『神道神髄』

◎神道神髄

(異論はあるでしょうが、現在の所、八神が「神道の神髄」と感じた文章をまとめて みました)

 以下の文章は、『神判記実(しんぱんきじつ)』(山口起業・撰録/山雅房/¥2000 )という、伊勢神宮や産土信仰にまつわる、神罰・霊験実話集から、とくに神道のエ ッセンスというべき内容を抜粋し、わかりやすく言葉をおぎない、転載したものであ る。

 下記のような根本的な民族的心情があるため、日本では「法難」(=自分たちが正 義であるゆえに、迫害・弾圧されるのだという主張)を、声高に叫ぶカルト信者たち が、常に少数派で、残忍酷薄な「宗教戦争」が起こらないのである。

(一)神道における「因果応報」観・その一

「善悪の報いは、おおよそ三種ある。

 第一は、言葉どおりに、善人への褒美に吉を与え、悪人を罰するに凶事を与えるも のである。

 第ニは、善人の真実の程度を試み、死後における天上の真の幸福を与へんがために 、一時的に凶徴を示す場合がある。

 逆に、悪人が罪咎を増長するかどうかを試し見るために、未来に享けるべきだった 幸運を、前借で一時的に与える。悪人を、分不相応な幸福にひたらせ、それでも心を 改めないのを確かめてから、死後の苦しみを決定するといふ場合である。

 このような仕組みがあるので、現世の人が「正直者がバカを見る」とか「善が倒れ て悪が勝つ」などといい、神の理に疑いを容れるのである。

 第三は、正心堅固・善人であつても、父祖・祖先の悪行の報いを受けて苦しむ場合 。これは、悪を犯した先祖本人への罰だけでは、とても償いきれないとき、子孫の身 にその余った悪の報いが及ぶ。この場合、人格も能力もすぐれた子孫の人物が、なぜ か一生不遇で困窮することが多い。

 逆に、現世の邪悪の行ひが著しい者でも、父祖・先祖の為した善行が、非常に大き くて、その遺徳によって幸運でいられる場合がある。先祖本人だけでは享けきれない ほどの幸運が授けられているので、その余った幸運によつて、一時的に順境を得る子 孫がある。 これもまた、一見、不条理に見える現象なので、世上の人が「神も仏も ない」と大いに迷ふ所である。

 しかしながら、上の三種も要するに、死後の賞罰もふくめて、最終的には、みなこ とごとく善人に吉の報いがあり、悪人に凶の報いがある道理は、少しも違ふ事はない 。

 汝は、神道に無知な人をさとすとき、今あげた善悪応報の神理を以てせよ。神を敬 い道を尊ぶの要は、これより大きなものはない」

(二)神道における「因果応報」観・その二

 心ある人が、信心に篤くまことに高徳なある翁の、なぜか不遇不幸にみまわれるの を見て、いぶかしんだ。翁のような正しい行ないをする人を、どうして神様はお護り くださらず、たびたび人生の憂き目をお見せになるのだらうと。

 そのように、疑わしく思う人たちに対し、翁は常に諭してこういった。

「おおよそ人というものは、天の授け給う善悪の運命、人生の出来事、体験させられ ることを、いささかたりとも恨んではならない。天から災いや不幸を与へ給ふのは、 実は(過去世の行いや先祖の因縁によって)自分で原因をつくったことの報いなので ある。

 幸運を天より賜はるのは、誠の行ひがあったのを神が賞め給うものである。だから 、幸ひの来るのは喜んでよいけれども、災いを受けた事を恨んではならない。

 自分が、このように年来不幸の事が起こるのは、天津神が勝手なおぼしめしで、自 分をきらって不幸を与えているのでは決してない。我身に関して、免れる事の出来な い原因があればこそ、こんなになるのであろう。

 それを、ちょっとばかり、善いことをしたり、人間らしいことをしたからといって 、神様から幸運をさずけていただけるだろう、などと思っているのは誠の心ではない。

 生きてなすべきことをなすのが、自分の勤めというものです。

 災難不幸であろうと順境幸運であろうと、向こうからやってくる出来事は、天のご意志である。だから、自分はひたすら勤めを第一として、向こうから来る事は、心にとめておりませぬ」

と、答えたものである。

(三)神道における「因果応報」観・その三

「おおよそ、神の恵みというものは、本来、限りないものだけれど、人間は神の道に そむく事がしばしばである。

 それで、結局は、その御守護にも限度といふものが設けられることになった。

 その御守護の限度を超えるまでは、悪事を為しても、間違ったことを述べつづけて も、神様は見ておゆるしになられ、聞いてもおゆるしになられて、変らず厚く深くお 恵みになる。それも、どうにかして真心に立ち返れよと、日夜、見守られ御守護し給 ふ御心からである。

 しかし、そのような神の御心も知らず、なほ非道の行為が重なって、限度を超えた が最期、再びもとのように、お恵みを垂れ給ふ事はない。

 そんなわけで、限度を超えるまでは、悪事をなす者も、その報いがないように見え るけれども、いったん限度を超えたときには、下される神罰は峻厳であつて、永遠に その罪をお許しになる事はない。

 神の御恵みを垂れ給ふのに、限度があるといふことを、人は知らないものだから、 結局、神罰というものを重大には考えず、長い年月を自分勝手に過ごし、神の守護の あることを疑う事にもなる」

「上のようなことこそ、自分が年来、深く疑問に思ってきたことであったが、正しく 神界に入つて、うかがい得たことだから、誰もが皆、この事を知って、身の行いを正 しくすべきである。

 すべて人は、目の前に見える事でも疑うのだから、ましてや、目に見えない死後の世界での神の賞罰などは、非常に賢い人でさえも、疑いをいれて人知に惑わされ、罰をこうむる事となるのである。

 自分が神界で見聞した事はすべて、現世の人には、思ひもよらない事が多いから、お話しても信じる人がなく、ウソだなどと思ふ事もあるだろう。あなたたちは、このことをみだりに人に語り聞かすような事があってはなりませんぞ」

と諭すところがあつた。

(四)神道における「因果応報」観・その四

 左内という敬神家が、生前より「もし自分が亡くなったら、なんらかの形で、死後の世界がどうなっているか、知らせることにする」と周囲に語っていた。

 そして、左内が亡くなってから、すぐにある少女の体を借りて、左内の霊が語ったことは、次のようであった。

「生前の行ひの善悪によって、死後の世界での状態が決まる。

 我慢(我意・慢心)の強かつた人は、同じ類の人どうし、うち群れて常に苦しんでいるのである。善いことをした人は、諸々の人の上に立って、よろずの事をつかさどる霊となっているのである。また、要所要所に、その人々をつかさどり、治め給う神がましまして、諸々の事を正し給ふのである。

 すべてについて、隠悪といって、人の知らない所で正しくない事をするのを慎み、日々に善事をつとめ、おこなってゆけば、幽冥(死後世界)の幸いを受けることは、私が生きていた時に、常々言つておいた内容とことなる所はない。

 日常的に、神達を篤く敬ひ奉れよ。また一族近隣のまじわりを、よくせねばならぬ。

 この外にも、いちいち語り告ぐべきことがあるけれど、幽冥の事は、汝等の思いもよらないことが多いから、今はただ、自分が言つて置く事だけを、くわしく書きつけて子孫に語り伝へるがよい。

 世間の人には、みだりに語ってはならぬぞ。こういふ事を語ると、かえって嘲る人が現れて、嘲った当人が神罰を受けたりして、その人の死後の境遇の為によろしくないことになる。

 思い残すことは多いけれども、こうするうちにも、現世に降りるにあたって定められた時間が来てしまった。

 今後も時々は、霊として降りて来ることがあるが、このように言葉を交わす事は、幽冥の掟があつて、以後、許可されないのである」

と言ひながら、やがて左内の霊は、少女の体を去り、幽冥の世界に帰つたそうである

(五)神道奥義(一)

「神道の奥義といふものは、一人二人の者が悟つておこなうふ、といふやうな道ではない。

 天下の人が、残らず日々の事業(職業・勤め・役割)にかけて、それぞれの道における道理に従って行はねばならないのが、即ち神道である。

 たとへば、いかなる者も、大君(天皇陛下)に忠誠を尽すのは、即ち、死後に天上へ無事に帰れる道に、ふさわしいものである。

 いたずらに神々の名をそらんじ、神の奇跡を講釈し、神のおかげを語つて、個人的な思いつきや考えをもつて人に教へるのは、真の神の道とは申し難い。

 人の身は元来、神道を勤めるために、この世に生を享けるのである。各人各様に、おこなわねばならない神道を、その身にあずかり、賦与せしめられてゐるのであるから、自分が得た職業や役割を誤らずに行つてゆく外に、求めるべき道などはないのである。

 現世では、汝(そち)等のやうに、ことさらに理を説いて、神道といいながら普通の人の知りえない奇異奇怪な現象に、神の理があると思つてゐるものがいる。しかし、その心は、みな迷いから起つてゐるのである。

 こんにちまで、汝が思ひを凝らして信じてきた志は、ことごとく真の道ではないのである。

 もしも今後、奇怪なことや異常な現象に、神の真の道があると思ふ人がいたならば、出きる限り教え諭し、世の中の正しい道を、おこなわせるようにするがよい。

 汝も、今の心のままでは、死後に魂が、天上に復帰不能になるだけでなく、邪魅(じゃみ)といつて、幽世の魔物の群れに入るであろう。まちがった信じ方とはいえ、汝の熱心な志を憐れんで、真の道をこのように伝えるのであるぞ」

と、夢枕に立たれた神は、おごそかに仰せになつた。

(五)神道奥義(二)

「神道の要とは、いかなる事でございましょう」

とお問ひになつたところ、

「ただ自分の境遇の吉凶と貧富とを、神におまかせ申し上げ、少しも気にかけるようなことがあってはならない。多くの人々は、その部分に心を寄せるために、神の真に入ることができないのである。

 世俗の人は、すべてを神にまかせて気にしない、などといっていたら、かえつて危くて生活できない、と思ふであろう。が、そのように思うのは、たいへんに真の道からはずれたことである。

 すべてについて神の御心というものは、万人の最後の一人にいたるまで、幸福を授け、富を増さしめようとなさっているのである。だからこそ、その御心におまかせすれば、吉事はおのずからやってくるし、富もおのずから得られるのである。

 現世に生きてゐる時でさえ、このような御心である。そうであるから、死んでから後の幸福も、思ひのまゝに授けられるのである。

 ところが、人は神におまかせせず、自分の働きをもって吉事と富を得ようとするから、かえつて来るはずもない凶事を招き、増すはずもない貧しさを増すことになるのである。

 人が悪事をおこなうのは、草木にイバラのまとわりつくやうなものである。これを掃ひ除かなければ、花を咲かせ実を成らせる本性を損ひ、喪失してしまう。もともとあった根を切断し、枝を枯らしてしまふことになるのである。

 これこそ、道をおこなふ上で、要となる点である」

「生きている間は、貧しいことを恨んではならぬ。死後の世界での深く大きな幸いを、約束されたものほど、かえって生きている時に苦しむ事が多いものであるぞ」

 以上の原本である『神判記実』(山口起業・撰録/¥2000)は、下記「山雅房(せんがぼう)」にて発売中。

 山雅房
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