。]

第二回:『』