☆ 終章 子供たちはいかにこわされたか
最後に、現在の日本の教育の問題に関して、サタニズムがどのような経過で発現しているかを解説し、本書の結びにしたい。
サタニズムがもっとも効果的、かつ劇的に働くのは、頭がやわらかく人格が安定しない児童生徒に対してである。
子供たちが「キレる」のはなぜか。少年犯罪が激増し、若者たちが年長者への敬意をもたずに「オヤジ狩り」をするのはなぜか。その謎を解読するには、サタニズムという暗号を用いなければ答えがでない。
前提として知っていただきたいのは、いまや日本の子供たちほど、世界じゅうで「人権」が保証され、守られている国はないということだ。むしろ、守られすぎて暖衣飽食が当たり前、親にも叱られないというありさまである。厳しいしつけによって、秩序感覚を植えつけられない子供たちというのは、実はこの上ないサタニズムの好餌なのである。
では、諸外国の子供たちの人権はどうなのか。残念ながら、ひどい状態の国が多い。さまざまな宗教や人権機関・団体があるのに、子供の人権蹂躙の問題は解決されるどころか、深刻化の一途をたどっている。人権など、まるで無視された子らの方が、圧倒的に多数なのだ。
子供にかぎらず、日本ではもはや、ことさらに人権を叫ぶ必要はない。すべてに恵まれた人間が、なおそれ以上を望み、不平をいうのは、明らかにゆきすぎというものだ。過食症が病気であるように、人権主義のゆきすぎも病の一種だ。それでもなお「人権」をおおげさにわめきたてる者は、外国のことを知らない無知な人間か、「人権」を叫ぶことでなんらかの利益を得ようとする「人権商人」どもだろう。
日本の子供たちと、よその国の子供たちの、もっともひどい落差のあるケースをご紹介しよう。東南アジアや南米、南アフリカなどの話だ。そこでは、十才にも満たない何百万人ともいわれる子供たちが、親に捨てられ、あるいは家出してホームレスになっている。彼らは<ストリート・チルドレン>と呼ばれ、残飯をくってゴミをあさりながら生きている。
中には、大人にまじった幼児が、建設工事現場で、オモチャのような猫車を押して土砂を運び、奴隷さながらに働いているケースまであるのだ。リンゴ箱のような木箱の上に、青果市場で捨てられた果物のうち、ましなものを拾ってならべて売る子供がいる。「将来の夢は?」ときくと、笑って「自分の店をもつこと」と答える。これが世界の現実だ。女の子たちも、日ならずして幼い体を売るのが、当たり前になってしまう。エイズが怖いので、最近の欧米白人や日本人の買春客は、ロリコン趣味も手伝って、年端もいかない幼い娘を選ぶようになっている。
南米では、こうしたストリート・チルドレンが、ハエやドブネズミのように、次々とたたき殺されている。観光上、悪いイメージを与えるというので、商店主たちがひそかに金を出し合い、民兵をやとって撃ち殺させている惨状がある。小動物じみたすばしこさ、したたかさ、たくましさを持ち合わせた子供たちではあるが、シンナー常習者で、昼からラリッている子も多い。劣悪というも愚かな、明日をも知れない命であることに変わりない。「人権」というのは、こういう劣悪な奴隷労働に従事し、なぐさみに虐待され、シンナーにおぼれるほかに道がない子供たちにこそ必要なのだ。
本書の執筆中、日本全国でバタフライナイフだの文化包丁だのエアガンで、他人を殺傷する少年犯罪が頻発しマスコミをにぎわせた。豊かで恵まれているはずの日本で、イジメによる共食い犯罪から、ついに対象無制限の本物の犯罪に、事態が拡大悪化したのである。
これが戦後の民主主義教育の美名に隠れたサタニズム汚染の結果である。戦後教育は明らかにまちがっていたのだ。マスコミから国民の個々人にいたるまで、敗戦でひどい目にあった恨みつらみから、日の丸や君が代、皇室を否定するのは、もうやめるべきだ。
戦前戦中は戦後より悪かったと、左翼民主主義者たちはいうが、それは本当なのか。戦前の日本人に比べ、戦後の日本人は、立派でましになったと断言できるのか。物質的には確かにそうだが、問題は精神性である。現代の日本人が、戦前戦中の日本人よりも、徳が高くなり、志操堅固で義理人情にあつくなっていると、いばれる者がいたら、出てきてもらいたい。
負け戦の恨みつらみを、国家や皇室にぶつけるという、うじうじしてネガティブな姿勢、自虐的な自国否定こそ、今日の「キレる」子供たちの祖父母や親たちの土壌だ。まずその世代のものの見方から変わらなければ、子供たちが変わるわけがない。
何も知らない人たちはいう。日本では子供の人権が、あるべき体罰をひかえるほど守られたのに、なぜ子供たちは荒れ狂うのか。答えは逆なのだ。大事にしすぎたのである。甘やかしすぎれば、子供がスポイルされることを、親たちは知らなかったのだろうか。
あきれたことに、マスコミや加害者の周囲は、ごく普通の子が少年犯罪を起こしたと騒ぐ。だが、私は信じない。筆者が中学時分のころの「普通」と今の子供たちの「普通」はちがう。今は親が甘やかして、子供をスポイルすることが「普通」になってしまっているのだ。
そのことが、はからずも「加害者は、普通のおとなしい子」という言葉に表されている。「おとなしい」のは、甘やかされている状態下だけのこと。わずかでもまっとうな教育をほどこそうとすると、「キレる」。まるで野生の馬である。なぜなら、鞍をつけて調教しようとすると、野生馬は狂暴な抵抗を見せ、あばれ馬となって人を蹴り殺すからだ。つまり彼らは、人の形をしているが、中味は何のしつけもされていない野生動物に等しい。
このように、実に簡単な因果関係なのに、だれも指摘しないのが不思議でならない。もちろん、「キレる」理由はそれだけでなく、いじめを受けつづけて、ストレスが蓄積し、ある日とつぜん爆発するというケースも多い。
「キレる」からといって、そのすべてを、本人が甘やかされたせいにするわけにもいかない。今あげた「野生馬」タイプなのか、「ストレス爆発」タイプなのか、あるいはもっと別な理由で「キレる」のか、原因をしっかりと見分ける必要があるのは確かである。
前述したように、「キレる」という現象は、戦後民主主義体制における「家族」「学校」「友人関係」のすべてに、病巣が存在することを意味する。いわばダイレクトな形で発病していると見ることができる。
いじめに走って、クラスメートを死にいたらしめる子供たちは、その親にまでさかのぼって対策を立てなければならない。サディスティックな子は、その親から虐待されたり、なんらかの受容しきれない家族間のストレスを、日常的に受けているケースが多いと聞く。
その意味では、自殺に追いこむ形で人を殺す加害者の生徒の親は、間接的に被害者を殺害したことになる。こうした構造的な家庭崩壊があらわなのに、民主的な人々は、戦前戦中の教育より、戦後教育の方がすぐれており、進歩的だったとまだ主張するのだろうか。
筆者自身のお恥ずかしい体験をいえば、八歳のころ、オモチャ欲しさに叔父の財布から金をくすねたことがばれ、両親から半殺しの目にあった。今ならまちがいなく児童福祉相談所か家庭裁判所にもちこまれるような、すさまじい折檻だった。直後に病院の外科で手当てを受けたほどである。今でも、そのときの父親のタバコでつけられた数十箇所の火侮や切り傷の跡が、全身に点々と残っている。
それから、一、ニカ月間、筆者は異常な行動をとった。ナイフやカミソリを持って、家の中の布団やベッド、ざぶとんなどを、少しずつ切り裂き、十センチくらいの長さで、あちこちを傷つけてゆくのだ。原っぱに出て、生い茂るヨモギなどの丈高い草を、竹の棒でたたき折るのに、夢中になったこともある。人を傷つけるかわりに、物を損壊することに快感を覚えていた。
親が「こんなところに切れ目がある、あそこも裂けている」と、驚いていたが、筆者はたずねられても、知らぬ存ぜぬを通した覚えがある。もちろん親も、うすうす私だとわかっていたらしい。ひどく不思議がっていたが、おそらく自分たちの折檻が、そういう行動の原因になったのだとは、想像できなかったのではないだろうか。
親にしてみれば、半殺しであろうとなかろうと、たった一回の折檻である。しかし、子供にとっては、その一回の出来事が、一生の心理外傷となって残ってしまうことがある。大人にとっては、てのひらに載る重さでも、子供にとっては、這って歩くことさえできない荷物になる場合がある。
児童虐待の被害者となった子供たちの精神衛生について、私がたいへんな危惧の念を持つ理由がここにある。彼らが、ちゃんとした大人になって、子供を正しく育てられるかどうか、暗澹(あんたん)たる想いを禁じえない。もちろん、私の親自身も、貧困や家庭内のいざこざという、大変な難題とストレスにさらされており、そういった家族間の軋轢(あつれき)が、いっぺんに子供に向いてしまった事情はある。
すると誰が悪いのか? 元をたどれば、神仏などまるっきり信じず、酒びたりで、朝から晩まで、祖母と夫婦ゲンカをくりかえしていた守銭奴の祖父に行き当たる。この祖父というのが、日露戦争の年に生まれたわりには、金持ちの家の四男だったせいか、十代半ばにしてすでに売春宿にいりびたっていたという放薄者。
酒と女で体をこわしたため、徴兵検査にも合格できなかった。とにかく、酒と金と女にいやしく、隣近所の鼻つまみもので、冠婚葬祭の義理金も値切りに値切り、ケチりにケチり、タダ飯タダ酒にありつける場所なら、どんなところでも最後の一人になるまでいた。タバコ好きだが、人といっしょの時には、かならずもらいタバコですますという強者だった。
毎晩のように、両手に焼酎と日本酒の一升瓶をそれぞれもってラッパ飲みし、一晩中、悪態をついて罵りまくり、夜明けには二升ともほとんど空という生活。昼は昼で、祖母と蛇蝎のごときケンカを繰り広げるという修羅の家だったのである。
家の恥だが、母が嫁にきてからは、この祖父が風呂をのぞく、息子(つまり筆者の父)が出稼ぎに出ているすきをついて、あろうことか嫁に夜這いをこころみさえした。当然のごとく、母は悲鳴をあげて逃走したが、祖母に発見されててんやわんやといったこともあった。
つまり、神仏どころか、人の道さえ関係ないような、けちくさい獣性人間の非国民だったわけで、筆者はその孫として、思いだすだに身が縮む。こういうアナーキーでニヒリスティクな人間が家長となっていた家庭で、私の父もふくめた息子や娘たちの教育が、いかなるものであったか。
要するに「可愛いから叱らない」という、ほったらかし教育。悪いことをしても、いっさい罰することなく、尻のひとつもたたかない。客がやってきて、その前で不作法しても非礼をしても、叱言ひとついわない放任ぶり。長幼の序などどこふく風、祖母の教育も「体が丈夫で、将来、金を稼げればそれでいい」という、道徳教育など皆無である。とにかく、「金さえあればいい」「家と田畑があれば、礼儀作法、義理人情、教養なんかどうでもいい」という点では徹底していた。
あげく、長男の父は酒に意地きたない酒乱となり、四人あまりの叔父たちは、祖父の欠点を、それぞれ何点かずつ分割して、酒乱、好色、粗暴さを受け継ぐという劣悪ぶり。中には、完全なエゴイストとして生きたあげく、ギャンブルに凝って借金づけになり、ホームレスになって行方知れずという人物まで出る始末。
いずれも、礼儀作法・教養・一般常識をわきまえない野良育ちの粗暴さ、粗雑さが抜けない。対人面では外面だけがよい二重人格者で、内では妻子を虐待し、ひどい場合は逃げられている現状である。父方の叔父全員が、酒癖の悪さや手癖、色癖の悪さ、人格の低劣さで子供たちから憎まれ、嫌われる父親になっている。
ここまで家の恥をさらすのは、この筆者の生家で起こったのと同様の劣化が、日本全国で広がっていると言いたいからだ。筆者が、現在の日本という国家と次世代に、家庭崩壊という意味で大きな危慎を抱き、本稿を執筆した動機はここにある。
神仏を意識せず、人生でもっとも大切なのは金で、子供の教育は放任、おのれの欲望に歯止めをかけない。こういった人間が、家長になった場合、その家は三代ぐらいで血統が絶える可能性が非常に高い。この種の価値観の持ち主が、現代人にどれだけ多く存在するか、考えただけで肌が粟だつ。
いつの時代も唯物無神論、金銭至上主義、徳性欠損の生きかたを身につけた人間は、家系を滅ぼし、数が多くなれば国を滅ぼすことになる。そして、日本は明らかに、高度経済成長の裏で、その道を歩んできた。これは、筆者が生い立ちの中で肌身で感じてきた、恐るべき結論である。
「学級崩壊」が「家庭崩壊」ひいては「社会崩壊」につながってゆくという予想は、以上のようなことから導かれる。わがまま放題に育った子供たちが、大人になったなら、私の祖父や父たちのようになってしまう。それが多数派ならば、くりかえすが国家の滅亡である。
現代日本の病巣である、いじめ、いじめ殺人、児童虐待、不倫、家庭内暴力、アルコール依存症…・これらのすべての要素を、筆者の一族は内包している。
その原因をたどると、神棚をたたき割って燃やし、氏神の祠がこわれて跡形もなくなっても、四十年間もほったらかしにした祖父と父の、不信仰・不敬不遜ぶりにゆきつく。そのため、筆者が氏神を再建し、祖父と父の二代に渡る非礼無礼を、神におわびすることになった。
アナーキストの祖父に育てられた父の口癖は「人間は死んだら無になる。死後の世界だの、霊だの、神だの、そんなものはない」。祖先を敬うなんてことはまるでなく、仏壇の線香立てを灰皿がわりにし、タバコの吸殻を平気で捨てるのが日常茶飯事。あげくの果てには、つまらない理由から事業に失敗して、借金の山が残った。
要するに、伝統や徳性、地域社会との調和、歴史的な秩序感覚に関して、全く無知・無理解で通している。当然のごとく、霊的因縁や因果応報も視野になく、聖なるものと俗なるもの、清さと汚れの区別も、物質的な不潔清潔を越えるレベルになると、とんと考慮にのぼってこない。
そのせいか筆者の父親というのは、こらえ性のない瞬間湯沸器タイプで、すぐにかっとなって粗暴な行動におよぶ。不安や恐怖を、怒りと暴力に転嫁する以外に、感情の処理の仕方を知らない幼椎な人間である。
おまけに身のほど知らずな科学信仰の人だから、まさに本文であげたサタニズム学説に、どっぷりとつかっているバチアタリ人種である。もちろん、彼は神仏や霊的な存在、歴史や伝統、文化芸術など文系の知識全般に、信頼をおかず軽侮の念を抱いているくらいだから、とにかく人間の頭が考えた理数系の人知が最高だと信じている。
自分は頭がいい、優れていると自負する人間とは、こんなに愚かなものかと、父親を見るたびに思わざるをえない。ユダヤ・エリートや欧州王族・貴族たちに根づいた選民思想もまた、根源は同じ愚かさを露呈しているのかもしれない。
それにつけても、どうして筆者のような人間が、こういった唯物主義者の系譜から生まれたのか、まったく謎というほかはない。筆者の父方は、こういったトンデモ家系だが、母方の祖父母はまるで逆で、『巨人の星』の星一徹さながらの厳格スパルタ教育だったという。しつけは目から火花が散るような体罰の連続で、まるで軍人教育のように、すごい厳しさだったと、母がいまだにこぼすほどだ。
しかし、戦中戦前の父親というのは、学校教師もふくめて、基本的に「こわいもの」であって、当時の教育環境としては、母方のありようがごく自然だったのである。
今の子供たちは「こわいもの」を感じずに育っているため、人に畏敬や恭順の念を抱くということを知らない。いわば不敬不遜、傲慢で自意識過剰な精神性を身につけてしまっている。これまた父方の甘やかし放任教育と、ぴったり符合する。
私の父方のケースはともかくとして、教育のありかたについて、戦前生まれと戦後生まれとでは、明らかな相違がある。その辺のところを、ちやんと把握した上でないと、今日の家庭の問題や教育についての意識は、なかなか変えられないだろう。
本書では学校教師について厳しく指弾したが、本当は親御さんたちにも、言いたいことは山ほどある。教職にある読者の誤解を招かないよう、教師が一方的に悪いわけではないと、この場でおことわりしておきたい。
だれだってわが子が可愛いし、「うちの子にかぎって」と思いたいのは分かる。が、本当にまっとうな親なら、何かあったとき「やはり、ウチの子が悪いのでは」と考え、親元を離れているなら「何も悪いことはしないでいてほしい」と願うものではないだろうか。「ウチの子にかぎって」という親を見ていると、どうして自分の教育に、そこまで自信が持てるのか、不可解でならない。筆者の祖父母のように、可愛いから叱らないでは、子供や孫ができそこないになり、家の絶える確率が、飛躍的に増大する。
筆者が、甘やかし放任教育にならないよう力説するのは、先に述べた通り、現実にそういった教育を受けてきた祖父や父親を持っているからだ。厳しすぎるしつけを受けた子より、甘すぎる放任にゆだねられた子の方が、社会に対し、家族に対し、はるかに多くの害毒を与える。サタニズムとは、人間をダメにし、できそこないにするすべての弱点に係わってくるのだ。
子供のうちは、なにごとも可愛いですむ。しかし、大人になって親になり、次世代にバ,トンを渡す役目になったとき、ちゃんと親の責務を果たせるかどうか。それが、社会にとって国家にとって、大問題となる。
それゆえ、めぐまれすぎた上、わがまま放題に他人を殺傷するタイプのキレた少年らには、人権なんてものを持ち出す必要はない。色々と手をつくし、更生させようとする努力が報われない場合は、大人なみの刑罰が必要だ。子供が大人をなめきって、畏れを知らぬふるまいにおよぶなら、それは子供ではない。ただの「ガキ」である。昔のまっとうな親なら、ガキには鉄拳制裁が当たり前だった。
児童虐待する親になりきれない人たちと同じく、子を甘やかして育てる親たちもまた、世に災いをふりまき、放火しているに等しい。親バカのゆきすぎは、すでに社会犯罪なのだということを、なんとか自覚してほしいものである。
悪いことをしても、親にひっぱたかれずに育った人間は、すべてとはいわぬまでも、十中、八、九、できそこないのろくでなしになる。筆者の家にあった環境と同じ現象が、不幸にして全国展開され、如実に発現している。
子供を甘やかさずに、叱るべきを叱り、ほめるべきをほめて育てないと、子々孫々まで後悔の種、家の恥となるのである。体罰をひかえて青てられた子供は、最悪の場合、刑罰によって埋め合わせをする大人になる。尻をひっぱたくのを控えたために、十数年後に刑務所に入り、刑法による制裁を受けるようになってしまうのだ。
しつけ不十分の子供は、社会に迷惑をかける形で、親兄弟を苦しめ、恥をかかせる存在となる。親のしつけの怠りは、必ず子によって復讐されることになっている。もっとも大きな代償と報いを受けるのは、正しい教育をほどこさなかった親そのものなのだ。
教師のあるべき体罰にまで、とやかく口うるさくいい、教育委員会にねじこむアホ親を減らすことがまず先決だ。筆者の父方の祖母が、そういう人だった。わが子可愛さという「私事」と、他人や社会に迷惑をかけないという「公事」と、どっちが大切なことか、親自身が考えなおす必要がある。
それをやらない限り、この日本から少年の凶悪犯罪はふえこそすれ、決して減少などしない。最悪の場合、スポイルされた子供たちが、親になって、さらにスポイルされた子供・孫たちを生むことになる。今の親の世代が、おじいちゃんおばあちゃんになった時、キレた孫たちに惨殺されるという悲劇の可能性も、十分にある。子供に復讐されるというのは、そういうことだ。
将未、孫に殺されたくなければ、子供の人徳教育はしっかりやらないといけない。国は家庭からなり、家庭は親子からなり、親子は父と母と子からなる。子の乱れは、すなわち父の乱れ、母の乱れ、家の乱れ、そして国の乱れを意味する。
これまで、個人から国家にまたがる乱れの原因と、その対処・解決法をできるかぎり詳しく、わかりやすく記したつもりである。世情はもはや、戦後日本に上陸したサタニズムに汚染されつくしたかに見える。日本上空にただようダイオキシンさながらに、毒に覆われて大変な事態にたちいたっているのだ。
これまでさんざん述べたように、すでに善の顔をしたサタニズムが、生活の一部となっているわけで、これは毒薬をのんだり浴びたりしながら生きているようなものだ。これから、日本の次世代を守るためには、今まで述べてきたサタニズムの汚染を自覚し、本来の日本人としてのあるべき姿をとりもどす以外にはない。
少なくとも、戦後左翼のもたらした浅薄な価値観による教育を改めなければ、この国は天変地異をまたずして崩壊にいたるだろう。戦前の価値観、日本の歴史と王家である皇室の真の再認識が、もっとも求められている。
左翼主義者たちやサタニストたちが、何といおうと、王家は国家の中心であり大黒柱である。中心なき円は存在せず、大黒柱を大黒柱と認めない家も成立しない。そんなごく当たり前の摂理さえ忘れているからこそ、サタニズムに汚染された者たちは、自滅の道をたどる他はないのである。
日本の歴史と風土が生んだ自然と社会の摂理に合致し、子孫に継承すべき文化が何であるのか。何度もいうようだが、大人たちが、まず戦前の価値観を見直し、戦後民主主義の色メガネを外して謙虚に学ぶことである。
その上で、それを子供たちに教え、日本国民の自覚と責任感を取り戻させることが必要だ。長い歴史と伝統を持つ国の一員として、プライドを復興させたときこそ、サタニズムの汚れは祓い清められ、本来あるべき日本人の姿が、再びこの列島にたち現れるにちがいない。(了)
あとがき
読者のみなさまに、お礼をまず申し上げます。ここまでよく読んでくださいました。目からウロコが落ちるような気持ちを、もしかしたら味わって頂けましたでしょうか。
新宗教や性格改造セミナーなどの内幕暴露、マインド・コントロールの実情と狂信・盲信者への対処法などに、紙数を多くついやしました。くどいとか、しつこいとか感じられた方も、いらっしゃると思います。どうか、日本じゅうの新宗教・セミナー・マルチ商法に苦しむ人々や、その家族・友人知己のためだと見て、御理解を頂きたいのです。
少年少女の心をむしばむ「戦士症候群」や「霊能志向」についても、私個人がそうした修羅場をくぐってきましたので、ありのままに体験談をつづりました。こうした経験のない方には、この文章はいささか過激だったり、独断と偏見がまじっていると受け止められるだろうことも承知しております。
しかし、自分や家族、知人が新宗教の犠牲になったり、セミナーの被害にあったり、オカルトに凝ったあげく精神に変調をきたしたなどの事故を、実際に体験した方々には、いちいち納得していただけることばかりと確信しております。
こうしたオカルトや宗教分野での事故・被害、狂信盲信の実態などは、残念ながら経験するまでは、とても信じられないものです。本文を読まれて、「まさか、信じられない。ここまでいうなんて、独断と偏見だよ」と思われた方は、宗教やオカルトから深刻な被害を受けたことのない、邪悪の毒を浴びたことのない幸福な方です。
どんなに頭で考えても、経験したものでなければ分からない世界ではありますが、現代ではだれもが、いつひきずりこまれるか分からない世界でもあります。知らない人でも予備知識・予防情報となるよう、心をくだいたつもりです。
犯罪の被害者になったり、その現場にたちあったことがなければ、犯罪の真の恐ろしさはわかりません。でも、泥棒や詐欺師の手口を知っていれば、被害にあうことを最小限にくい止めることができます。
同じように、宗教や精神世界に関し、予防目的で読まれても十分にお役に立てるだろうと自負しております。筆者も、本文でつづったように、人のしない経験ばかりしてきたわけですが、そうして得た結論はひとつ。要は、現実が厳しいからといって、家庭環境や職場が辛いからといって、霊的な世界に逃げても、あまりよい結果にはならないということです。その環境と戦うか、あるいは、そこから一日も早く逃げだすべく、現実的な努力をしなければ、何も変わらず、それどころか迷いが深くなることもしばしばです。
自閉症的な態度がいちばんよくないと感じます。攻撃にしろ撤退にしろ、すばやく動くことが必要です。一点にとどまる「たまり水」状態では、早晩に腐敗が起こります。戦争でも生きかたでも、前線は常に移勤するものです。家出や転職をしたければ、アルバイトでも借金でもして金をつくるのが先決。いつまでも、うずくまって暗くなっていては、変化も開始もない。
宗教や精神世界や真理真実の追求でも、それを世間とまっとうにつきあわなくていい理由にする人が、ここ二十年ばかりの間に、激増したような気がします。信仰・信条・霊的知識に関する受け売りをもって、他人の存在を軽視したり、あなどったりして、自己正当化している人たちが、たくさんいます。その極端な例が、オウム真理教という形をとって現れたことは、読者のみなさんもお分かりの通りです。
本書は、冒頭に述べた通り、新宗教やオカルトにはまっている当事者だけでなく、その親御さんや知人・友人の方たちをも読者対象として書かれました。もし、家族や友人知己で、新宗教や性格改造セミナー、マルチ商法、オカルト関係にはまってお困りの方は、ぜひ本文をくりかえし熟読玩味し、また当事者に読ませてみて下さい。きっと、なんらかの変化があると信じております。
最後になりましたが、本稿をこころよく機関誌『卒啄(そったく)』『石笛(いわぶえ)』にとりあげて下さった大和維新塾の大和干城(やまとたてき)さん、ならびに校正と助言の労をわずらわせた橘藤雄(たちばなふじお)くんに、心より感謝するしだいです。
読者のみなさんからの、御意見・御感想・体験談など、筆者までおよせ下さい。お待ちしております。 著者識す。
平成十一年二月十一日建国記念の日(紀元節)
《おもな参考文献》
『聖書』新共同訳・新改訳・文語訳など多数。
『ユダヤ人とクレムリン』永淵一郎/新人物往来社
『神道は甦る』菅田正昭/たま出版
『論語』中国の思想/徳間書店
『洗脳体験』二澤雅喜ほか/宝島社
『黒魔術のアメリカ』アーサー・ライアンズ/徳間書店
『二億人の奴隷たち』ゴードン・トーマス/朝日新間社
『世界オカルト事典』荒俣宏/講談社
『いまどきの神サマ』別冊宝島114/JICC出版局
『オカルトごっこ』別冊宝島181/宝島社
『旧約聖書の預書者たち』雨宮恵/NHK出版
『大江戸えねるぎ−事情」石川英輔/講談社
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