第二回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(三)&(四)』

1.苦労人国学者・平田篤胤(三)

◎大和田正吉の生まれ出づる悩み

 ここで、篤胤の出生から元服までのゆくたてを、しばらく追ってみたい。

 出羽国佐竹藩(現・秋田県秋田市)の大和田清兵衛(禄高は百石)に、安永五年( 一七七六年)八月二四日、四男が生まれた。幼名を正吉と名づけられた。この赤子が のちの篤胤である。

 大和田家は、代々、佐竹家に仕える家臣の家系で、山崎闇斎派(山崎闇斎が創始し た垂加神道の系統。神道と朱子学を習合させた尊皇・国体思想の学派)の学者・医者 として、決して低くはない家柄だった。しかし、当時の佐竹藩の財政逼迫は相当なも ので、禄高百石とはいっても、「お借り上げ」という名目の「減俸」が当たり前であ り、家格は悪くないものの、藩士の生活はいずれも苦しかった。 

 大和田清兵衛の場合、篤胤をふくめて六男二女をもうけたのだから、その養育に窮 したことは、想像にかたくない。もともと、武家では家を継ぐ子供以外は、 「冷や飯食らい」として、しばしば冷遇されるものだが、正吉(篤胤)の場合はこと にひどかった。

 まず、生れ落ちてすぐに、乳母の家に里子にだされた。この乳母の家は、貧しい足 軽の身分で、誕生直後から六歳になるまで、正吉はここでしつけを受け養育される。 つまり、実家の家風を身につけることが、全くできなかったのである。

 そのまま乳母の家の子になるところだったのだが、六歳のときに、養父の足軽が亡 くなり、実家に戻されている。のち、八歳になると、今度は大金持ちの鍼灸医・桜井 宗休に養子にはいったが、ここでも十一歳になると、宗休に実子ができたので、正吉 はまたも実家に返されてしまう。

 このように、概略だけみても不安定な幼少期を過ごしたことがわかる。

 篤胤四七歳の時に書いた『仙境異聞』(仙童寅吉に取材した神仙界の消息を伝える 記録)には、彼自身がこう記している。

「私は、どういう因縁で生まれついたものであろうか。わら(産床)の上に生まれて より、実の親の手だけで育てられたわけではなく、乳母の子となり、養子となるなど して、多くの人手に渡って、二十歳を過ぎる年頃まで、苦しい目に浮き沈みしてきた ことは、いまさらいうまでもない」

 また晩年六七歳の時、養嗣子・鉄胤(かねたね)に宛てた私信の中でも、こう吐露 している。

「そもそも、身の上を幼時からふりかえると、生れ落ちたときから、父母の手に育て られなかった」

 とにかく、親が彼の帰宅をよろこばなかったのは確かなようで、冷遇ことさらに厳 しいものが、あったとわかる。

 現在、流布されている資料では、正吉が、武士の必須教養の四書五経を、いつまで たっても読んでおぼえられないほど、愚鈍だったためとされている。十九歳になって も素読すらできなかったので、父親があきれて悲憤慷慨し、おまえは武士にふさわし くないと宣告。袴を脱がせ、元服も帯刀も許さず、家僕・町人としてあつかったとい う。

 ただし、何も教わらなかったという訳ではなく、父親の手ほどきで、十五〜六歳に かけて漢学を学んだと、篤胤自身が別の場所で書いている。

 大和田家の一族は、藩校の教授を育てて親しくつきあうなど、相当な学問の家系で あり、清兵衛も垂加神道の浅見炯斎(崎門三大人の一人)の学派を学んで、漢学を専 攻していた。

 そんな父親の目に、篤胤はかなわなかったということらしい。山崎暗斎派(崎門派 )は厳格で知られており、特に大和田家が学んだ浅見の学風は峻厳で、講義は厳粛を きわめたという。

 このように、学風も家風も厳格さを重んじる家庭であったことは、容易に想像がつ く。

 しかし、あれほどの超人的な著作をのちにものす人間が、いかに十代とはいえ、本 当に学者の父親を絶望させるほど「愚鈍」だったのだろうか。

◎悲痛なる書簡断片

 色々調べてみると、実態は、そんな単純なものではなかったらしい。

 秋田の研究家・伊藤裕氏によれば、平田家の書庫から、偶然発見した篤胤直筆の書 きつけ断片に、驚くべき生い立ちの実情が記してあったという。

 それは、本来、鉄胤宛の手紙の一部として記されたものの、封書にする前に、途中 で切り取ってしまった形跡があるという。

 その出されなかった手紙の断片には、赤裸々に次のようなことが書かれていた。

「里子にやられ、貧乏な御足軽の家にて、苦々しくも六歳まで養われ、そこの跡取り になるところだったが、乳母の夫が死んで、実家に帰された。それから、父母兄弟に いじめられ、責めさいなまれた苦しみの言語同断なことは、常々、語ってきた通りで ある。

 八歳から十一歳までは、桜井氏の宗休という大金持ちの鍼灸医のところにもらわれ ていたが、医者になるのはいやだなあと思いはじめた矢先、その家に跡継ぎができた ので、また実家へ戻された。

 それからは、生家では飯炊き、掃除、草むしり、使い走りに、肥たごかつぎ、なに をやらしても兄弟じゅうで一番できると言われながらも、憎まれこき使われ、打ちた たかれ、頭にコブの絶えることがなかった。

 それでも、生まれつき実直な性質があり、立派な教育を受けたわけでもないのに、 ひとりでに本を読むことをおぼえ、人に会えばにっこりとする所があるので、それさ え憎まれた。

 かてて加えて、私の顔にはあざがあるのだが、そのあざが『兄弟を殺して家を奪う 相だ』というのでいやがられた。

(秋田は)こんな寒い土地なのに、ただ一度、長兄が小さい夜着を買ってくれただけ で、それがすりきれてしまってからは、夜着というものをいただいたことがまったく ない。(しかたがないので)手内職をして小銭をため、乞食の着て寝る『モク』(八 郎潟に生えていた極細で柔軟な水草。これを苅って干し、貧民が綿がわりに用いた) というものを買って、極寒の冬をしのぎ、こたつにあたれたためしは一度もない。

 それでも、ただ両親というのはこわいもの、無理をいうものだとは思ったけれど、 恨みの心が起こったことはなかった。そうではあるが、『兄を殺す相だ』といわれる のが辛くて」

 ここで、隠されていた手紙の断片は終わっている。

 これでは、あまりにも内容が悲惨だ。ひよわな現代人でなくとも、肌に霜が降りる ような過酷な境遇ではないか。

 大人物・平田篤胤の過去としては、人目に触れる書簡に載せるに忍びないという理 由で、篤胤自身、また受け継いだ鉄胤も、わざと記録からはずしたものらしい。

 ほかの兄弟も、篤胤と同じ目にあったとは思えない。貧民が着るものを買い求めて ひきかぶり、こたつにも入れてもらえないというのは、半端でない豪雪寒波の秋田で 、あまりといえばあまりである。

 家風にあわないような他家で育った正吉、最初からよその家の子にやるつもりで、 親にかわいがられなかった、やっかいばらいの子ども。

 だから、彼は、家にもどれば「やっかい者」なのである。口減らしに出したのに、 二度ももどってくる。家計の苦しい親や兄たちにとっては、舌打ちものだったのだろ う。

 もちろん、彼の生家が厳格でなく、優しい家族だったら、こうはならなかったろう 。しかし、貧窮と教育方針の厳格さがあいまって、「しつけの行き過ぎ」が起こるの は、戦前までの日本では、ありがちなことだった。

 貧しい家では、「子どもを早く家から独立させて、親の負担を軽くすること」が最 優先だからだ。

◎二十歳で覚悟の出奔

 少なくとも、正吉にとって、生家は安住の地などではなかった。むしろ、いつか飛 び出さねばならない場所だったのだ。

 それにしても、下男あつかいで元服もさせられなかったというのは、きわめて特殊 な冷遇だ。

 あとでも記すが、彼は二十歳で江戸へと出奔するのだが、幼名・正吉のままで江戸 へゆき、そこで自分で勝手に前髪を落とし、立ち会いもなにもない「自主元服」をし て「半兵衛」となのることになる。

 父親・清兵衛が、彼を嫌うか、大きく誤解していたか、あるいはその両方だったこ とは確かだろう。母親も、ほかの兄弟もまた、それに従ったものとみえる。

 一般に、親兄弟と妙にそりの合わない、なにかにつけて目の仇にされる子どもとい うのがいる。血はつながっていても、ほかの兄弟に比べて、なぜか親に殴られたり、 こき使われる頻度の多い子どもというのは確かにいる。

 親には親の理由があるのだが、当の子どもには理不尽で、恨むまでではなくとも「 ほかの兄弟に比べて差別されている」と肌で感じてしまうことも多々ある。正吉もそ うだったかもしれない。

 しかし、人に笑顔を向ける、そのかわいさが憎たらしいと言われ、なぐられるのだ から、これは家族間の相性の問題プラスいじめ・虐待問題になってくる。

 顔のあざをもって、「兄を殺して家をのっとる人相」とののしるにいたっては、精 神的苛虐である。どれほど正吉は傷ついたことだろう。

 総じて、隠されていた書簡の断片に書かれた過酷な生家での境遇は、まるでそこの 家の子どもではなく、「嫁いびり」の様相を呈している。血はつながっていても、彼 は家族の中の「よそもの」あつかいであった。

 こうして、他家の子ならば、元服して一人前の藩士となってしかるべき所を、正吉 は親兄弟から酷使・虐待され、ある程度の勉学と武道のけいこなどをのぞけば、下男 あつかいにあまんじながら堪え忍んだ。

 しかし、「兄を殺して家を乗っ取る相」と言われ続けたことが、何よりも強烈なス トレスとなり、耐え難くなったのだろう。ついに限界を迎える日がやってきた。

 前述の伊藤裕氏は、こう江戸への出奔の理由を記している。

「家庭の窮乏生活の苦渋も、養子になれなかった不運も、家族の冷遇虐待も、正吉を して父母の地を捨てさせる決定的因子にはならなかった。それらは、正吉には耐えれ ば耐えうることであった。ただ、この『兄を殺して家を奪う』という運命の象徴のア ザの一事だけは、恩愛の上からも道義の上からも忍びえなかったのだろう」

 かくて、正吉二十歳、寛政七年(一七九五)正月八日、外は雪が横なぐりに吹きつ ける荒天であった。かねて、爪に火をともすようにためた「五百文」とも「一両」と もいわれる金だけをふところに、正吉は一通の書き置きを残して出奔する。(旅費調 達については、ほかに諸説ある)

 正月八日に家を出た者は、二度とその家の敷居をまたがないという言い伝えにのっ とった覚悟の家出である。

 めざすは江戸、百四十里の彼方。一両なんぞの旅費では、まともに旅篭どまりなど していては、とうていたどりつけない、はるかな遠方の地であった。

1.苦労人国学者・平田篤胤(四)

◎大志、退かざるべし

 生まれた家にいたたまれずに、出奔・脱藩した正吉(篤胤)だったが、その理由の 本当の所は、やはり「学問」への情熱が早くからあったことにあるだろう。

 ここに、篤胤の養子・鉄胤の書いた篤胤の代表的な伝記『御一代略記』という本が ある。そこでは、出奔の理由を簡潔にこう記している。

「いつも、心に大きく憤激するところがあって、にわかに志を起こし、一月八日、書 き置きして国を去り・・・」

 この「いつも、心に大きく憤激」というのは、もちろん日常の家族の虐待冷遇、そ して、「顔のあざ」の一件だったろう。それで、以前より心に秘めていた志を実現す るのに、江戸へいくほかはない、と決めたのだろう。

 もちろん、金も縁故もない状態でゆくのだ。どれほど不安でこころぼそい旅立ちで あっただろうか。「大志を起こし」とあるものの、実際は引くに引けない、ぎりぎり の選択だったのではないかと推測できる。

 あるいは、家族との関わりの中で、最後の忍耐の緒が切れる瞬間があったのだろう 。聞くにしのびない「ひとこと」を浴びせられて、「もう、ここには、いられない」 と断腸の決意を固めざるをえなかったのかもしれない。

 いずれにせよ、長年の家族との関係の悪化と、自分の向学心の成長とがあいまって 、江戸への出奔が決行された。

 むろん、無断で藩を出るのは「脱藩」であり、非合法の行為であったわけで、当然 のごとく、二度と故郷へは戻れないのを、重々承知、覚悟の上でやったのである。

 生家のある秋田・久保田を出てから、数日後、積雪は山道に入ってゆくごとに深く なり、ついに院内峠(現在の秋田・山形県境)にいたって、彼はひとり道に迷ってし まう。

 峠の本道からはずれてしまい、山道は細くけわしく、寒気せまって、見渡す限り、 深い雪、雪、また雪。峠の頂上まで死にものぐるいで登ったはいいが、積雪ものすご く、道そのものが雪にうもれて跡形もない。こんな日に、峠を越えようとする者など 、彼以外いるわけもなく、まわりには、人っこひとりいない。

 まさに白い荒野といったありさまで、途方にくれて立ち尽くす。本来なら、峠道を 下って山形は最上領に入ってゆくところである。

 篤胤の死後、彼の甥たちが、記憶をもとに篤胤から聞いたことをまとめた『平田篤 胤よりの聞受書』というのがある。(以下『聞受書』とする)

 そこには、篤胤の言葉として、次のようなことが書かれている。

「山路は大雪だったので、人っ子ひとり見あたらず、道はなく、腹はすき、手足は冷 えて呆然とたちつくすばかりで、どうしようもなく、とほうに暮れていたところ・・ ・・」

 このままでは、凍死をまつほかはない、と絶望的な気持ちになったとき、不思議な ことが起きる。

「はるか、頭上の木のこずえのあたりから、『ひだり、ひだり』と、野太く重厚な声 で、三度教えてくれるものがあった。そのとき、雪の上を見ると、かすかに一筋の道 の跡のようなものが、左の方に見えたので、意を決して左にゆくことにし、(教えて くれた声の主に)一礼を述べてから、行ったところ、本道にたどりついた」

 もちろん、声の主が人間だったわけはない。ここは素直に神明の御加護があったの だと信じる方がふさわしい。篤胤自身も、神に助けられたと感じたことは確かなよう だ。

 おそらくは、こうした神秘体験が、江戸行きの旅の途中で一度ならずあったと思わ れるが、手元の資料には、それを証明するものがないのが残念である。

 江戸までの旅はまた、辛い無銭旅行というほかない苦労の連続だった。明治期の詩 人で「汽笛一声、新橋を・・・」などの鉄道唱歌の作詞家でも有名な国文学者、大和田建 樹が書いた伝記『平田篤胤』にはこう書いてある。

「あるときは神社のお堂に夜を明かし、あるときは古寺の軒下に夜露をしのぎ、朝夕 の食事も、おりよく食べている人に出会って物乞いができた時だけ食べて、餓死をま ぬがれ・・・」

 もちろん、このような辛苦の途次でも、彼はわずかな手荷物の中から、書物をひっ ぱり出して読書勉学することを怠らなかったであろう。苦境であればあるほど、読書 にうちこんで辛さを忘れようとしたに違いない。

 こうした苦労の末、江戸を目前にしたとき、各種の伝記にも一様に取り上げられ、 語り草になっているという「事件」が起きる。

 前述の伝記『平田篤胤』によれば、

「ようやく江戸に近づいたころ、ここに一つの渡し場があった。篤胤は無一文だった ので、船頭に腰を低くしてその旨を告げ、なんとかタダで乗せてはくれまいかと頼み こんだ。ところが、船頭は頑として応じないばかりか、あざけり笑いの言葉さえ発し た。篤胤は、再び声を出すことなく、その場で服をぬぎ、大小の刀とともに頭にくく りつけ、川を渡ろうとする。それを見た情け知らずの船頭も、さすがに気の毒に思っ て、改めて乗せてやろうと申しでたが、篤胤、大喝していわく 『見下げた奴め。今になって、そんなことをいうのか。私は、たとえおぼれ死のうと 、おまえの手など借りるものか』

 そうして、悠々と川を泳ぎわたり、その光景を見た人々は、だれもが驚きあきれた ということである」

 船頭にして見れば、大小は差しているものの、乞食のように粗末な格好で、しかも 元服前の髪型、言葉には出羽なまりがある、ということで、流れ者の浪人・生ざむら いかと、胡散臭く思ったことは想像にかたくない。

 おそらくは「乞食が武士のまねしやがって、ただ乗りしようってのかい?」ぐらい のことは、面罵しただろう。

 たとえ父親から、武士とは認められず、元服さえさせてもらえなかったとしても、 正吉は、武士だった。腰を低くして頭を下げて、町人の船頭に頼みこむのは、ある種 、激しい屈辱を伴うものだったろう。それを、おして頼みこんだのに、この応対であ る。頭に血が上るのも無理はない。

 かくして、正吉は江戸府内へと入る。この川渡りの一件は、その後の五年にわたる 苦学辛酸を予言するできごとであったように、筆者には思えてならない。

 独立独行、意地と志だけが頼りの、冷たい川水を割ってあえぎ進む日々。この後、 花のお江戸で正吉が経験する苦労は、決して「悠々と泳ぎ渡る」ようなものではなか った。

◎花のお江戸でどん底な苦学

 脱藩者・正吉として江戸に入ったが、もちろん非合法の入府なので、故郷・佐竹藩 の江戸屋敷に行くわけにはいかない。おおげさにいうなら、外国にいって自国の大使 館をあてにできない、現地で食いつなぐ生活をすぐに始めねばならなかったのである 。

 そこで、前髪を自分で剃り落とし、勝手に元服・改名してしまう。それが、いかな る状況下での作業だったか、橋の下だったか、旅篭の一室だったか、あるいは髪結い 床だったか、不明である。

 とにかく彼は、本来、親・家族の立ち会いと、縁者親戚の祝福とあいさつを受ける べき「元服」を、異郷でひっそりと、五年も遅れて、ひとり物に隠れるように実行し たのだ。

 この時より、正吉あらため「半兵衛」と名乗ることになった。大和田半兵衛である 。

『御一代略記』には、その辺の事情がかいつまんで記してある。

「ゆえあって、藩(の江戸屋敷)にも立ち寄らず、(江戸住まいの)朋友をも頼りと せず、ただ、心正しく義をわきまえた博学の良き師を得ようとして、さまざまな場所 に学びの場を求めては試み、あるときは学問のために時間をついやし、あるときは生 活のために雇われ仕事などし、また一時的に主人に仕えるようなことをして、四〜五 年をすごしたが、その間の艱難辛苦はたとえようもなかった」

 半兵衛が生活を開始しようとした当時の江戸は、天明の飢饉や大洪水、大風の被害 、ロシア艦船が近海に出没するなど、内外に問題多く世情不安定、不況も深刻なとき であった。

 寸暇を惜しんで書籍に向かう一方、自活を求めて職を探すが、なかなか見つからな い。できれば、読書と勉学の時間が、容易に取れる仕事が望ましかったが、世間の事 情はそうそう望んだ通りの職を、彼にゆるすはずもない。

 最初にやっと、ありついたのは大八車の車引きである。江戸で車引きというと、大 変な重労働である。なにしろ、江戸の町は、もともと武蔵野丘陵の一部だけあって、 緩急とりまぜた坂がやたらと多い。今日でも「赤坂」や「道玄坂」、「九段坂」など に、当時の名残がうかがえる。

 坂の登り降りは、荷物を満載した大八車では、かなりな肉体労働である。しかも、 雨ともなれば道はぬかるみ、掘割や谷型の地形は多いし、よたよたしていたら、すぐ に堀につっこんでしまう。

 車引きは、故郷で肉体労働になれていたはずの半兵衛にも、かなりな消耗をしいた 。疲労のあまり読書もできず、すぐに布団にもぐりこむ日々がつづく。これでは勉学 はならじと、まもなく転職する。

 転職先は、荒くれぞろいの「火消し」である。今日でいえば「消防夫」だが、当時 は気性の荒い「火事場解体業・壊し屋」といった方が正しく、なかば昔のやくざみた いな側面が多分にあった。

 そういう職場をなぜ選んだのかというと、火事のないときには暇になるので、読書の時間をまとめて取るには、好都合だったからだ。

 当初は、日当が高くて、しかも読書勉学の時間がとりやすい良い仕事だった。しかし、そこでも問題が起こる。

 火消しの生活の殺伐たる場面を見てしまったのだ。ある日のこと、仲間の一人が「頭」の意にさからったところ、ほかの仲間たちから殴打暴行で半殺しにされ、火がおさまったばかりの、まだ真っ赤に熾火が残っている火事場に投げこまれて殺された。

 このリンチは「ムシ死に("蒸し焼きにして殺す"の意と思われる)」といい、火消しの間での制裁行為だった。半兵衛はこんなところにはいられないと、すぐさま脱出する。あるいは彼自身、いつか自分も殺されると、身の危険を感じたのかもしれない。

 その直後に飛びこんだのが役者の世界。五代目・団十郎のもとに身をよせた。いわゆる当時の劇場の浄瑠璃語りの役者の一座に加わったのである。

 その辺の事情は、先にあげた『聞受書』に、篤胤自身の言として、こう書いてある。

「火消しをやめ、団十郎に奉公にいったところ、彼に大変に気に入られ、大縞の羽織など着せられ、もっぱらいい役者に仕立てようとの心づもりで世話をしてくれた。その当時は、私も浄瑠璃本の仮名遣いのあれこれを、団十郎(一家)に手ほどきできるぐらいの仮名遣いの知識はあった」

 もちろん、団十郎の好意にこたえて、彼の子女に読み書きを手ほどきする家庭教師の役をすると同時に、浄瑠璃語りの練習も、人に聞かせられるレベルまで、ひと通り達成したらしい。

 のちに『古道大意』はじめ、聴衆を前に講演することが多かった篤胤は、話術のうまさでも定評があったが、その原因は、この時期の浄瑠璃語りの修行が基礎にある。ころんでもタダでは起きないという気風が、彼の根底にあったからこそ、逆境をプラスにすることができたのである。

第三回:『』