第五回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(九)&(十)』

1.苦労人国学者・平田篤胤(九)

◎篤胤の「而立」

 文化二年(一八○五)八月、篤胤は、三十歳、すなわち「而立」の年齢に達した。この年、篤胤は『新鬼神論(のちに鬼神新論と改題)』を著し、松坂の本居大平と春庭に贈って「すばらしいできである」との返書を受け取っている。

 遺憾なことに、浅学な八神はこの『新鬼神論』はじめ、大半の平田の著作を読んだことがないので、それがどのような内容か、ご紹介できないのが残念でならない。

 ただ、六代将軍家宣に仕えて幕政に参画した有名な儒学者・新井白石(一六五七〜一七五五)が書いた『鬼神論』を意識した著作として知られているようだ。

 白石は、『鬼神論』で、人間の霊と魂の成り立ちや死後の行方について書いているから、『新鬼神論』も篤胤流の「霊魂・霊界論」であることが、容易に推察できる。もちろん、それが前述した『霊能真柱』の世界へと発展・拡大・深化していったのだろう。

 このことから推し量れば、すでに篤胤の中には、三十歳の時点で、ある程度、確固とした霊魂・霊界観ができあがっていたようである。そうでなければ、大学者・新井白石の向こうをはった著作を、若干三十歳で出すとは考えにくい。

 この「霊界・死後の世界(幽冥界)」についての探求心の深さと、関心の鋭さは、師匠の宣長にはなかったものである。「神や霊的存在は、いかにしてあるのか」「人はどこから来て、どこへ行くのか」というテーマは、彼の学問の動機のひとつであり、本質でもあった。

 その「真実」が『記紀』や日本の古代史記録にあると、篤胤は確信していたようだ。ただ、彼の場合、儒教・仏教の中にも、日本の古道の正しさを傍証するものがあると信じて、諸文献を渉猟していた側面もあるわけで、その貪欲なまでの追求の姿勢は、他者の追随をゆるさないものがあった。

 どれほど強い確信と追求の姿勢があったかは、『新鬼神論』に続いて三一歳の時に書かれた『本教外篇』という著作が証している。

 というのも、この『本教外篇(本教自鞭策)』、実はキリスト教のことを調べて書いたものなのである。完全に脱稿した著作ではなく、未定稿(原稿はできたがまだ推敲の余地がある)だが、当時の日本人が入手しうる外国人宣教師たちの支那本を、抄訳したりまとめたりした読書ノート的な著作である。

 このとき、篤胤が翻訳・抄訳した支那経由のキリスト教関係図書は、支那布教に後半生をささげたイエズス会宣教師マテオ・リッチの『畸人十篇』『天主実義』、同会アレニの『三山論学紀』、同会バントーハ著『七克』などという著作であることが判明している。

 鎖国の江戸時代に、決して入手しやすいとはいえない支那のキリスト教関係の書籍を、どのような難儀の果てに求めえたか、篤胤の苦労がしのばれる。

 さらに、ご禁制といってもいい、この種の資料を、苦心して手に入れた篤胤は、『本教外篇』の稿本自体を、しばらくの間、門外不出扱いとし、門弟にも閲覧を許さなかった。

 なぜ彼は、ここまでして、海外の宗教思想に手を広げ、知識を得ようと努力したのであろうか。

 先にも述べたが、篤胤には日本の「古道」を復興・発展させ、「本来の日本」を現成させんとする使命感があった。

 彼が宣長より継承した「本来の日本」観とは、すなわち「万邦の本源宗国」たる日本、世界の中心軸としての重大な役割を持つ、最古にして最大の「神国」日本であった。

 それは、今日的表現でいうならば「人類史的普遍性が結晶化した民族、また全人類の最善の規範として、神霊的な徳性を体現し続ける国家」としての日本であった。

 世界的普遍性を、日本の神道や皇室、歴史や伝統がもっともよく体現していると「直観」した篤胤にとって、日本が「神国」であることは「自明の理」であった。その直覚的洞察は、宣長の著作に触れた時点で、一気に結晶化し、決定づけられたことであろう。

 だが、彼ひとりが直観しえても、他人にそれを伝えるとなれば、話は別である。胸中に渦巻く確信と直観的洞察に、言葉にするのももどかしいような思いを抱きつつ、彼はおのれの「直観」の正しさを文章の形で論証せずにはいられなかった。

 それが、彼をして、神道以外の儒仏・蘭学・キリスト教文献にまで「傍証」を求めさせたのだ。さらに後年には、仏教以外のインドの文献にまで、研究対象を広げている。

 いわば、比較文化論的アプローチをもって、日本の優れた唯一無二性を証明し、国外の資料の中から傍証を捜してフィードバックするという、きわめて壮大な作業に着手したのである。

 一部の平田篤胤研究者の中には、『本教外篇』の存在をもって「篤胤はキリスト教の影響を受けて国学をつくった」と見る向きもあるという。だが、彼にとって、キリスト教の文献は「神国日本」を傍証する資料のひとつにすぎなかったと見るのが正しいだろう。

 現に、篤胤は『本教外篇』の五年後、『霊能真柱』の直前に書いた『玉だすき』という著作の中で、こんな一節を残している。

「外国のことをも知らざれば、大御国の学問とはいうべからず」

 当時の大半の儒仏の学者のように、自分の守備範囲さえ守っていればことたれりとする考えは、篤胤にはなかった。

「大御国」が「神国」であることを、日本の文献自体が証明するだけでなく、逆に外国の資料からも証明できないはずはない。篤胤の胸中には、そんな確信があったことだろう。

 他国の資料文献と比較検討する考究に耐え、なお「自他ともに認める」すぐれた国でなければ、宣長が追求し、自分も直観した「神国」ではない。篤胤は、きっとそう信じながら、筆を走らせていたはずである。

◎苦肉の医師開業

 こうして、独自のアプローチによる学問の方向性が定まり、深まっていったのだが、篤胤の現実生活の方は、逆に以前にもまして順調ならざるものがあった。

 藩主・板倉家からくだされる俸給米が、またも減額されたのである。

 そこで、篤胤は、藩につかえる手職のひとつとして身につけた医業で、なんとか経済的苦境を脱しようとこころみる。

 ときに三十二歳、「元瑞」を名乗って、医者の看板をあげることにした。娘・千枝子を連れて、自宅とは離れた場所に転居し、医業を営みだす。

 なぜ、自宅ではなかったかというと、養父・篤穏が、大の医者ぎらいだったからである。もともと、篤穏の実家は、れっきとした藩医である。篤穏は長男だったが、医者を嫌うあまり、弟に家督をゆずって自分は軍学者の平田家へ養子にきた。理由はわからないが、とにかく篤穏はそれぐらい、医者嫌いだった。

 もちろん、篤胤に「医者をやるなら、よそでやってくれ」などと告げたはずはないから、篤胤が養父の心を気遣って、わざわざ店賃のかかる借家開業をはじめたのだろう。

 いざ、開業してみたものの、期待に反して客がまったくない。それというのも、当時の江戸には医者仲間の組合があったのだが、その俗陋なしきたりや、理不尽な縄張り問題などに愛想をつかし、「元瑞」先生は加盟しなかったからである。

 そうして一年ばかりが過ぎたころ、先に亡くなった常太郎につづく男児が生まれる。その子には、自分の自主元服時の名「半兵衛(のちに又五郎と改名)」を与えたが、生来の病弱で、父として医師として最善をつくしたのだが、なかなか健康にはならなかった。

 この年、文化五年、三十三歳の篤胤の身に、思いもよらなかった僥倖が訪れる。

 七月、皇室神道をつかさどる神祇伯(神祇省長官=神職の総本家)の白川家から、ある重要な依頼が、篤胤のもとに寄せられた。

 白川家というのは、六五代花山天皇(九六八〜一○○八)の皇子・清仁(すみひと)親王の子、延信(のぶざね)王の代より、世襲で宮中祭祀を担当する由緒正しい家柄である。位階は、正四位下というから、文字どおり、「神祇伯王」と呼ばれる、やんごとない家系だ。

 この白川「伯王」家は、吉田神道で有名な吉田家とともに、当時の日本全国の神職の任免権を二分するという、神道界の一方の雄であった。

 つまり、日本じゅうの神職の半数は、この白川家の管掌のもとにあったわけで、あだやおろそかな応対のできる相手ではなかった。

 では、そんな由緒正しい神道宗家から、篤胤に依頼された内容は、どのようなものだったのだろうか。それは、「諸国にいる(白川家管轄下の)神職たちに、古道の専門家として教授(指導)してもらいたい」というものだった。

 このとき、私塾「真菅乃屋」の門弟は十名を数えるだけだった。それに比して、篤胤の「古道」学への造詣の深さと、斯界における名声の高さは、すでに相当なものだったことがわかる。

 この依頼を受けて、篤胤はさっそく白川家配下の神職たちに教授するにあたり、学ぶ者たちの心得ともいうべき、白川家の『学則』を全面的に改訂し、上呈している。もちろん、はりきって名誉にかけてがんばったことだろう。事実、この『学則』校訂には、相当な精力をそそいだらしく、今日でもその草稿が残っていて、推敲の跡も激しいという。

 古学の唱導者として、急速に名声がたかまっていく一方、医者「元瑞」の仕事の成果も、篤胤は器用にまとめあげている。『傷寒雑病論解』という医学書の草稿が、このころ成っている。

 翌年、三十四歳から、篤胤は「真菅乃屋」での講義を、塾内部(内会という)だけでなく、無学文盲な外部の一般庶民(外会という)に対しても講演するようになった。

 おそらくは、神道界の権威である白川家から「教授」の依頼があったことで、おおいに自信を深めたのだろう。一般大衆にもわかる平易で受け入れられやすい口語で、古道を講演する機会をもうけ、それが増えていった。

 先にも述べたとおり、篤胤は半兵衛時代に浄瑠璃語りを修行しただけあって、その講演の口調は流れるごとく、能弁であった。しかも面白く語って気をそらさない話術がたくみだった。むつかしい学問の話も、わかりやすく解説してくれるので、聴衆からは好評で、かなりの人気があったようである。

 ただし、いくら面白いとはいっても、その公開講座の内容は、落語や浄瑠璃などの大衆芸能・エンターティンメントではない。

 この講演会で、篤胤は古道の優れた点を鼓吹し、熱弁ふるって儒仏を批判し、俗化した既成神道を厳しく指弾した。そのあいまあいまには、息抜きに古道にからめた和歌論や、医者としての知識から、医学についての批判・講釈もおこなった。なかなか、芸達者である。

 該博な知識と圧倒的な話術で、古道を説明してもらえる一般の聴衆には、たしかに、それはすばらしい講義だった。が、同じ話の中で縦横無尽に歯に衣着せずに批判される側、すなわち儒仏学者・医者の方にしてみれば、たまったものではなかった。

 篤胤の痛烈で的を射た批判には、当然のごとく、批判される側からの猛烈な反発があった。だが、篤胤は、既成の学者側の激しい反論・反撃にさらされても、相手の反論の激しさにひるむどころか、かえってさらなるファイトを燃やした。相手をはるかにしのぐ博識をもって反論を述べ、バージョンアップしたレトリックをくわえた再批判で、論敵を撃破していったのである。痛罵・罵倒のごとき舌戦を繰り広げることもしばしばであった。

 こうして篤胤は、過激なまでの舌剣によって、多くの味方と多くの敵、そして名声とを得ていったのであるが、すべては「神国日本」を証明する「古道」ゆえであった。

1.苦労人国学者・平田篤胤(十)

◎逝く篤穏、講ずる篤胤


 多くの味方と敵をつくる講義と筆戦舌戦を続けるなか、三四歳の篤胤は、医者を廃業し、現在の東京・銀座五〜六丁目にあたる山下町に引っ越しをした。

「真菅之屋」の公開講座は、そこで引き続き行われ、『古道大意』をはじめとする「○○大意」と名付けられた「大意もの」と呼ばれるシリーズを、次々と平易な口語で説ききかせていった。

 実は、この「大意もの」のほとんどには、弟子の名で「この本は、門人たちが、平田篤胤先生の講義を筆録した」との序文がついているが、実際は、弟子たちの筆録本ではない。

 序文こそ、それぞれの本の出版に尽力してくれた弟子たちに華を持たせる形になっているが、本当は、篤胤は公開講座をはじめる前に、一字一句たがわぬ完璧な「読み上げ口語原稿」を書いていたのである。

 つまり、講座で発表する前に、すでに完成原稿があって、それを講座で発表したのち、ただちに出版できるばかりにしていた。そのために綿密で周到な準備と、原稿の作成がおこなわれ、篤胤はその作業になみなみならないエネルギーを費やした。

 公開講座に大変な精力を注ぎ、一般の人々の間でも名を高めてゆく一方、家計の逼迫は相変わらずで、そんな中、養父・篤穏が、ついに七七歳で逝去する。死因は老衰で、織瀬や篤胤の看病もむなしく文化六年、十一月六日、病によって没した。

平田家は非常に貧しかった。篤穏の葬儀は、早い時間におこなわれたため、参列者も少なく、必要な器具や野辺送りの様子も、いたって粗末なものだったようだ。

 身内は、篤胤夫婦はじめとして、たった六名、あとは近隣の知人をいれても、二十人に満たないつつましさだった。

 そのときの、篤胤直筆の葬儀用の書き付けが残っており、そこには葬儀の費用明細がこう記してある。

「薄い箱、丸蓮台、高提灯二張、仮位牌、たらい、ひしゃく、縄、ござ、しめて代金一歩二朱(約一万二千五百円)」

 最低限の葬儀であり、藩の兵学師範の家柄の葬儀としては、とても考えられない貧弱さだった。

 大恩ある義父・篤穏に対して、できるだけ心を尽くして送ろうと、篤胤は思ったに違いない。が、家計の貧窮いかんともしがたく、おのが経済的非力さに歯がみし、情けなさと申し分けなさを味わいながらの葬儀であったことは、想像にかたくない。

 そのような現実生活の貧窮と、忍苦の面を別にすれば、篤胤は脂の乗った弁舌・才気ともにあふれる古道学のホープであった。

 文化八年、篤胤三十六歳。山下町へ本格的に家族ともども住居を移した彼は、織瀬、千枝子(六歳)、半兵衛(三歳)と四人で暮らしはじめる。

「真菅之屋」の門弟数も、年に二〜三人と開塾以来、ぽつぽつと漸増して二○人を数えていた。

 この時期の篤胤の公開講座における論議は、論敵を次々と破るめざましいものだったようだ。

 なにしろ、儒学者をへこますのに、膨大な漢学の知識をもって臨むのだから、勝てるものがいない。仏教非難にいたっては、七万六千巻の「大蔵経」を三回も通読した上で、仏教のよからぬ点を指摘するという、常人離れした周到さだ。

 この年、篤胤はこうした論戦の台本ともなった公開講座の原稿をまとめ、校訂した上で、続々と発表した。前述した「大意もの」のシリーズである。

◎「大意もの」連続出版の開始

 その第一弾は、『古道大意』上下巻だ。巻頭文にはこう書いてある。

「今、ここに演説いたしますのは、古道の大意で、まずその説く所は、当方の学風を「古学」と申すゆえん。また、その古学の源、および、その学を興して人に教え、世間に広めた人々の伝えてきたことの大略。

 また、その依って立つ所や神代のあらまし、神の御徳のありがたいゆえん、御国が神国であるといういわれ、さらに、われわれ下々の者にいたるまで、日本人は確かに神の子孫である由来。また天地のはじまり、いわゆる開闢(かいびゃく)より、至って畏れ多いことではありますが、御皇統が連綿とお栄えあそばされ、万国にならぶ国なく、ものごと全般が他のあらゆる国よりも優れていること。

 その上、御国の人々は、神国の民である故に、ごく自然に正しいまことの心を備えております。その心を、昔から「大和心」とも「大和魂」と申しますが、これらについてもあらまし申し上げる次第です。

 さらに、(記紀などの)神代の神々の御伝説や御所業は、今の凡人の考えで見れば、はなはだ奇怪で信じがたく思われるところですが、そういう見方が間違っていることを諭してまいります。

 右のような事柄について、申し上げて行く中で、『まことの道』というものが、どのようであるかも、講説自体にこめられておりますので・・・・」


 このような出だしではじまる『古道大意』の内容は、師の本居宣長の代表的著作である『直毘霊(なおびのみたま』『古事記伝』ならびに『霊能真柱』著作のモチーフともなった服部中庸の『三大考』の影響が、色濃く見てとれる。

『直毘霊』は、宣長四一歳のときの著作で、ここでいう「古学(復古思想)」の総論と、現代でも評されている。

 その内容は、真理を意味する「道」という言葉について、それが、支那の「あげつらい」であるという主張だ。

 すなわち、日本にはもともと「道」という言葉はなかったけれど、「道」そのものが当たり前のこととして実践されてきたので、わざわざ言葉にする必要はなかった。

 また、支那の王朝は、日本の皇室に、はるかにおよぶものではなく、「道」という真理を、言葉にしなければならなかった分だけ、支那は日本より劣っていると、宣長は書いている。そういった論を主軸に、皇室と日本の素晴らしさ尊さを説明しているのが『直毘霊』である。

 次に、篤胤が著したのは、講演原稿「漢学大意」を校訂した、『西籍概論』全三巻である。当時の儒学者の間に蔓延していた「中華第一主義」「中国文化崇拝」を徹底的に批判・指弾し、自分の国の皇朝と文化を尊ぶべき旨を、強く主張した内容になっている。

 この著作もまた、宣長六○歳のときの『馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)』から強い刺激と影響を受けているのが見てとれる。

『馭戎概言』は、日本と支那・朝鮮の外交史やそれぞれの国の歴史を比較しながら、日本の尊貴さを証明するという内容になっている。篤胤にとっても、重要な参考書だったことはまちがいない。

 続いては『俗神道大意(巫学談弊)』だが、この本は、篤胤が「俗神道」と定義した両部神道(真言密教と習合した神道)や唯一神道(吉田神道。皇室ゆかりの伯家神道をさしおいて唯一宗源神道を名乗った)などを排撃し、論難を加えた著作だ。

 篤胤にとって、仏を主(本地)、神を従(垂迹)とする、いわゆる「神仏習合・本地垂迹」説を採用する神道は、似非神道にほかならなかった。

 また、皇室を出自とする神祇伯王家をしのごうと工作し、日本の社家の半分をおさえた吉田神道にいたっては、「唯一神道」を名乗るもおこがましい、僭越無礼な反皇室の一派と映ったであろう。

 当時は、天台宗と習合した「山王一実神道」や儒学と習合した「吉川神道」「垂加神道」なども、それぞれ一派を為していたから、篤胤が論難批判するべき「俗神道」の相手には、ことかかなかったようだ。

「仏教」「儒教」の影響をとり入れた「神道」は、彼にとって「不純な(俗化した)神道」であり、皇室と日本の未来を背負う「純正神道」こそ、彼に教授を依頼した「伯家神道」であるべきだったのだ。

 余談だが、この「俗神道」「純正神道」という考え方は、のちに明治維新をも生き延び、終戦まで神道界に強い影響を与えている。

 しかし、篤胤がもっとも、批判に力を注いだのは、なんといっても、庶民レベルまで、しっかりと浸透していた「仏教」である。江戸時代の勢力比較でいえば、純正・俗を問わない「神道」は、圧倒的に仏教の下風に立たされていた。

 今日でこそ、多くの神社は、神道的様式をたもち仏教色をぬぐい去っているが、江戸時代はそうではなかった。「神仏習合」が当たり前で、各有名神社の境内には「神宮寺」という寺が建てられ、神社と寺が同時に存在していた。

 しかも、神宮寺の僧侶(大半が天台・真言の二宗)の方が、非常にいばっていて、社側の神官たちを、まるで雑役のように扱い、いやしめていたという。そのため、江戸時代を通じて、神社側の神官・神職たちの僧侶・寺への怨恨・憤怒の蓄積は、はなはだしかった。

 それが原因となって、明治期の「神仏分離令」による廃仏棄釈運動で復讐の炎が燃え上がることになった。神宮寺は、神徒側の襲撃・破壊・放火・略奪を受け、その多くが失われたのである。

 このような、神社をしたがえるほど強大な力を持っていた仏教を、篤胤が論難しないわけがなかった。稿本『仏道大意』をもとに、彼は『出定笑語(しゅつじょうしょうご)』(全三巻)を発表する。

 この書は、宣長の仏教批判の説をベースにしているが、仏教批判を展開した儒学者・富永仲基(とみながなかもと・一七一五〜四六)の『出定後語』や、儒学者・服部蘇門(天游・てんゆう)の著書などを調べて取り入れ、まとめあげたものだ。

『出定笑語』の内容は、渾身の筆致で、以下のようなことが、書かれている。

 まず、仏教の生まれた背景である、釈迦の生地インドの地理風土、風俗、伝説、釈迦の生涯、すべての仏典が、釈迦の手によらない後世の偽作であること。ならびに、支那・朝鮮・日本への、それぞれの仏教伝来の歴史と経緯、日本の仏教のそれぞれの由来などである。

 もちろん、それらの概説が本題なのではない。背景を詳述しながら、いかに仏教が信じるに値しない誤謬の経典だらけであるか、日本人の精神生活に悪影響を与えているかを、熱烈に説いている。

 実は、筆者・八神も、この『出定笑語』を読んでいるのだが、篤胤の筆づかいが、とても楽しそうなのに驚かされる。

 実に、うれしそうに仏教を解説し、経典の矛盾や、皇室中心の日本の「古学」と、いかに相いれないか、いかに有害かを、一種、肩の力をぬいた口語で、はっきり指摘し続けている。

 仏教批判が、楽しくてならないといった趣があり、たしかに「笑語」である。

 この他に、『歌道大意』という書を、篤胤は著している。これは「歌(和歌)をはじめるとき、歌を詠むときの心がけ、万葉家や唐詩(漢詩)家の由来、また歌物語などを読むときの心得など、総じて歌の道を習おうとことに関して説く」という内容だ。

 これ自体は、宣長の和歌についての諸説や、先輩弟子たちの議論などをまじえつつ、篤胤独自の和歌観を提起している。

 さて、ここで篤胤が、これら「大意もの」の講演本の著述に励んでいるときのエピソードをご紹介しよう。

 著述に没頭している篤胤の書斎の入り口には、無用の来客や用事にさまたげられることがないよう、次のような貼り紙がしてあったという。

「口上。当節、特別に著述を取り急ぐにつき、学問や道の追求以外の話、世俗の無用な長話等はごめんこうむる。塾生といえども、学問に関すること以外は、こちらから呼ばない限りは来るべからず。(ただし)学問・道についての議論・質疑ならば、終日終夜の長談義であっても、いささかもいとわない」

第六回:『』