『天津教古文書の批判』:狩野亨吉/『思想』岩波書店・昭和11(1936)年6月

<はじめに>

○いわゆる「神代文字」関連の古代文書として、昭和のはじめから非常に有名になったものひとつに「竹内文書(竹内文献)」があります。これは戦前戦中に、不敬罪に問われて「弾圧」されたという事実もあって、正史たる『記紀』以外の「古史古伝」ファンに根強い人気があります。

 その「弾圧」の事実をもって、古史古伝ファンは、権力によって不当に「真実の日本史」が闇に押し込められたという印象をもっているようです。「弾圧」「裁判」と密接な関係がある狩野亨吉博士による「天津教古文書の批判」として有名なのが、これからご紹介する「天津教古文書の批判」です。竹内文書ファンにとっては、いわば「悪役」のようなものです。

 小生も以前は「古史古伝」ファンであり、竹内巨麿が所蔵・公表したとされる『竹内文書』の内容を疑わず、「批判」については、ろくに読みもしないくせに、やはりうさんくさいという先入見を持っていました。ところが、ここ数年、『記紀』を読みはじめてから、どうも竹内文書など「古史古伝」の方がうさんくさいのではないかという疑念が強くなりました。

 そんなおり、インターネット上で、「天津教古文書の批判」の原文の全部を閲覧できるサイトがあるのを知りました。それを読んだら、実は「批判」の方が正しく、当時の情勢からみても「弾圧」は必至であったという風に、それまでの印象が逆転してしまいました。

 そこで、竹内文書への賛否両論はあるでしょうけれど、とにかくわかりやすい現代語に訳して、読まないで先入見をいだいた私のような愚を避けていただきたいと考えました。当該のサイトからは、神代文字の画像ファイルごとダウンロード・引用させていただき、現代語に直すことをはじめました。下記が、その作業の原本にさせていただいたサイトですので、小生の現代語訳と読み比べてご確認いただいても結構です。

天津教古文書の批判
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/amatu.pdf
青空文庫/図書カード:No.3039「天津教古文書の批判」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000866/card3039.html
(このほか「天津教古文書の批判」をキイワードに、大手検索エンジンでさがせば、ブログ等でも原文掲載しているページが複数あるのを確認できます)

 くわえて、「古史古伝」全般の偽書性を検証し、竹内巨麿の経歴詐称も書かれた『日本の偽書』(藤原明・文春新書 ¥680)という本を読み、私個人の印象としては「竹内文書は偽物である」と思っている次第です。

 特に「青空文庫」さんには、引用原文のテキスト化や画像ファイルの作成など、深く敬意と謝意を表する次第です。
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○以下の現代語訳の中で、<>は八神邦建による補注。読みがなは適宜( )の中に記しました。また、難読・難語の多くはひらいて意味を地の文にし、全体にわたり、読みやすいように句読点と段落わけをほどこしました。
 なお、「天津教古文書」とは「竹内文書・竹内文献」の一部をいいます。

『天津教古文書の批判』

                          狩野亨吉

目次(クリックするとその目次の位置にとびます)

第一 緒言

第二 長慶太神宮御由來

第三 長慶天皇御眞筆

第四 後醍醐天皇御眞筆

第五 平群真鳥眞筆

第六 神代文字之卷

第七 結語

      第一 緒言

 天津教古文書の批判に先だち、私はどんな因縁で天津教の存在を知ったか、またどんな必要があってその古文書を批判するのか、この二点について説明しておきたい。

 昭和三年五月の末に、天津教信者のある二人の方が拙宅に訪れ、天津教の宝物の写真を私に贈呈され、かねてその本拠地である茨城県の磯原<古文書の所有者を名乗る竹内巨麿がつくった皇祖皇太神宮の所在地>への参詣を勧められた。私は、その写真を一見して、被写体の文書そのもののニセモノ性を感じて、「非常にあやしい話をきかされるものだ」と思ったが、争わないで穏やかに二人の訪問者を帰した。しかし、そのうちのおもだった方の一人は、天津教に対する有力な資金提供者だと推察できたので、同氏の将来を心配し、ただちに手紙で、贈られた写真に対する意見を述べ、天津教を警戒すべき理由を知らせた。その後、同氏からは何らの挨拶もないので、この警告にどれほどの効果があったかは分らない。

 昭和五年十二月、天津教の関係者が、警視庁の取調べを受けた時にこそ、天津教が皇室の歴史に対しておこなった、錯乱と迷妄と狂気によるような改竄(かいざん)行為を追究し、厳重な処分を下すべきだったと思うが、そのような徹底的な処置は講じられなかったらしく、その後も天津教は検挙に懲りないで、<布教の>宣伝を続け、シリヤの石ころ<竹内文書にいう「モーゼの十戒石」のこと>、ピラミッド類似の山<酒井勝軍(さかいかつとき)の日本の山岳ピラミッド説>などを応援にかつぎだして、ますます病的な迷妄なる伝道を試みるのであつた。実に苦々しいことだと思つたが、世間には天津教以上にいかがわしい宣伝をするものも沢山あるから、いちいち相手にしていられない。

 そのうちに昨年の八月、私は『日本医事新報』から天津教古文書の歴史的な価値の調査を頼まれた。天津教古文書は、膨大な量があるといわれるが、信者でない者には容易に見ることは許されないだろうと思い、まずとりあえず手元にある写真七枚のうち、古文書に関する五枚の検討に取りかかった。そして、この五枚の写真のみの研究により、ただこの五枚に限らず、天津教古文書の全部は、ことごとく最近の偽造による文書で、全く取るに足らないとの判断に到達した。そこで依頼者にそのむねを返答したが、<ニセモノであるという>その意味は決定的だったのだが、表現としては抽象的なものになった。抽象的にした訳は、おおよそ教義の追撃や撲滅と解釈されかねないものは、人心を刺激する恐れがあり、このときも同様のことが起こるかもしれない恐れを避けようとしたためだ。

 ところが間もなく、私が関係しているある場所で、ある軍人の勧誘により、思想を善導する講演をやってもらおうということで、天津教を講演する話を聞かされた。こうなると、もはや天津教を対岸の火事あつかいすることはできない。そのうえ、最初に二人の信者を私の家に訪問させた方も海軍大將だったことを想い起こし、「さては天津教の教義からして、これはもしかすると、軍人たちにわりと多くの信者をもつのではないか」との疑念が生じ、いささか調べてみると思った通りだった。そうなると、すぐにわかるのは天津教の狂的妄想が、どの階級・階層を腐食の毒で害するか推察できるので、はなはだしく憂慮すべきである。今のうちにその浸食を防止しなければ、遅かれ早かれ健全な思想との衝突を引き起こし、その結果、社会に迷惑を及ぼすこともあり得ると思われる。

 これは、あるいは杞憂に過ぎないかもしれないが、あらかじめ天津教の実態を知り、もし事件が起こったとしても、とまどうことがないようにしておくべきだろう。そのようなわけで、私はここで、再び天津教古文書の批判をおもいたち、袋の中に屑ひとつ残さないような方法で精査し、是非をただして明らかにすることに努め、それによって一般の人々にも警告し目をさましてもらおうとするものである。

 ついては天津教のなんたるかを知らない人もあると想うから、その性質を一通り見ることにする。
 天津教は、現在、磯原に住む竹内氏が守る「皇祖皇太神宮」を中心として、布教伝道される思想の一派である。その主張するところは、武内宿禰<たけしうちのすくね=第八代・孝元天皇の孫。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の連続五代の朝廷に仕えた。成務朝にて日本史初の大臣となる。子孫の氏族は紀氏・平群氏・蘇我氏・葛城氏・巨勢氏など全国に分散して繁栄した>の子孫たる竹内家は、以来、連綿として千九百年間も皇祖皇太神宮を奉戴して今日に至るという。その間、あらゆる困難と迫害とを経て、それでもよく神代より伝わった皇室関係の古文書及び古器物を、いままで守護し保存してきたという。この主張のほかには、今のところ、病気の治癒を保証したり、男女交際の便宜を計ったり、心霊現象を起こして見せたり、あるいは財産金品の寄付の強要を行ったりというようなことは聞かない。この点は、普通の宗教とは違っている。内部の組織も簡単で、いまだ伏魔殿のような施設が建てられているわけでもない。外部への宣伝方法も穏やかで悪辣(あくらつ)ではない。故に風紀・教導上からみて、この教派ほど無難なものは珍しい。

 このように、いわゆる宗教的な施設に関してはなんら注意すべきものはないけれど、そのかわり古器物・古文書を証拠として神代の百億万年の歴史を展開し、皇室の規模を壮大にいかめしくすることに力を用いている。これについては、いやしくも批判を許さないという態度を取っている。いかにもそのやり方が地味とも見え、おおよそ化粧・粉飾と縁遠いため、人品の立派な人たちをも近よる気にさせて、知識階級に呼びかける神社神道を思わせる。

 以上は、もちろん表面の観察によるものだが、一歩深入りして研究して見ると、もちろんたくらむ所あつての教義で、その目的を隠すために皇室の権威を借り、人を幻惑させようとする仕組みが浮上してくる。類似のくわだてをする者にはよくある手で、鎌倉時代にも徳川時代にも明治時代にも現れたことがあり、専門家の目に珍しくはない。

 天津教そのものは、この類の最も新しいものであるけれど、やはり、まったく歯牙にもかけるに値しない粗末なものであることは一見して明白である。しかし、確かな証拠を捉えて、とどめを刺すには第一に研究を要し、第二に力を要する。故に、関係各署から命令があれば骨を折って鑑定するのも面白いが、大概の場合には、この類の労して益なき事どもは「駄目である」の一言でそそくさと逃げるのが賢い。しかし、そうした具合に賢さを発揮した大学の博士達は、天津教側からは、陰口でバカ呼ばわりされているから、私はまた、どんな怨みを受けるか測りがたい。

 さて、いよいよ批判に取りかかるが、その材料は、さきに申したごとく古文書の写真五枚である。わずかに五枚、実に天津教文書の片鱗に過ぎない。故に「片鱗をもって全体を見きわめることはできない」との反駁(はんばく)があるならば、それを認めることを躊躇はしない。しかしながら、同時にまた、「ものの命を奪うには一カ所の致命傷で充分」なことを心得ねばならない。

 そもそもこの五つの文書は、単なる片鱗ではない。片鱗といえども代表的な宝物として写真に撮られ誇示されたものだ。これを、軍隊にたとえれば、天津教の精鋭を統率する将軍と見るべきで、英姿は颯爽として威風堂々たるを想わせるようなものである。もし、私のおこなう批判研究のせいで、これらの将軍が、いちいち致命傷をこうむるならば、その結果は推して知るべしで、率いる全軍は土くれのごとく崩れ、瓦解して、あわれにも潰滅の路をたどるほかはないだろう。
 検討に当たって、批判対象となる文書の順序は、新しいものから古いものへと、時間をさかのぼる。

     第二 長慶太神宮御由來

 第一の文書は写真の標記に「長慶太神宮御由來」とあり、文字が細かい上に染み汚れのため不明な所もあるが、これを拡大して見れば一字を除きまちがいなく読める。すなわち以下の通りである。
(*注:以下の<>の読み下しと句読点の補いは八神)

掛卷毛恐伎應永二乙亥年十月十四日越中國神明棟梁
<かけまくもかしこき應永二乙亥年の十月十四日 越中國の神明棟梁>
皇祖皇太神宮境内に長慶太神宮奉勸請祭神皇王九十八代
<皇祖皇太神宮の境内に長慶太神宮を勧請し奉る祭神は皇王の九十八代>
長慶寛成天皇神靈歴代皇靈神御帝河内交野私市師師窟寺に
<長慶寛成天皇の神靈と歴代の皇靈神。御帝、河内は交野の私市、師師窟寺に>
敵の爲に元中九年閏十月十五日夜御壽四十九歳御崩
<敵の爲に元中九年の閏十月十五日夜、御壽四十九歳、御崩。>
百重原に葬神靈神體天皇詔して御名を石に形假名にて堀付る御頭毛
<百重原に葬る。神靈神體を天皇詔して御名を石にカタカナにて堀付る御頭毛>
□瓶に十六菊紋附十六菊紋袈裟御宸筆歌鈴を神體に祭る
<□瓶に十六菊紋附の十六菊紋の袈裟と御宸筆歌と鈴を神體に祭る>
攝社秋葉位明神總大將殉死紀氏竹内越中守正四位惟眞
<攝社は秋葉位明神。總大將に殉死したる紀氏竹内越中守・正四位惟眞>
壽七十三歳の神靈竹内信治五十七歳神靈竹内日座定介改め惟尚の神靈
<壽七十三歳の神靈、竹内信治五十七歳の神靈、竹内日座定介改め惟尚の神靈>
天皇の忠心勸王者竹内一族百五十名天皇前後の
<天皇の忠心・勸王者たる竹内一族百五十名。天皇前後の>
敵に隱れ敬護し勸王家元中九年八月十三日窟寺に安着の時
<敵に隱れ敬護し、勸王家は元中九年八月十三日、窟寺に安着の時>
九十七名居る道中の難戰に討死の者岩崎彌助前田又藏關屋次郎
<九十七名居る道中の難戰に討死の者、岩崎彌助、前田又藏、關屋次郎>
若槻禮太郎關谷和吉牧野助之丞粕谷十郎倉富利秋
<若槻禮太郎、關谷和吉、牧野助之丞、粕谷十郎、倉富利秋>
板垣七之助東郷八右ヱ門黒田清兵衞澁澤隆榮高橋門次
<板垣七之助、東郷八右ヱ門、黒田清兵衞、澁澤隆榮、高橋門次>
澁谷安右ヱ門眞鍋武利楠次郎正幸清浦善次郎平田東右ヱ門
<澁谷安右ヱ門、眞鍋武利、楠次郎正幸、清浦善次郎、平田東右ヱ門>
野村惣三郎中田清次郎安田作右ヱ門岡崎藤助井上次郎
<野村惣三郎、中田清次郎、安田作右ヱ門、岡崎藤助、井上次郎>
淺野長義松井藏之助櫻井左ヱ門赤井幾右ヱ門
<淺野長義、松井藏之助、櫻井左ヱ門、赤井幾右ヱ門>
一條助隆二條利義中條春完三條信義四條隆次五條清信六條助信
<一條助隆、二條利義、中條春完、三條信義、四條隆次、五條清信、六條助信>
八條信弘芝信義小村安五郎武藤清右ヱ門新保八郎小山三郎
<八條信弘、芝信義、小村安五郎、武藤清右ヱ門、新保八郎、小山三郎>
杉政次郎右ヱ門高道治助高柳利治藤田小三郎野尻善右ヱ門
<杉政次郎右ヱ門、高道治助、高柳利治、藤田小三郎、野尻善右ヱ門>
稻垣角之進草野清利蛭田甚左ヱ門木村常陸之助結城三左ヱ門三郎
<稻垣角之進、草野清利、蛭田甚左ヱ門、木村常陸之助、結城三左ヱ門三郎>
斯波左ヱ門白川政利長井吉兵衞の神靈を同日奉勸請
<斯波左ヱ門、白川政利、長井吉兵衞の神靈を同日、勧請奉り>
毎年十月十四日を祭日に定
<毎年十月十四日を祭日に定む>

 應永二年十月十四日五日印之
  祭主棟梁皇祖皇太神宮神主
      紀氏竹内宗義謹(華押)
      紀氏竹内惟義謹(華押)

 長慶太神宮祕藏

 この縁起文の大要を述べれば、応永二年(1395年)十月に越中国の皇祖皇太神宮境内に長慶太神宮を設け、主神として長慶天皇を祭り、摂社として秋葉位神社を建て、之には長慶天皇御崩御の際の殉死者たる竹内惟眞、ほか二名、及び同志の戦死者の岩崎彌助、以下五十三名を合祀するというのである。

 第一に、この文体について吟味すると、初めの文句は「かけまくもかしこき」で、いかにも神社の縁起にふさわしいと読めるが、次の句が続かない。たちまち凡俗の口調に変わって、奇妙な熟語や当て字を使っている。熟語の例は、第二行に皇王(人皇と云うべき所)、第四行に御崩(崩御)があり、当て字の例は第五行に形假名(片假名)堀付(彫付)、第九行に忠心(忠臣)、第十行に敬護(警護)、第二十三行に印(記)がある。しかして「形假名」と「印」とは、後に取り扱う平群真鳥(へぐりのまとり)の文書にも既に現れているから、天津教伝来の語法と取って差支えない訳で、千年も変わらずにこうした文字を使っているのは、はなはだかたくなな所がある。そこには何か特別な理由が存在するものと見られるが、これは後に研究することにする。

 用語の穏やかならないものに、第五行の初めに「百重原(ももえがはら)に葬」がある、ここは「葬」のただの一字で満足すべきでなく、よろしく敬語の形とすべきである。もっとも大体、なっていない文章であるから、敬語の用法などを責めるのは無理かも知れない。第十行の「敵に隱れ敬護し勸王家云々」は多々論議すべき所を持っているが、今はただ「警護せし」というべきを、その中から「せ」の一字を脱した所に注意を呼んで置くにとどめる。それから「勸王家」は、もちろん「勤王家」の誤りであろうが、どうも新しい響きがある。また徳川以前には所有格を示す「の」字はたいてい「之」の字を使ったのであるが、この文にはことごとく「の」字を用いているのも、また新しく見える。

 第二十三行の「印之」は「之を記す」と読まなければ意味が通じない。すなわち「印」は「記」の当て字である。この用例は平群真鳥にも出ている。第二十五、二十六行の署名の下に「書」とか「記」とか、あるいはこれに代る動詞があるべき所に、普通これらの字に副詞として添えられる「謹(つつしんで)」の一字を置き、その下に華押を書き添えている。この形式は、また平群真鳥の場合に現われるから、いわゆる、かたくなさの第二例となる。最後に、この文の最も不都合なる点は、第七行の「紀氏竹内越中守正四位云々」と書下した所にあるのであるが、史実に関するものであるから後にして、今はただ、この文は典故(古典・故実)を知らない人の作ったものであることを言っておく。

 以上、文体の考察をつづめていえば、この文は、文法も知らず典故も知らずして書いたもので、かつ全体の調子より察して、比較的、近頃の人の作と思われる。

 第二に、書体について吟味すると、字形は大体、唐様<江戸時代に流行した明国の書家・文明徴の書風>と取るべきもので、御家流<和様書道の青蓮院流の書風で、江戸時代の公式文書にはこの書体のみ用いられた>の影響は微弱である。しかして一見、菱湖<幕末三筆の一人である書家・巻菱湖>の影響を肯定できる。筆致を考えると器用の質であるが、いまだ修練を積まない。故に無理がきたり誤字が現れたりする。前者の例として第二行その他にある「宮」、第四行「夜」、第六行「歌」等の行体をあげられる。後者の例としては、第四行「窟」、第六行「裟」、第九・十行「勤」、第十一行「難」、第十四行「次」、とすべき所に、無理な形か、あるいは全く別の字を用いている。この外に許すべき範囲に入る特異な字形がすこぶる多い。その中の二〜三をあげると、「皇」「靈」「義」「隱」「信」等の文字が得られる。他は必要もないから省くことにする。これらの文字は、個性と習慣によつて頑強性を保持し、他の文書にも現れることを余儀なくされているのを見るだろう。いわゆる、かたくなさの第三例である。

 以上、書体の考察をつづめていえば、この書は素人の筆で、菱湖の風を受けている所から推測して、天保年間(1830〜1843年)より以前にさかのぼることができないものである。

 第三に、内容について吟味すると、日時、地理、人物、事件の順序で調査する。
 日時に関しては、干支・閏(うるう)月等の記入には不都合がない。
 地理に関しては、越中国・皇祖皇太神宮の所在を問題とすべきであるが、これを決定するには、意外な困難が予想できるので、とりあえず、天津教の言い分を立てておく。しかし、後でわかるが、結局はこれも詮索の必要は無いのである。次に、「河内國は交野郡(かたのぐん)の私市(きさいち)、師々窟寺」は、「師々」を「獅子」として生きる。昔は亀山帝の御陵があると想われた有名な寺(普賢山獅子窟寺・真言宗高野山派)である。百重原もその付近にあって<方丈記の作者>鴨長明の歌で有名である。

 人物に関しては、長慶天皇を除き奉り、ほかの登場人物は、五十六人とも皆目分からない。しかしながら、竹内家郎党の名前の一〜二字を変えると、近頃の相当に名の聞こえた人が現れ出るのである。私の気づいた二〜三を選んでみるならば、現れ出る人は、「岩崎彌之助」「岩槻禮次郎」「黒田清隆」「澁澤榮一」「平田東助」「淺野長勳」「松崎藏之助」あるいは「松井庫之助」「藤田小四郎」等で、この中で藤田小四郎だけが明治より前の人である。選び手が変わると、また人数が増すことになるであろう。

 今一つ、郎党の名前について目立つことをいへば、「一條」「二條」と順を追い、「七條」を除き、「中條」をもってこれに変えて三番目に置き、「八條」までの苗字に、おのおの立派な名乗りをつけて並列させた奇観である。郎党の名前を読んで行けば、なんというか近頃の人が並んでいる様な気がしてならず、応永年間頃の人々の勢ぞろいとしては受け取り難い所がある。すなわち、人物の実在性に関しては、多大の疑いがあるのであるが、そのうちの一人を証明するにも否定するにも、ちょうど「皇祖皇太神宮」所在地の場合と同じ様な困難を感じるのであるから、無駄な努力は止めて、次の事項に移る。

 事件、すなわち史実に関しては、確実な証拠をあげ得ることだけを述べる。この「縁起」には、長慶天皇は「敵の爲に元中九年閏十月十五日夜御壽四十九歳御崩百重原に葬」と記載されている。長慶天皇の御事蹟については中間種々の説もあったが、今日はおおよそ一定し、崩御に関しては『大乗院日記目録』に記載する所が正しいとされている。これによれば、天皇は南北朝合一の後、京都に還幸せられ大覚寺に御座し、応永元年(1394年)八月一日、聖寿五十二にて崩御せられている。この『大乗院日記目録』は、当時第一流の学者であった一條兼良の子たる大僧正尋尊の記録したもので、天津教文書など出たところで対抗はおぼつかない。すなわちこの文書の長慶天皇に関する記事は虚妄である。

 しかし、聞く所によると、天津教では何事でも自分側の主張を正しいとするということで、はなはだ始末に悪いのであるが、ここでも必ず負け惜しみに出るであろう。それならば、先に進んで殉死者のくだりに移る。先に文体を論ずるに当たり、「紀氏竹内越中守正四位惟眞」と書き下したのは典故を知らないためだと指摘して置いたが、官位を記す書式を知らないことは許してやっても、どうしても許せないのは「正四位」である。おおよそ位階というものは、大宝律令(701年)で定められて以来、明治元年(1868年)の末まで変化なしに伝わってきたもので、その定めによれば、位階にはおのおの「正」「従」があり、殊に「四位」以下には「正」「従」に、さらにおのおの「上」「下」があつて、単に「正四位」という位は無いのである<本来なら「正四位上」または「正四位下」でなければならない>。すなわち「正四位」の「竹内某」などという人が応永年間(1394〜1427年)に存在したことは認める訳に行かない。したがって、この記事もまた虚妄である。

 どうして、こんな不都合なことを書いたか、その原因をつきとめて見よう。これには第一に考えられるのは、知っていてこのような不都合を書くはずもないから、知らないで書いたものと、みなさなければなるまい。そこでまた、二つの場合が考えられる。第一の場合は、「実は知っているが、ちょっと忘れるか、不注意のため、書き落したもの」と取るのである。第二の場合は、「全く知らないため、書かなかった」と取るのである。まず事実は、第一の場合であったと取る。そうすると、<書き手の署名にある>「宗義」「惟義」等は大事な<竹内家の>尊族の官位を書きまちがえたといっただけで済みそうであるが、そうは行かない。なぜなら、いかに長慶太神宮秘蔵の文書とはいえ、書き手が<この文書を>再読できないはずもないし、また最初に書き終った時にも校正読みもしたであろう。そうして、この箇所の不都合に気づいたとすると、まったく清書し直すか、または訂正しなければならないはずである。それなのに、なんら<修正の手を>施すところがないのを見れば、忘れたのでも見落したのでもなく、全く知らなかったのである。

 ひとり「宗義」「惟義」が知らなかつたのみならず、竹内家代々の人もまた知らなかったのである。そう演繹せざるを得ないではないか。しかし、要するに書き手の二人が知らなかっただけでよろしい。すなわち第一の場合が成立せず、第二の場合が成立することになる。すなわち「宗義」「惟義」二人ともに正四位に上下のあることを知らないことになるのであるが、無知な子供や農民やふつうの町人ならいざ知らず、殿上人の資格<宮中・清涼殿に昇殿できる四位・五位の地位>のある惟義の近親たる二人が知らないとは、なにごとだろう。しかし、事実、知らないものなら致し方ないが、そのかわり「知らない」で済む時代に生息してもらわなければなるまい。そうすると「惟義」「宗義」は、明治以後の人と取るのがふさわしい。なぜなら、位階に上下が無くなったのは、明治に入ってからであり、これが確かに制定されたのは明治二十年だからである。

 以上、内容の考察をつづめていえば、この文書の史実が認められないだけでなく、応永二年に竹内某の書いたということも、全くの偽りと決まり、その上このようなデタラメを書く資格は、明治も末年の無学のものに限られているという結論が伴うことになる。
 上述の理由により、「長慶皇太神宮由來」は、明治後期から以後の偽作であると判断する。

第三 長慶天皇御眞筆

 第二の文書は寫眞の標記に長慶天皇御眞筆とあり、二通より成立する。其全文は下記の如くである。

 第一文書            第二文書
鳴ゆたなり諸國巡り       鳴呼覺り天に神辟
父をふて合して歸る       獅子口に隱魂都百重
河内の口ち寺          帝乃千代守り
 元中九壬申八月二十六日     元中壬申十閏月九日
  ゆたなり(華押)         覺理(華押)
        惟眞へ         惟眞へ
        宗義へ         宗義へ
        信治へ         信治へ

 上記、「長慶天皇御眞筆」と、この次に出てくる「後醍醐天皇御眞筆」とあるものは、いずれも破損がはなはだしく、かつ汚染も多く、何のために、こうなるまで粗末な扱い方をしたものか解釈に苦しむ。この破損や汚染も果して自然のものか、それとも人為を加えたものではないのか、はなはだ疑うべきところがある。しかしながら、この程度の写真では、この疑問につき十分の研究をなし難いから、その調査はやめにして、じかに文書の意味を取り調べる。そして、あらかじめことわっておくが、この文書も、また次の文書も一目瞭然、天皇のものでないことが分かるのであるから、そのつもりで批判する。

 第一に、文体について吟味すると、二通ともわずか三十字足らずの文の中に、誤字・当て字・衍字(誤った不要の字)・脱字等をおびただしくかまえ、誤字を除いたほかは、わざと分かりにくくする目的で、おそらくは尊厳を増すために、異様な書き方を試みたように想われる。そこで、これを平易な文に書き換えると、第一文書は「嗚呼(ああ)寛成(ゆたなり)は諸國を巡り、父を追ふて合して河内の獅子窟寺に歸る。」第二文書は「嗚呼(ああ)覺理は天に神避け、獅子窟寺に隱れ都す、百重原は帝の千代守る所。」とこんな意味ではなかろうかと想う。原文を有りのままに読めば巫女の口寄せか御筆先かという口調に類し、一種の悲哀を感じさせる。このようなヘンテコな文であるから、その意味などに重きを置くのも考えものであるが、一つ見逃すことのできないのは第一文書の三行目にある「口ち寺」の「ち」である。私はこれを「つ」の転訛(なまったもの)と取ったのであるが、類似の転訛は平群眞鳥の文書と称するものにも現れるから(以後も)注意すべきである。

 以上、文体の考察を約言すれば、この文はかな違いがあり、かなの多過ぎるのも時代が下ったものなのを示し、口寄せ風の口調もいかがわしいことであり、これを「長慶天皇の宸翰(御書簡)」などとするのは、まことにもってのほかのことである。

 第二に、書体について吟味すると、筆法は「長慶太神宮御由來」を書いた人のものと全く一致し、従って筆者が同一人物であることは疑うべくもない。前に特異な字形として摘出しておいた字がここにも出ているから証拠になる。二つの文書とも、第一行の第一字は「鳴」であるが、これは「嗚」の誤りである。「呼」の崩し方もあやしい。もはや誤字など云々(うんぬん)する必要も薄らいできたが、それでも参考になるから、例の特異の字形、すなわちかたくなさを有する三例を摘出する。それは、「歸」「都」「守」である。これが、やがては「後醍醐天皇御眞筆」にも重ねて出現するのである。

 以上、書体の考察をつづめていえば、これら二つの文書の筆者は「長慶太神宮御由來」の筆者と同一であるという事実に帰着する。

 第三に、内容について吟味すると、第一文書に「父ををふて合して歸る」とあるが、まずこれは「父を追ふ」と読み、御父君の後村上天皇の御跡を追われ、御一緒に河内にお入りになったと取ったのである。ところが、長慶天皇が河内に入られたのは「長慶太神宮御由來」によっても、この文書の日付け「元中九年八月二十六日(1392年)」より遠くさかのぼることはないと推し測れる。すなわち後村上天皇崩御の正中二十三年(1346年)よりずっと後のことである。そうすると「追ふて合して帰る」という読み方では史実と合わないことになる。そこで、「ををふて」の「を」を正しいとして、「終ふ」と読み直せば、そこまではいいが、今度は「合して帰る」に意味が続かなくなり、神秘的な説明でもしなければわけが分らなくなる。そして、神秘的な解釈なら勝手にできることであるが、そんなことをする必要もない。何故なら、この文書の記事は、いくぶん「長慶太神宮御由來」を補足する所もあるが、帰着する所は「由來記」と同一で、なんら事実と認められるものではないのであるから、結局、この文書は偽物と決まり、この上研究する価値のないものだからである。

 次に、第二の文書は、第一行の末字がよく読めないのであるが、多分「辟」かと思い、そうしてまたこの字は、このような文書には不相応と推測し、「避」のまちがいではないかととって、 を補って読んだのである。ところで、「天に神避くる」は、あながちおおまかに意味を理解することができないでもないが、いささか神秘的になる恐れがある。そこで、むしろ「辟」のままにしておいてどうかと見ると、「辟」の意味は、「天子」となり「明か」となり「徴す」ともなり、まだまだいくらでも意味がある。「辟」に、これらの意味をこじつけるには、更に努力を要するように思われる。こうして、どんな努力も、この文書のしんがりをうけたまわっている「由來記」同樣に、史実を肯定することは不可能である。結局、この文書は、第一文書と同じく偽物と決まるのである。

 以上、内容の考察をつづめて言えば、二通の文書の記すところは、だいたい「長慶太神宮御由來」の記事に含まれるか、あるいは演繹(えんえき)できる範囲のもので、全くの虚構に過ぎないのである。
 上述の理由により、「長慶天皇御眞筆」は、明治末期に作成した偽物と鑑定する。
 

     第四 後醍醐天皇御眞筆

 第三の文書は、標記に「後醍醐天皇御眞筆」と題し二通ある。全文、下の通りである。

 第一文書            第二文書
流が禮くる常陸のくに居     我禮隱魂ゆく登む靈實ば
足し王洗良日の國歸り      帝枝たむく帝の國倍榮
隱魂都こぞ           萬づ代守るぞ
 與國二幸已九月六日       興國二幸已九月十二日
  尊治(華押)          尊治(華押)
    惟光へ             惟光へ
    惟眞へ             惟眞へ

 上記、「後醍醐天皇御眞筆」と称する文書の二通は、「長慶天皇御眞筆」と称する文書二通と全く同一の筆で、偽筆であることは明白だが、一応の取り調べを行わねばならない。

 第一に、文体について吟味すると、二通とも「長慶天皇御眞筆」と称するものの文体と同じである。文意は判明しがたい所もあるが、第一文書は、後醍醐天皇が常陸国の大洗へ御着きになり、そこで崩御あらせられたといふ風にとれ、第二文書は、御隠れの後といえども、御霊は帝を助け国を守るべしと仰せのごとくに聞こえる。このように、私が考えたのはまちがっているかも知れず、また幸いにあたっているかも知れないが、何のために、このような堅苦しく難解な文句を書き綴り、畏れ多くも天皇の御名を、文書に付け奉ったか、怪しむべきである。坊さんの読経と同じく、分らない所が尊厳を増すとでも考えての行為か。それにしても御名を冠するには、もっと旨い文章を代作するべきであった。いかに秘密を守る必要があっても、これで押し通せると思うのは、ちょっと変だ。小首をかしげざるをえない。

 以上、文体の考察をつづめていえば、この文は、「長慶天皇御眞筆」の文と同じく、全くはなはだしい偽作である。

 第二に、書体について吟味するに、筆法は「長慶天皇御眞筆」と称するものと全く同一、したがって、また「長慶太神宮御由來」とも全く一致する。すなわち筆者の同一なることを思わしめる。前に指摘しておいた奇癖の文字は、これらの文書にも現れていることを注意すべきである。特に「長慶天皇御眞筆」に現れる「歸」「都」「守」等を比較すれば、同筆であること一目瞭然である。字形に無理があるもの、誤謬とすべきものをあげると、第一文書の第一行「陸」、第二行「足」、第四行「與」(興の誤り)、同じ行の「幸」(季の誤り)、第二文書の第三行「守」、第四行「幸」(季の誤り)等がある。これらの文書は、「長慶天皇御眞筆」と共に、文字はすこぶる大型で菱湖の影響を判然とみることができる。すなわち、これを文化文政(1804〜1829年)以前のものとすることは、許すべからざることなのに、いったい何の根拠があって、天津教はこのような幼稚な筆をもって、名筆かくれなき後醍醐天皇がお書きあそばされたなどと言いふらすのだろうか。

 以上書体の考察をつづめていえば、これら二つの文書の筆者は、「長慶太神宮御由來」の筆者と同一であるとの事実に帰着する。

 第三に、内容について吟味すると、文書に書かれたことの意味が明らかでなく、ほとんど理解に困難を感じる。こんな変態的な記述を吟味するには、いきおい作者の内心を忖度(そんたく)する必要も加わって、容易なことでは判断に達しえない。故に、明確に捕捉できる点についてのみ吟味する。そこで、第一文書の日付は、興国二年(1341年)九月六日。第二文書の日付は、同年同月十二日となっているが、史実を調べると、後醍醐天皇は延元四年(1339年)八月十六日に崩御あらせられているから、これらの日付は、崩御の日から数えて七百五十九日と七百六十五日目に当たっている。いずれも今日の勘定では、二年一ヶ月程度のへだたりがある。すなわち天津教では、後醍醐天皇崩御の後、二年一ヶ月を経て、なお御存命あらせられているととっていることになるのであるが、この事実は、これを歴史への無知に帰すべきか。それとも異をとなえるため、わざと大それた試みをなしたと取るべきか。あるいは、また霊魂不滅の実証を提供せんとの意であるか。いずれにしても、はなはだ面妖の次第である。ここでも負け惜しみをいうならば、天津教の知識の錯誤と迷妄の変態性が証明されたと見るべきであろう。

 以上、内容の考察をつづめていえば、この文書は、「後醍醐天皇御眞筆」とあるにもかかわらず、崩御後二年一ヶ月を経た日付けで書かれているから、まったく疑う余地のない偽物である。
 上述の理由により、「後醍醐天皇御眞筆」は、明治末期後の偽作と鑑定する。

第五 平群眞鳥眞筆

<平群真鳥:5世紀後半〜6世紀初頭の大臣。雄略朝に大臣に任命され、清寧、顕宗、仁賢朝の大臣の地位にあって政権を握ったと伝える。仁賢天皇の死後は国政を専らにして王になろうと企て、若年の武烈天皇を無視した言動が多かったという。その子、平群鮪が天皇の許婚の影媛をうばったために大伴金村に一族もろとも滅ぼされたとする。死に際し、諸国の塩を天皇が食べられぬよう呪詛したとの説話がある。
〜『コンサイス日本人名事典・改訂新版』(三省堂1996年3月第3版)より>

 第四の文書は、標記に「大日本天皇国 太古代上々代御皇譜 神代文字之卷」「大臣 紀氏竹内 平群眞鳥宿禰 書写 眞筆」とあり、二枚より成立する。その文は以下のごとくである。

第一枚目
「天地棟梁祖根(ムト)日根(ムト)人根(ムト)祖日根(ムト)
天神人祖一神宮 日根(ヒノムト)国
五色人ノ棟梁ノ天皇(スミラミコト)天津日嗣天日根天皇ノ系圖
寶骨像神体寶ノ大祕藏卷」


第二枚目
「天皇即位二年十月三日詔シテ日ヨリ即位五年十一月三日迄謹印シ
大臣紀竹内平群眞鳥宿禰謹
            神代文字「マ」 神代文字「ト」 神代文字「リ」
   大臣    大伴室屋連謹
            神代文字「ミ」 神代文字「リ」 神代文字「ヤ」
   連      物部目連謹
              神代文字「ミ」 神代文字「リ」
 即位五フクラムノ年十一月三日迄印
今上大泊瀬幼武天皇 奉上
棟梁皇祖皇太神宮ノ神代文字卷ヲ 形仮名唐文字以テ写シ寶卷
皇祖皇太神宮大祕藏ノ卷
萬国ノ棟梁天皇寶ノ卷」


 この文書は、今まで取りあつかったものと違い、単独の文書ではなく、一巻の記録の一部分をなすものである。第一枚は、表題あるいは扉にあたり、第二枚はたぶん同一記録の跋語(ばつご=あとがき)と追記に当てたるものと察せられる。

 第一に、文体について吟味すると、第一枚の第一行、第三行、第二枚の第八行、第十一行の四ケ所に「棟梁」の語が出ている。これは「総括する人」の意味に使用しているのは明らかで、別に不思議さもないようであるが、「長慶太神宮御由来」にも二度繰り返されており、いわゆるかたくなさを帯びているから注意を要するのである。

 次に、第一枚の第一行及び第二行に出ている「根」の字には、いちいち「ムト」とふりがなを付けているが、第四行の「根」の字には、このふりがなはない。しかし、ここでもむろん「ムト」と読むのであろう。この「ムト」は「モト」と同義に相違ないが、何故「モ」を「ム」と改めたかその理由は明らかでない。そこで「ム」を「モ」に復帰させて見れば、「祖根」は「祖の本」、「日根」は「日の本」、「人根」は「人の本」となって読めるには読めるが、ちょっと踏み込んで意味を考えると、判然としがたい所もある。

 しかし、この程度の言葉は、何とか解釈もつきそうに考えられる。ところで「祖日根」とは何であろう。これは、かまわず「祖の日の本」と読んで、どんな解釈でもこじつけできるようにしておこう。第二行の「天神人祖一神宮」は、「祖日根」以上に人の頭を混乱させる文字の組み合せで、結局、これもなんとでも、こじつけできるようにしておけば、さしつかえないわけであるから、むしろ読まないことにしておく。読まないながらも、いかなる意味でいっているか位のことは推測してもよろしかろうと思うから、ちょっとその意味を忖度(そんたく)して見よう。そこで直下に控える「日根国」であるが、これは「日の本国」と読み、すなわちわが国をさしていることは、その下に続き出る言葉との関係上、寸分の疑いもないことである。

 おおよそ国民として自分の国をよくしたいのは至情であるから、往々、自慢に取られるようなことをいってもゆるすべきであると思うが、この文の作者もまた、わが国民であるから、忠君愛国の至情のあふれる所、ついにこのような難解の文字をつらね、その間に広大無辺・神聖霊妙の意味を含蓄せしめ、もってわが国を称賛しようと試みたのであると取るは非とすべきだろうか。あるいは難解とみることに対し異存はあっても、精神をくみとりえたとなすのに異存はあるまい。何となれば、公平な第三者の立場から見て、これほど都合のよい解釈はあるまいと考えられるからである。そこで、今までいったことは分からなくても、一番都合のよいように、てっとりばやく、日本をいかめしく形容するために集積した語であろうととって置く。

 第三行の「五色人」はかつて辞書にも見たことのないような気がする名目であるが、あとで内容の吟味に際し重要な役目を演ずる言葉であるから、この所で十分、事実を厳しく調べて置かねばならぬ。「五色人」とわずか三文字の組合せであるが、実物を示されるのならともかく、単に文字だけでいかなるものであるかを極めようとすると、あたかも力学の三体問題<三つの物体の間の物理運動についての問題。正しい解が出せない>にあやかったごとくに、見当をつけるのに絶大の困難を感ずる。

 幸いにも、この所には犯すべからざる制限があって、問題をややあつかいやすくしてくれることを見出すのである。その制限とは、すなわちいかなる解釈を得るにしても、いやしくもわが国に不利益になるようなものを採用することはできないということである。この制限は、第一行・第二行における難解な文字を処理した方針の延長と見るべきもので、なんぴとといえども異存のあるべきものではない。

 さて、「五色人」を、「五の色の人」、「五の色人」、「五色の人」と、三種類の見方をして見当違いにならないようにつとめる。第一に「五の色の人」と見るとき、「色」と「人」との間の「の」が、所有格を現すととれば無意味となるため、これを「五の色」の下につけ、「人」を形容するための接続詞ととれば、結局「五色の人」と同じ意味となるのである。第二に「五の色人」と見るとき、「色人」とはいかなるものかと問うまでもなく、僅か「五」だけの「色人<妻妾>」の棟梁では天皇(スメラミコト)も大したものにならないから、この見方は廃案とせざるを得ない。そこで、残る第三に、「五色の人」と見るとき、まず「色」の意味を、いわゆる「五色」の色の意味にとるのが最も自然である。

 しかし、そうしたところで、「五色人」は、まさか<体の表面に>斑(ふ)の入った人間というわけであるまい。また、七面鳥や七面トカゲ<カメレオン?>のごとく、五通りに色を変える人間というのでもあるまい。なぜなら、万一そんな人間がいたとしても、確実に病的な現象で、たくさんその例があるはずもないし、あった所でますます有難くないものなので、スミラミコトには不相応のものと断ずるべきだからである。そうならば、「色」を目に見える五色の色を指すのではなく、心の移り変わりを指すととったら、いかがであろう。古来、心の根本作用なり、あるいは完全な徳性なりを、あるいは「三」、あるいは「五」、あるいは「六」、あるいは「七」と区分して、名づけているが、この意味において「五作用」、あるいは「五徳の人」と称するかわりに「五色の人」というのも、面白くはないが矛盾もないから許しておけるだろう。

 しかし、この意味における「五色の人」は、単に「人」というのと同様であるから、第一に特色となる「五色」の文字が引立たないことになる。よって、この案は矛盾もなし、不敬にもむろんならないが、さらに「五色」の文字を活かすところがないから廃棄する。そこで、今度は「五色」を静的に並列して見ることをやめ、動的に連続して見ることにすれば、第一に、年齢による精神的な変化を基調として考えた「人間」が想い当たる。しかし、これも、やはり「一般の人間」というのと同じことで、「五色」の文字が引き立たないから取るべきでない。第二に、病的な精神の変化を基調とする場合も考えられるが、うがちすぎだし、その上、<前述の>制限に触れるから除くことにする。第三に、心がわりのある人、豹変する人などを考えることもできる、これなら多数の例を得ること容易であるが、結局、制限に触れることになるから捨てる。

 以上、「五色人」の解釈を種々に試みたが、みな廃案にせざるをえなかった。そうして、いずれの解釈でも「五色」なるものを、各個人が持つものとしてとったのであるが、そもそも、この点がまちがっていたのでなかろうか。否、制限に抵触する原因となったのでなかろうか。ここに気づいて見れば、今度は「五色」を人ひとりの上にかけて見ることをせず、全人類を五つに区分すること、すなわち色別をなす方法を考えることが必要となって来る。

 そして、この方法にも「五色」<の修飾語>を、肉体的な意味にかけるか、精神的な意味にかけるかによって二つの場合を生ずる。心にかける場合を考えると、いわゆる五気質、すなわち粘液質、胆汁質、憂鬱質、神経質、多血質の人間ということに思い当たる。しかし、五つの気質の人は一国内にも一郡内にも一町村内にも見出すことができる次第で、万国の統御に当たれる天子の赤子全体を総括する名称としては適したものとはとれない。よってこれをも廃案とする。最後にあますところは、肉体にかける場合を考えることである。この場合、「五色」の意味を、自然な意味にとり、最も善く適合するものを発見する。

 明治初年の小学校の読本に、世界には五大洲があり、そのおのおのに特有の人種が住居し、それぞれの人種の皮膚の色がちがっていると説いてあったと記憶する。この五種の人間を「五色人」ととるのが一番自然であるのみならず、ほかの意味に取るのは不自然だったり、不敬になったり、さしさわりがあったりで面白くないから、すなわちここに定説を得たことにしておこう。

 同じ行で、天皇に「スミラミコト」と振仮名を附けているが、普通「スメラミコト」というところを、わざと「メ」を「ミ」に改めた理由はわからない。しかし、さきに「モ」を「ム」となしたのと同じ原因によるものとすれば、例のかたくなな何ものかが働いていることが察せられる。第四行より、第五行にわたる「寶骨像神体寶」とは、宝骨をもって造った像を神体と崇め奉った宝物という意味であろう。

 以上、部分的に意味を探究しても、なお判然とし難いところもあるが、大体においてこの執拗に見える文字の行列も、案外、単純なことをいっているようである。すなわち全文をわかりやすくすれば、『天地の棟梁、すなわち「祖根」「日根」「祖日根」はいうもさらなり、天神人、ありとあらゆるものの祖の唯一の神宮というべき日本国に御座して、世界の五種の人類の棟梁にてまします天皇、すなわち天津日嗣・天日根天皇の系図、及び宝骨像御神体の宝物たることを記した大切なる秘密の巻』となる。つづめていえば、「世界の主たる日本の皇室の御系図と宝骨像由来記を合した秘書」となる。このように解釈すれば、前にいったように、これは、表題もしくは扉書きの類なのがわかるであろう。

 第二枚の初めの二行、文法の違反したやり方が二ヶ所ある。まず第一行の「詔(みことのり)シテ」は「詔ノ」「詔シタル」「詔セシ」等とすべきで、もし敬語を使うならばば「詔シ給ヘシ」というべきである。次に第二行の「謹印シ」であるが、「印」は「長慶太神宮御由来」の第二十三行を吟味した際、参照しておいたように「記」の当て字である。その下の「シ」は、「ス」とすべきを、文法を犯しているもので、類似の違反は、第九行にも繰り返されている。これら文法上の違反は、かたくなさを帯びたものと取るべきである。

 次に署名の方式は、前に「長慶太神宮御由来」を吟味した際、参照しておいたように、ここでも全く同一の様式をとり、皆、「謹」の一字をもってとどめている。そして、直下に華押を書くかわりに、<縦書きのため>左側に神代文字をもってこれを記している。
 署名の前に「即位五年十一月三日謹印シ」と記しながら、第六行に至り、また同様のことを繰り返している。これは、この文書に共通な執拗性の一例と見るべきであるが、ただ「五年」とのみいわず、「五年フクラムノ年」と記したのは何の意味か。「フクラム」を「脹らむ」とすれば「ノ」は不必要なのを、そうしないのは文法に暗いせいだとせざるを得ない。しかし、「脹らむ年」の意味は、依然として不明なので、仮に「栄える」の意味にちがいないとしておく。

 第七行は「今上大泊瀬幼武<きんじょうおおはつせのわかたけの>天皇」に上げ奉ると読むのであろう。第九行「形仮名唐文字以テ写シ寶卷」は「カタカナ・唐文字をもって写す宝巻」の意であろう。このの「写シ」を「写セシ」あるいは「写シシ」等のカナの一字を省いたものと取ることは、文章の調子より推測して、過ぎた穿鑿(せんさく)と思われ、やはり「ス」とすべきを「シ」と誤れるものととるのが自然の見方であろう。すなわち、この文の作者は、すでに第二行においても「印ス」とすべきを「印シ」となし、またここでも「写ス」とすべきを「写シ」となし、同じ誤りを繰り返すがごとき常習癖を持つものととって差し支えないだろう。これを東北日本の人、もしくは出雲地方の人、あるいは「シ」「ス」を使いわけることができない程の無教育者ととるのは非とすべきか。

 この第二枚に現れた文意を説明して見れば、「雄略天皇即位の二年十月三日平群眞鳥は詔を受け重要記録の書写に従事し、五年十一月三日に至りその業が終わった。できあがったものは、棟梁皇祖皇太神宮の神代文字卷をカタカナ及び唐文字を以て写す宝巻、皇祖皇太神宮大秘蔵の卷、万国の棟梁天皇宝の巻の三種で、これを今上天皇に上げ奉る」というのである。

 以上の文体の考察をつづめていえば、教養ある人の手に成るものとはとれない俗悪の文章であり、ことに発音上「シ」「ス」の区別ができない疑いも加わり、この点、地方的な色彩が濃厚となり、中央政府の重要なる地位にある平群真鳥の筆になるなどとは、およそ信ずべからざることである。

 第二に、書体について吟味すると、二枚とも同一の筆法であり、一人の筆に成ることが明らかである。しかし、この人は、今まであつかってきた「御真筆」および「長慶皇太神宮御由来」を書いた偽筆家とは別人と認められる。その証拠は、前者は生れつき器用と思われ、また菱湖の影響を受け、文字は幾分、媚態を帯び、一定の型を有するのであるが、後者はむしろ不器用と思われ、これという書家の影響も現われず、文字に風流さ上品さがすくなく、至ってかたくなさに富んだ書きぶりである。書家の影響が認められないとはいったが、後者の書風はよく神道家に見受けることがある。それは、某神道元祖の影響によるものであるが、なお研究の余地があり、かたがた断定を差し控える。

 個々の字形について見ると、第一枚の第二行に「国」の字の異形を用ひており、第二枚の第一行に「詔」の字を誤って書いている。この他、各所に散在する「祖」「神」「寶」「卷」等、皆、許すべき範囲の字形であるのみならず、一方、字形の正確なるものとひろい上げると「梁」「嗣」「即」「謹」等が数えられ、大体において字形は正確で書き振りは謹厳であるととって差し支えない。この点、また某派の文字ににかようところがある。

 以上、書体の考察をつづめていえば、文字は極めて克明に書いているが古雅の風致に乏しく、いたって近頃のもののように思われる。

 第三、内容について吟味すると、第一枚に記するところの奇怪な文中、「五色人ノ棟梁」なる言葉は見逃せない。もし、これが私の推断通り、「五大洲<アジア・ヨーロッパ・アメリカ・アフリカ・オセアニアの五大陸>」に関係あるものならば、この「五大洲」は一体いつ頃から言いならわされるようになったかを考えるべきである。日本はもちろん、西洋でも古代において五大洲の呼び名があったわけではない。なおさら五種の人種があるなど、思いもよらないところである。皮膚の色をもって人類を五種に大別したのはブルーメンバッハ<ヨハン・フリードリッヒ・ブルーメンバッハ:19世紀ドイツの解剖学者・人類学者>の説より始まることで、まだ百五十年も経つたか経たないかの事である。故に、「五色人」を云々するからには、この文章はブルーメンバッハ以後のものと、とらなければならない。もちろん、ここでも負け惜しみが出るであろうが、恐らくこれは「小学読本」が出て以後のものであろう。

 次に「寶骨像神体寶」であるが、宝骨といえば尋常の人の骨とは取り難い。これは生前、高貴の地位にあった人の骨を指していった言葉であろう。前からの続きを考えると、あるいは至尊の御骨をいうもののように思われる。果して、そうならば、これまた見逃しできないものである。いったい、死骨を処理する方法として、「土葬」「火葬」「水葬」「風葬」等が考えられてきたものであるが、いずれの方法も、無残な有様を見ないようにするのが目的で、人情としてまことに無理のないことである。しかし、特別の目的があればミイラにもし、アルコール漬けにも塩漬けにも小間切れにもする。もちろん、人形にすることもできる。かの「被服廠」跡<三万数千人が震災の火災の旋風で大量焼死した本所被服廠の跡>に関東大震災の猛火で死んだ人々の骨を砕き固めて仏像を作って拜ませているなど、その著しい例である。

 ところで、ミイラやアルコール漬けは、是認すべき理由も立つが、人形を作る動機に至っては論議すべきところ多々ある。<死体の骨を>砕いたりこねたりしていじくりまわすとは普通人の忍びないとする所であるのに、これを敢行するに至る原因は、そもそもいかなる心理より生ずるかが問題となるのである。私は、ただちに思想の変態性及び頽廃性を連想せざるを得ない。そして、尊貴もしくは、権威に対する場合には、おもねりを帯びることを自然とすべきである。これらの点を調べようとすれば、いきおい人の心ばえをえぐることになるきらいもあり、同時に確かな証拠をとらえることも困難と思われるから穿鑿(せんさく)はやめにする。また、これよりも大切な点は、わが国において、果して人骨をもって人形を作る風習が存在したか否かであるが、「今日もあることなれば昔にあっても差し支えなし」など抗弁されては、急に白黒もつきかねるゆえ、これも論議を略することにする。

 次に、第二枚に記載の署名の形式、神代文字の花押等、当時、果してそのような書方があったかどうか、誰も知らないことはごまかせるにしても、議論を水掛論にできない境地にもちこんで、そこにおいて問題となるのは「形仮名」である。天津教で「形仮名」なる文字を使う意味は後でわかるが、ここではこの文字によって何を現そうとしているかといえば、それは単に「片仮名(カタカナ)」である。そこで、この片仮名は、吉備眞備に始まるといふ伝説は誤りであったにしても、雄略天皇の時代に、今日と同形の片仮名があったとは恐らく信ずる人はあるまい。もし、その時代にそうした仮名があつたら萬葉集にあんな難しい万葉仮名など使用することがなかったろうと思われる。

 しかし、この程度の反撃は、例の負け惜しみでかかって来るであろうから、すぐ目の前に見える致命症の癌を指摘する。「形仮名」の下にある「唐文字」の「唐」が不治の癌である。この「唐」は「カラ」と読ませるつもりであろうが、それなら「漢」と書かなければならないので、「唐」では時代錯誤となる。「唐」は、雄略天皇以後、百五十年あまりを経ておこった国であるから、平群眞鳥が三百年生きても、雄略天皇即位五年に当たり、この字を使用する理由は一つも見つからない。これは、後醍醐天皇崩御の二年一ヶ月後の「御眞筆」と同型の話で全く驚かされる。それとも、ここの「唐」は、「唐虞(とうぐ=中国の伝説時代の古代聖王、堯と舜)」の「唐」と取れば、時代の矛盾は無いことになるが今度は文字が承知しないことになる。唐虞時代の文字は誰も知らないが、周王朝より以前に楷書があるなど聞いたことがない。あるいは「唐」は「韓」のまちがいであったと逃げる道もあるが、「唐」を「カラ」と読むことを知っているからには、やはり「唐」王朝以後のこととなり、結局、逃げる路を失って斃(たお)れてしまう。
 以上、内容の考察をつづめていえば、内的矛盾を含むのみならず、明治後にいたってようやく知れわたったことを記述するなどのこともあり、これを雄略天皇時代の記録となすは妄言もはなはだしい。

 上述の理由により、「大日本天皇国 太古代上々代 御皇譜神代文字之卷 大臣紀氏竹内 平群眞鳥 宿禰 書写 眞筆」は明治時代の偽作にして、作者は他文書の作者と同一人とすべきも、筆写者は他文書の筆写者とは別人と判断する。


第六 神代文字之卷

 第五の文書は、標記を「大日本天皇國太古代上々代神代文字之卷」と題し、第四の文書の標題と極似しているが、「御皇譜」の三字を失っている。そうしてこれは第四の文書と同様に、単独の文書とみなすべきものではなく、まとまった記録の一部分をなすものと推察される。前後二枚続きになっていて、ことごとく見慣れない文字で書き記してある。 これが、いわゆる神代文字というものかと思うと、いささか驚かされるが、しかしそう聞かされても、少しも驚くこと はない。今まで「平群眞鳥」の翻訳を見てきた所で、古い言葉も正しい事実も知らずして、デタラメを書いているので あるから、こちらもそのつもりで、どしどし片付ける方針に出る。

 ところで、ただ一つ困ったことは、この文書は一見して、第四の文書の原文と見ることができない、すなわち第四文 書は、この文書を判読するのに最初の手がかりとすることができない。よって致し方がないから、この文書自体の上に 手がかりを探すより他に道はない。さて、この文書の本文は以下の通りである。


図1[神代文字の巻](クリックすると拡大した画像がでます)



 上記の文書の中から、形の異った文字を拾い出して見れば、その数は四十四となる。そうして、ある文字の右肩に「¨」の符を付けたものを見受けるが、これは濁音符と解する。そうすると、これら四十余の文字は、「イロハ」あるいは「五十音」にほかならないとの推測をなす事ができる。この仮定の下に、これら四十四の異様な文字と五十音とを一 致させる試みを、おおよそ二十段に分けて展開して見よう。

一。第十九行および第三十二行に、どういうわけか同位置に と、それぞれ記入されているが、これは文字の所在の位置から推察して、紙の枚数の番号を示している数字と取れ、とりわけ黒く消した所は、書き損じのあったものと見られる。こうして、上の二枚は連続した一枚ものとして置いたが、枚数の番号順に考えることが最もふさわしいと思うから、この仮定のもとに、いま取りあげ た異形文字の二つの組み合わせは、二個の連続した数字として読むことを試みる。そして、既に示した方針に従い、こ れらの文字を大胆に近代の読み方にするのである。そうすると、まずもって以下の読み方のほかにはないことになる。 【 】内の読み方は、文字の間の相互の関係によって否定されることは、下に説明するとおりである。


(一)    【三サン】 ロ ク 【シチ一】 【ハチ四】
(二)     シ フ
(三)      ニ  【シ 一】 【三コ 】 【二ク  】
(四)   【二いチ】 サ ン 【三ロク】 【シチ一】 【二ハチ】


 第一に紙の番号を表す文字数が五個と六個であることから、これらの数は十の位の数であると決定する。次に(二) の はその位置により、「十」の読みに当たるだろうことから「シフ(じう)」と判読できる。すなわちは「シ」、 は「フ」と同定する。同時に【  一】内の読み方は否定される。次に(三)のと(四)の とは連続する数を現すものであるから、この条件に抵触する【二  】内の読み方は消滅する。次に は第三行及び第八行に言 葉の頭の文字となっているから、ラ行のカナではない。すなわち、これを「サ」と取る。同時には「ン」、 は「ニ」 と決定する。そして【三  】内の読み方は消滅する。次には、絶えて言葉の頭の文字になっていないから、ラ行の字と取る。すなわち【  四】内の読み方が消滅して、 は「ロ」、 は「ク」と同定される。以上、合計七字が同定されたのである。

<八神注:絵文字一個につき「一個の音」となるので、数詞もすべて「ひらがな表記」のように音だけで表現している。つまり、「一、二、三、四、五、六・・・十・・」も「いち、に、さん、よん、ご、ろく、なな・・・じう・・・」 と音だけで表現されている。たとえば「一二三」は三文字だが、この絵文字を使うと「ひやくにじうさん」という八個の文字の連なりとしてあらわされる>

 第二に。第二十六行より始まり、第三十行に終る五人の署名とおぼしき終りの三字は、皆 となっている。本文にも、この組み合わせが所々に出ているところを見れば、これは確かに神代にしばしば使用される語で、人名の終りにつく「尊(みこと)」のことであらう。この推定により は「ミ」、 は「コ」、 は「ト」と同定される。

 第三。象形文字と思われるものが、数多(あまた)あるが、既に「サ」と同定し得たは、「柵」の象形なること明かで、 は「荷」、は「身」、 は「戸」の象形であろう。この例にならえば、は「田」すなわち「タ」、 は「手 」すなわち「テ」、は「目」すなわち「メ」、 は「矢」すなわち「ヤ」、は「輪」すなわち「ワ」なること、一見して明かである。その他にもたくさんあるように見えるが速断し ない。


 第四。以上三段の結果を、第二十九行及び第三十行の尊の名前に応用すればは「コヤ」 「ミコト」、 は「フ トタ」 「ミコト」となり、を「ネ」、 を「マ」とすれば完全 なる名前となる。よっては 「ネ」、 は「マ」と同定する。


 第五。第四文書の第二枚の第三行「平群眞鳥」署名の左側の神代文字の花押 は「マト 」であるから は「リ」と取ってまちがいなかろう。すなわち を「リ」と同定する。


 第六。第二行に とある中に すなわち「十」、 すなわち万年など入っているところを見ると、この組み合わせは 数字と思われる、そうして象形と取られるは「葉」、 は「乳」すなわち「ハチ」を成立せしめる。また数字とすれば「億」を想わしめ、同時に は「尾」の象形なることが知られる。元来、「億」は「オク」であるべきだが、神代にあって自由に漢音を使う位であ るから、「オ」と「ヲ」の混同などは問題とならないであろう。よっては「ハ」、 は「チ」、 は「ヲ」と同定せしめる。

 第七。第一行終りより第二行にかかって とある が、「ヲミヤヲ クリテ」で、 は前後の関係から「ツ」と取る のが自然である。すなわちを「ツ」と同定す る。


 第八。第八行、第九行及び第十六行にと組み合わせがあるが、これは「ミコト」であるから、天津教の「スミラミコ ト」を想出させる。すなわちを「ス」、 を「ラ」と同定するのである。さいわいにこの想像による同定は、他に応用して 支障を生じないから確定しておく。


 第九。第三行、第七行、第十一行等にがあり、第十三行にがある。そして第二十行に、この二つの連続が ある。この中に知られている字は、ただの二字であるが、直覚的にこれは「いザナギ」「いザナミ」であろうと云うこと に思いいたる。そしては「木」、 は魚の象形と取ればよいので、この判読の当たっていることは疑いない。すな わちは「い」、 は「ナ」、 は「キ」と同定する。


 第十。第四行に 、第五行に とあるのは、「いツいロト」、「いロ ト」となり、五色人を思い出させ る。そう思いつけば、いかにも火の象形と取れる。よって を「ヒ」と同定せしめる。


 第十一。第十行末より十一行にわたり、とあるのは「マテラスミコト」にて、 を「ア」とすれば「天照らす尊」となる。よってを「ア」と決定する。


 第十二。第一行に二ヶ所、その他にも現れる組み合わせは、「ヲホ」として「大」の意味に取れば意味 が通じる。「大」は元来「オホ」であるが、天津教では「ヲホ」で差支えないのである。故にを「ホ」と同定する。


 十三。第二十四行 は「シタマフ」と爲すべき所だけれど「マ」は既にと同定しているので、「天津教」流にか なづかいに頓着せずに、「シタモフ」でも通ずることにし、 を「モ」と同定しておく。


 十四。第二十七行 は「野」の象形で「ノ」の字 であることは明かである。これは隨所に現れているが、この推測の妥当なことが、じきに証明される。すなわちを「ノ」と同定する。


 十五。第十五行 は、前後の関係より「加賀の白山といふ」と解すべきである。すなわちは「カ」、  は「い 」に当てるべきだが、「い」には既にが同定されているから 、 は「ユ」であろうと思われる。けだしこの字は「湯」の 象形である。この推断の妥当なることは、第七行の、第九行の 、第十一行の における  の用例に照らして明ら かである。


 十六。第五行及び第二十一行に現れる は、明らかに象形 字であるが、これは亀の如き動物の背をかたどったものと解し「セ」とする。それで意味が通じる。


 十七。第五行、第六行、第七行、第十三行等に現れるは、 前後に鑑(かんが)みて「ヨ」とすれば意味が通ずる。すなわちを「ヨ」と同定する。


 十八。第八行、第十一行より第十二行に至る、第十四行 、第二十五行 (本文 が脱けている)等におけるは、数字を現わすものと推測せられる。ところ で一(いチ/ヒトツ)、二(ニ/フタツ)、三(サン/ミツ)、四(シ/ヨツ)、五(コ/いツヽ)、六(ロク/ムツ )、七(シチ/ナナツ)、八(ハチ/ヤツ)、九(ク/ココノツ)、十(シフ/トウ)、百(ヒャク/モモ)、千(セ ン/チチ)、万(マン/ヨロツ)、億(オク)と並べて見ると、ただ「六」の名称に含まれている「ム」の字だけが残 されているのである。すなわちを「ム」と取る。しかし「ム 」を「六」として応用して見ると六六億万年、一六六万年、七六六万年、八六六万年等となり少しも意味をなさない。 しかるに天津教では「モ」を「ム」となまる例は、第四文書の「根」を「ムト」と読ませることでわかっているが、こ この「ム」も「モ」のなまりと取れば「ムム」も「モモ」すなわち「百」と解せられる。こうして意味が完全に通ずる 。すなわちを「ム」とすることは正しい。


 第十九。第二行、第十六行、第二十五行にの言葉 があるが、第二十五行における下の言葉との関係から即位に当たるものと推定できる。すなわちは「ソ」と同定する。


 第二十。以上、四十四字の中、三十九字を同定し得たから、残るものはの六字となった。そして、「いロハ」の側から 見て同定されないものは「ヘヌルレウいオケエヱ」の十字である。これらの十字を代るがわる神代文字に当てはめ、意 味が通ずるか否かを見れば、おのずから同定できることになるのである。同定の結果をいえばは「ウ」、 は「エ」 、 は「オ」、 は「ヘ」、は「ル」、 は「レ」である。これで文書中の文字は、ことごとく皆わかったのであるが、同 時にまた「ケヌヰヱ」の四文字が、文書内に現れていないこともわかったのである。


ア行      
カ行        
サ行      
タ行       
ナ行         
ハ行       
マ行       
ヤ行          
ラ行        
ワ行            
ン  



 上記、二十段の検索による結果を、五十音の表にすれば上のごとくである。一見、象形文字と想われるものを摘出す れば、蚊、 木、柵、 背、 田、 乳、 土、 手、 戸、魚、 荷、 根、 野、 葉、 火、 屁、 穂、 眉、 身、 褓(むつき)、 目、 藻、 矢、 湯、 輪、 尾、などが得られる。他もまた皆、象形文 字らしく想われるも、にわかには決定しがたい。

 さて全部を象形であるとすれば、これはすなわち形文字で、この形文字を念頭に置き、これに対して片仮名を、第四 文書において見たような「形仮名」と称するのではないかと推測される。これは決して妥当な名称とは思えないが、天 津教がこのように考えたのでないかと思うのである。もしこの推測が当たっているなら、天津教は、「木に竹を接いだ 」と評すべきである。

 第一に、文体について吟味するが、まず部分的な検査より始める。


(イ)文字の右下方に位する小黒点は句読点であるが、いらないと思うところにあったり、一個で十分であるのに二個 打ったりしてある。第四行、第七行、第十一行、第十三行、第十五行、第十六行、第十七行等にも、その例があ る。


(ロ)かなづかいの誤りは甚だおびただしい。「オ」と「ヲ」の混用は多くあるが、意味を取り違える恐れもないから いちいち指摘しない。「ス」を「シ」とする頑なさは、無論ここでも継続する。第一行の第十六字 の誤り、第四行の 第十二字 もまた の誤り、第六行の第十字、及び第 七行の第三字 の誤り(この は古語と取ればさ しつかえない)、第二十四行の第十三字の誤り、第二十八行の第三字 の誤り、第三十一行の第十九 字の誤りとすべきである。


(ハ)全く関係を認めることできない字を使ったものに、第二十四行の第六字がある。これは とすべきであるが 、この文章ならでも我慢できる。しかし では全く意味をなさない。


(ニ)脱字を掲げれば、第二行の の下に月の名が落ちているが、何月を入れてよいかわからない。第三行の第十二 字と第十三字との間にの三字を補わなければ「いサナキ ミフタカミ」で意味をなさない。第七行の第七字より始まるは、脱字がありそうに思われる。 の間に を入れると、「是ヲバ一ニ」の 意となり、わかることになる。第十四行の第十七字の上に を補うべきであると思う。それとも天津教の用例で、この文 字を省略するのを慣例としているのかも知れない。第十六行の第二字と第三字との間、及び第二十六行の第六字と第七 字との間には、第十行における用例に従えばを入れるのであ るが、これはいずれを是とすべきかわからないが、注意を要するため、ここに記して置く。第二十三行の第十五字の下 にが脱けている。第二十五行の第十字 の下にはを抜かしてい る。

(ホ)動詞の終止形を取るべき所に連用形を用いることは、第四文書において見出されたのであるが、この第五文書の 中にも現れている。本文中にもあるが、最も著しいのは署名に伴って現れている。このことは第四文書におけるのと同 じである。第二十五行以下、第三十一行に至るが、すなわちそ れである。


(ヘ)神代の言葉をもって記してあるはずなのに、漢音の言葉がまじっている。第二行(即位八十八億万年)、第三行 (サいシ)、及び(サいカンシヤウ)、第四行 (天)、第六行(スいモン)、第八行 、 (天ヲ百億万年)、第十一行より第十二行にわたり、 (百億五百万年)、第十四行 (億)、及び (万年)、第十六行(即位)、及び (八)、第十六行 (万年)、第 十九行(六十二)、第二十一行 (サいカンシヤウ)、及び (サい)、第二十二行 (天)、 (フクサい)、及び(「サいクワンチヤウ」この語は前にも出ているが綴り方が異なってい る)、第二十五行 (即位八百万年)、及び (一)、第三十二行(六十 三)など、もって徴すべきものである。

さて、脱字・誤字等を補正すれば、全文は以下のごとく読まれる。下線をほど こしたのは誤字、〔 〕に入っているのは脱字である。


ニ、スミヤスミラホカミタマシヘタカラヲ、

ミヤヲツクリテ、ソクハチシフハチクマンネン、(不 明)

マドムツヒ、サイイサナキ〔イサナ〕ミフタカミ、サ カンシヤウ、
マツリス、イツイロヒトハレス、、テンヲ、ミコトシ、ヲンヘタ

チ、イタノクニノ、イタルネクニムリセヨトアリ、イロヒト、イト

マシテ、オノレノクニイ、コシネノドノ、ニシウラスイモン、ヨリ

カライカヘル、コヲ〔イ〕チニアメヨリアマクタリトフ、、イサナキ

スミラミコトテンヲ、ムムクマンネンサナヘツキ

タツイチヒ、ミコトバヲアメマツリスミラミコトヲユヅ

リコト、アネノアマサカリヒニモカツヒミアマテラスミコ

トニ、ユツリワタ、、イサナキカミムムクイツム

ムマンネン、フクミツキ、マドヨツヒ、コシネナカ、ニエヤ、

トトノヲヤマ、ヨリ、カミサリ、イサナミカミ、、ムムヲクマンネ

ン、カナメツキ〔ツ〕コモリムツヒニ、
カミサリ、トコロ、カカノシラヤマトフ、、アマサカ

リヒ[ニ]モカツヒミスミラミコトテンヲ、ソク ハチム

ムマンネン、ムツヒツキ、タツイチヒ、ニ、ムトフミクラ

イシノシヲヲツカミヲホネノカミヨリ
                    ロクシフニ

イサナキいサナミフタカミ、マデ、フミシテ、

セマツリ、サインシヤウシ、マツリ、サイ

テンヲ、フクサイ、シサノヲミコト、サイクワンヤウ

カネ、コヤネ、フトタマ、ヤホヨ〔ロ〕ヅカミ、

ミコト、ツトテマツリシタウ、

 ソク ハチムムマンネ〔ン〕ムツヒツキタツイチヒニフミ

                        テンヲフ
  アマサカリヒ〔ニ〕モカツヒミスミラミコト 
                      サイシミ

                      フ
        ツキモカツスサノヲミコト 
                      ミ

                    フ
            カネミコト 
                    ミ

     クニヲ               フ
   マ ヒトヲ リ カミ  コヤネミコト 
     ミイヲ               ミ

                     フ
             フトタマミコト 
                     ミ

 スミヤスミラホカミタマヤノタマシ
                ロクシフサン


 この文の終りに、「天照太神即位八百万年正月元日」の日付にて御署名があり、これにつづき「素盞烏尊(すさのお のみこと)」「天思兼命(あめのおもいかねのみこと)」「天兒屋命(あめのこやねのみこと)」、「天太玉命(あめ のふとたまのみこと)」の副署がある。すなわち、この文書は神様の御書であり、たとえ模写であったとしても国宝の 資格は十二分である。しかしながら、文章の口調からみて、どうしてこれが神代のものと考えられよう。幼童の数え歌 でさえ、古い呼び方を伝えている数字の<読み方>を、この文書ではほとんどみな漢音で読んでいる。あまつさえ、「 年、即位、勸請、水門」等の語も漢音で出現する。さらには昔をしのばせるめでたい語句はさらに見当たらず、年月日 の鵺(ぬえ)的な読み方などは、もって証拠とするに足らないのみか、かえってぶちこわしである。

 故に、この文章は一見して近頃のもので、しかも拙劣な書きぶりであることもうなずける。もちろん、天津教は「こ れは神代の原稿である」と主張し、その主張の前提として「漢音などは皆、日本が創始した」と言うだろう。何事でも 「日本が創始した」という負け惜しみの考え方は、ひとり天津教に限らず、昔からよく耳にするところで、世間一般に あることとして聞き流しておいてもさしつかえはないが、先に部分的に指摘しておいた、この<「形仮名」>文の欠点 は見逃し難い。かなの違い、脱字、誤字など、まさに乱脈と称するべきなのに、さらに御母親・伊弉那美尊(いざなみ のみこと)の御名の大半を書き落とすような麁相(そそう)の責任を、一体誰に帰させようとするのであるか。ここに 想い到るなら、天津教は、よろしく反省悔悟して深く謹慎すべきである。

 そもそも、このような乱脈は、書き手の頭が悪いか、もしくは取り急いだための過失によるととるのが、最も穏当な 解釈であることに反対する人もあるまいが、これに加えて天津教における、事態をここまで至らせた特殊な事情も、進 んで推定できると思う。すなわち、天津教では、平群眞鳥の記録を「神代文字の記録の翻訳」と称しているが、事実は 正反対で、神代文字の記録が「平群眞鳥の記録の翻訳」なのである。そのような特殊な事情のある下で、翻訳を取り急 いだため、古語の穿鑿(せんさく)も行き届かず、いやが上にも誤謬を犯すに至ったものと解すべきである。

 以上、文体の考察をつづめて言えば、この文書は神代文字で記してはいるが、他の文書と同じく近頃のもので、その 作製は第五文書より後のものと推断される。

 第二に、書体について吟味すると、文字は象形と取るべきもので、書とも画ともつかないながら、その両方の性質を 認めなければならない。すなわち書画一致の見方を応用して、どんな高尚な芸術性があるかを探して見るが、どこか生 硬なるものがあって、あまりよい感じを与えない。技巧の上から見ても、単なる熟練はあっても苦心による丹精修練を 認めることができない。しかしながら、この点は、先入観の連想が働きすぎる恐れがあるから多くを語らない。筆者の 同定に関しては、なおさら臆して判断をさしひかえる。

 私は、いわゆる神代文字の予備知識が無かったため、これら文書の調査を始めた時には、天津教の神代文字が読める などとは想わなかったが、ページの数字にふと気づいてから奮発して、おおよそ一ヶ月を費して全部が読めた。後に、 友人の渡邊大濤氏から、近頃、氏の著した神代文字の本の中に、この文字が説かれていることを聞かされ、自分の寡聞 を恥じると同時に、世間にはまた迷信者もあるものだと思った。この時、ふと『上記(ウエツブミ)』に使用した神代 文字も、この文字ではなかったかと想い、調べて見ると果してその通りである。

ここで天津教の素性はすっかり判ったのであるが、この文字は『上記』とは別個に数ヶ所で発見されたので、国学者の 中には『上記』を疑いながらも、この文字だけは確かなものと信じた人もあった。しかし、これは「植え付け」<いわ ゆるヤラセ>を見破ることのできないために生じた錯覚で、むろんこの文字は『上記』の作者の手になったものに相違 なく、断じて神代のものではない。このような生硬な新文字は、かえって製作に大きな努力を要しない性質のもので、 いわば朝飯前にできるというもので、もちろん判読には手がかりのいかんに応じて相当の時間を要するのである。

 いま「植え付け」ということを暗示したが、これは欺瞞を覆うために都合のよい事物を、関係が無いと想われるよう な所に<あらかじめ>作り設けておき、人に発見させるように仕向けることで、広汎に行われる手段である。この「植 え付け」というやり方には学者もサクラとなったり、デュープ<引用・受け売りを繰り返して流布するもの>とされた りするので、相当に難しいものがある。すなわち、数百年を経て初めて暴露され、千年経ってもなお疑問視されている ものもあり得る。これが宗教界にことに多いのは、嘆かわしい事実で注意に値する。

 どの道、研究家の興味をそそる性質のものであるが、古い所は時効にかかったごとくに思われ、また作為した者があ まりに成功した場合には、どうにもならないこともすこぶる多い。そうではあるが、近頃、聞く所によれば、世間でし きりに異質のピラミッドや新規な神代遺跡などを発見し、いずれも天津教の所説を裏書きするように解せられるそうだ が、そこがすなわち疑うべき所で、こうした「植え付け」は天津教のためにも慎んだ方がよかろうと思われる。

 以上、書体の考察をつづめて言えば、神代の文字と見たとしても、あまり上手な書の神の手になるとは取れない。結 局、この文字は、後世の文字で、瞞着<ごまかしてあざむくこと>を化粧する第二の瞞着に過ぎないものとの判断に帰 着する。


 第三、内容について吟味すると、形式を見ても、記事の精麁(せいそ=詳しさと大まかさ)に適切さを得ない。この 点にまず疑うべきものがある。神代のことは、正史<記紀など正統な歴史文書>にも記載されているが、空々漠々とし て捕捉し難いのである。故に、水戸藩で『大日本史』を編纂するに当たり、義公<徳川光圀>の英断で神代を削ったこ とが伝えられている。しかし、この空漠たる背景を利用して、さらに絵図を広げ、輪をかけた台本を作り、大芝居を打 つことが跡を絶たない。いずれも殊勝に見せかけているが、必ず眉唾ものである。この文書を、実質的に見て、天津教 もまたこの種類の悪だくみであることを断定するにあまりある。

 この文書の第十一行より第十五行へ読み続けると「コシネナカニエヤトトノヲヤマ」というのがある。これは越中国 新川郡の立山を指すものと想われるが、「ニエヤ」は「婦負」とも取れる。そうだとすると立山のある位置が違うこと になる。また、それより重大なことは、この文書の記事に、伊弉那美尊は伊弉那岐尊より後に御隠れになったことにし てあるが、これは正史<古事記・日本書紀の記述>と反対である。

 こうした正史を無視することは、前にも例があるので珍しくもないから、一つ変った矛盾を演繹してみよう。第七行 より第十二行に至る敍述に、「伊弉那岐尊は百億万年にして、御位を天照太神に譲る」とあり、第二十五行に「天照太 神、即位八百万年」の日付がある。すなわち、この文書の作製の時、日本は既に百億八百万年の旧国ということである 。そこで、この間に、神口<神の人口数>の増加は、いかばかりだろうかと問うのである。神代における生殖に関する あらゆる条件を、今日に比して、どれほど控えめに見ても百億八百万年の間には、おびただしい神々を生産し、時々は 神退治が行われない限り、この文書の作製当時には地球上、陸となく海となく、一平方メートル毎に何百万という神を 宿さなければならなかったろうと思われる。

 もちろん、これは胸算用で、もう少し精密な計算もできなくはないが、必要もないから、かたがたごく内々に見積っ ての話であるが、この問題を天津教では何とかたづけるであろう。さだめし「神は天にいませば地上の広狭など問うと ころではない」と説明するかも知れない。そうならば、第一行より第七行に至る記述に、伊弉那岐・伊弉那美の二尊の 時代に造られた大宮のことがあるが、この建築物はどこにあったのか。記事の前の部分を欠いているから判然しがたい 所もあるが、続く所によれば「五色人ハイレス(中略)越根能登ノ西浦水門ヨリ唐イカヘル<五色人は入れず、・・・ 唐へ帰る>」とあり、推察するに越中国の神明村にあったことにしたのでないかと想われる。

 こうして見ると、この大宮は日本の土地にあり、伊弉那岐尊・伊弉那美尊の二柱を始め奉り、八百万神も代々日本の 土地に御住居あらせられたと拝察するほかはない。我々もそれでよろしいと思う。そしてまた、越根中「大宮」の規模 は、大ならずして、五色人を収容しかねたことは甚だ遺憾であったと思う。何故に百億万年に相応して、せめて八百万 里四方の摩天樓でも準備して置かなかったのかと言いたくなる。これを以てこのくだりを見るに、この文書において説 くところは、全く数の観念を欠き、常識的な思想を離れ、その上、正史に反する記述をあえてしてはばからない。実に 、あらゆる点より見て、人騒がせの虚妄を言いふらしているに過ぎないのである。

 以上、内容の考察をつづめていえば、この文書は荒唐無稽にして全く信をおくに足らない。

 上述の理由により、「大日本天皇太古代上々代神代文字之卷」は近年の偽作にして、しかもこの種類の神代文字の文 書は、いわゆる「形假名唐文字」の第五文書の種類の後に成立したものと判断する。


第七 結語

 以上、数節において試みた批判を要約すれば、天津教が天下の至宝として誇示する「天照太神、後醍醐天皇、長慶天 皇の御眞筆」及び「平群眞鳥、竹内宗義等の眞筆」と称するものは、第一に文章はそろいもそろって下手であり、肝心 の語法・語調も億万年を通して不変なるのみならず、誤謬は頑強に保持せられて共通・永存している。

 第二に、筆蹟はいずれも見事ならず、著しく近代風を帯びている上に、類似の点多く、一々別人の手に成るものと取 れない。

 第三に、所説は正史と矛盾するばかりか、明治以後、ようやく知れわたったようなことを平然と述べている。よって 追次、これらの文書につき、その文体、その書体、及びその内容の検討を遂げ、ことごとく最近の偽造であることを暴 露せしめたのである。この上、疑問として残る変態性は、それを証明し得たところで、偽造の事実を動かすことはでき ない。故に、天津教は五つの致命傷をこうむり、完全に生息の道を絶たれたに等しいのである。

 もし、さらに文書の原物、及び古器物を見ることをなせば、いよいよますます不都合をあらわにし、もし更にその依 拠とする『上記』ないし「西洋の伝説」との比較調査を行えば、剽竊(ひょうせつ)とやきなおしの狡猾なたくらみを 剔抉(けってつ:えぐりだす)することもできるが、いらない努力をはらって死屍(しし)に鞭打つ愚を演ずべきでな い。思うに、天津教の言説は虚妄であるが、今までその宣伝に当たって、類似の宗教的運動に見られような副作用を伴 わないため、害毒は比較的に軽微であると思われる。

 この点、偶然の結果とはいえ、恕(ゆる)すべきものがある。そうであるがゆえに、例のごとくいかがわしい説教を する上に、さらにいかがわしい副作用をもって人を釣り、陶酔させ、迷わし溺れさせ、その虚に乗じて成功を獲得した 族に比べれば、天津教の境遇は貧弱で、気の毒にも思う。この点、当然の結果とはいえ、同情に値するものがある。こ の際、私は、みだりに天津教の悪口をいうものではない。我、かたわらに迷へるものと、迷おうとするものとを見て、 その覚醒を促すために言を述べるに過ぎないのである。望むらくは、天津教もまた反省悔悟して、その虚妄をすて、す みやかに皇道の正しきに復帰せんことを。

底本:「狩野亨吉遺文集」岩波書店   1958(昭和33)年11月1日第1刷発行

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