『天皇はやはり神だった』〜大嘗祭の祭儀の秘密〜

*『天皇はやはり神だった』(学研『ムー』2001年8月号寄稿)

◎ 天皇家不滅の謎

日本の天皇家の歴史は、初代の神武天皇から数えて、今上天皇まで一二五代、二六六一年にもおよぶ。考古学的に証明できる大和朝廷の成立から数えても千七百年以上も続いており、諸外国の過去・現在の王朝を、はるかにぬきんでた歴史と血統を保持する世界最古の王家である。

 しかし、なぜ過去二千年にもわたって、時の権力者たちにも滅ぼされることなく、南北朝の分裂や、戦国時代の動乱、江戸幕藩体制の圧迫を乗り越えて、明治維新で復活をとげられたのか。また、太平洋戦争であれだけの敗北を喫しながら、なぜ亡命も皇室廃絶の憂き目にもあわずに、現代に皇統が継承されているのか。いまだに、真相の多くが謎に包まれている。

 よく考えて見ると、日本が島国であって、外国の侵略や干渉を受けにくかったという点を割り引いて考えても、皇室存続には歴史の展開点で、かなりの部分「奇跡的」な様相が見られる。

 近代でいうなら、鎌倉時代以降の「武家政権」の七百年の歴史を「大政奉還」でひっくりかえし、しかも鎖国体制から一挙に四十年たらずで開国西欧化をなしとげ、日清日露戦争で勝利して列強の仲間入りを果たしたのは、明治天皇あってのことだった。

 また、太平洋戦争で敗北したのち、昭和天皇はマッカーサーと会見して「戦争の責任はすべて私にある。自分の運命は、いかなるものであろうと、貴下の判断にゆだねます」とのお言葉を発された。マッカーサーは激しく感動し、その後の皇室への処遇を一変させている。

 このような国家元首は、外国には(日本の歴代摂関・将軍・首相たちにも)めったにいない。だからこそマッカーサーは、その後、昭和三十九年に『マッカーサー回想記』で当時の天皇との会見のありさまを述べ、その回想記の英語の原題を『われ、神を見たり』と付けたのである。マッカーサーは昭和天皇の姿に「私は神を見た」と、二十年経っても述べているのだ。

 さらに、「東京裁判(極東国際軍事裁判)」の裁判長ウェッブは、昭和五十年に日本の雑誌の取材で「天皇についてどう思いますか」という問いに、「神だ、あれだけの試練を受けても帝位を維持しているのは、神でなければできないことだ」と答えている。

 戦勝国で裁いた側の重鎮たちが、敗戦国で裁かれた側の国家の長を、宗教や思想や立場の差を越えて「神だ」と賛嘆する。これは政治的な思惑や駆け引きのレベルでは説明できないことだ。

 また、前後するが、大正十一年に来日したアルバート・アインシュタイン博士も、次のような「世界の盟主」というメッセージを残している。

「近代日本の発達ほど世界を驚かせたものはない。この驚異的な発展には他の国と異なる何ものかがなくてはならない。果たせるかな、この国の三千年の歴史がそうであった。この長い歴史を通して一系の天皇を戴いているということが、今日の日本をあらしめたのである」

 アインシュタインにしろマッカーサーやウェッブにしろ、よほどの衝撃と驚愕を、天皇という存在から受けたと考える以外にない。

 現代でも筆者が知る範囲で、皇室にまつわる神秘的な話がいくつかある。たとえば、天皇陛下しかご使用になれない地方の「お手洗い(トイレ)」のある場所に、ある若者がふざけて夜中にこっそり立ちより小便をした。ところが、その青年が二十日後ぐらいに、自動車で壁に正面衝突して、全治3ヶ月の重症を負ったというエピソードがある。

 また、奈良県を中心に何十もある歴代天皇の御陵(古墳)めぐりを、数年がかりでしている人の話だと、家を出発する前に、どんなに激しく雨が降っていても、目的の御陵に到着して祝詞をあげている間だけは、必ず雨が晴れるそうである。それで、次の御陵に向かう間はまた雨に降られても、御陵に着くと、また晴れるという不思議な現象だ。

◎ 「御稜威」という神霊的「生体力場」

 このように、皇室の尊厳を傷つけ、あるいは守るような出来事が起こると、大小問わない場面で、それに対する反動や支援の、眼に見えない、ある種の力場が働くようである。

 これは天皇自身やその御陵・専用施設だけでなく、「三種の神器」についても同じことがいえる。『日本書記』によれば、天智天皇七年(六六七年)に熱田神宮から「草薙の剣」が新羅の僧・道行に盗まれ、国外に持ち出されるという事件が起こったが、新羅へ向かう船が、なんと暴風雨に遭って日本に引き返している。再び神剣は、熱田神宮に無事に戻り、現在にいたっている。

 皇位継承の証拠物件ともいえる、ほかの「三種の神器」のオリジナルは、現在、「八咫鏡」は伊勢神宮に、「八尺瓊勾玉」は皇居内に鎮座ましましており、千七百年以上も健在である。このような長久の継承に耐えてきた王家の宝器の現存も、諸外国には皆無である。(皇位継承の儀式のときに用いられる神剣と神鏡は、後代の複製品<分霊品>である)

 しかし、複製品でも、そこにまつわるある種の霊的な力場は顕著で、三種の神器は歴代天皇でも直接ごらんになることは厳禁とされている。実際、どのようなものなのかは謎といってよい。例外的に冷泉天皇(在位九六七?六九)が「八咫鏡」の箱を開いてごらんになろうとしたが、開けたとたんに白く輝く霧雲が吹き出したので、あわてて閉じたという記録がある。

 江戸時代にも、熱田神宮の大宮司五名が、「草薙の剣」の容器を開いて見ているが、そのうち四名が、祟りというべきか、ほどなくたて続けに病没している。また、明治になってから初代の文部大臣・森有礼が、伊勢神宮の「八咫鏡」を開いて見たというが、それからまもなく森は、伊勢神宮の宮司の血筋にある国粋青年・西野文太郎に暗殺されている。

 また、最近でも、皇太子妃の臀部に触れるという不作法を働いた某知事が、致命的なスキャンダルで辞任に追い込まれた。筆者は、あの知事の失脚も、皇族に非礼を働いた者への「罰」と無関係ではないのでは、と見ている。

 これらの一連の出来事を見ただけでも「天皇家」には「何かの説明不能な力」があって、皇室自体の尊厳を峻厳なまでに守っているかのようだ。

 この皇室にまつわる「不可思議かつ強健な力場」「大きな神秘的影響力のフィールド」を、日本では古来より「御稜威(みいつ、または、みいづ)」と呼んできた。歴代天皇および三種の神器は、古墳や陵墓もふくめて、この「御稜威」を帯びている存在のようだ。いいかえれば、死後にも強い残留磁場として機能し、また血統を介して影響力を行使続ける、比類ない「集団型の神霊的生体力場」とみなすこともできそうだ。

 この御稜威の影響する範囲は、過去の天皇たちの陵墓という過去、天皇・皇族ご自身という現在、さらには「三種の神器」「専用施設」などの「天皇の所有物」という領域にまでまたがった、垂直的・水平的の両軸を満たす広範で深甚なものである。単なる「権威」という言葉では、とうてい説明しきれるものではない。

◎「御稜威」の本体「天皇霊」

 この「御稜威」の発振源として想定され、即位の儀式・「大嘗祭」によって、次代の天皇に連綿と受け継がれているのが「天皇霊」という不思議な存在である。「天皇霊」は、民俗学者の折口信夫が提唱したものだが、筆者も天皇の神性を説明するとき、この論が非常に有効と考えているので、これを前提に論をすすめたい。

「天皇霊」とは、新天皇が「三種の神器」を受け継ぐように、祖先と先代天皇から継承する「霊的遺産」「生きた神霊的磁場」である。天皇を天皇たらしめ、「御稜威を発する神的力場の眼」として立たせる重要な「核」だ。「三種の神器」と同様、これを受け継ぐことなくして「天皇」となることはできない。

 天皇の正式名称を「天津日嗣皇命(あまつひつぎすめらみこと)」というが、中でも「日嗣」というのがキイワードだ。これは、『古事記』『日本書紀』にもあるように、天皇家の出自が「日=太陽神・天照大神」であることを意味している。天照大神の直系(孫)神である邇邇藝命が、地上に降りて皇室の祖先・皇祖神となった「天孫降臨」以来、ずっと代々「天照大神の御稜威を継承し続けている」という意味である。

 初代・神武天皇は、この邇邇藝命の曾孫にあたり「人であると同時に神でもある」という現在に通じる「天皇」のありようを開始した意味でも「初代」である。

 また「日=ヒ」という言葉自体にも「火」「霊」という言霊的な語義が存在することも見落としてはならない。天皇の別称を「日嗣皇子(ひつぎのみこ)」というが、ここからも「ヒ=天皇霊」を嗣ぐということが、どれほど重要なことであるかわかる。すなわち、「天皇霊」を受けた瞬間から、新天皇は皇位につくと同時に、天照大神と邇邇藝命の御稜威を身に帯び、一柱の「神」となるのだ。

 それらの重要な世代交代が、初代以来、断絶したり血統が別のものになったりせず、連綿と続いてきたことを指して「万世一系」と呼んでいる。前述した、アインシュタイン博士の「長い歴史を通して一系の天皇を戴いている」とは、そういう意味である。

◎「大嘗祭」の神話性

「天皇霊」は、新天皇が即位されてのち、その天皇にとって一世一代の大祭「大嘗祭」の場に降臨し、受け継がれると考えられている。不可視の神霊的磁場である「御稜威の核」としての「天皇霊」の代替わり(更新)は、ではどのようにしておこなわれるのだろうか。

 まず「大嘗祭」は、新天皇が即位した年または翌年の十一月下旬におこなわれる。基本は、毎年の新米を神々と皇祖神の前にお供えして召し上がる「新嘗祭」の大規模化したものである。天武天皇の時代七世紀から、核心部の様式はほとんど変わっていない。今上天皇の「大嘗祭」にいたるまで、現存する形式すべてが千三百年前のままなのである。

 もちろん「天皇霊」を受け継ぐ大祭であるから、「三種の神器」などごく少数のものを除けば、関係する物すべてが新調される。「大嘗祭」で用いる新米をつくる「悠紀田(東日本を代表する)」「主基田(西日本を代表する)」のふたつの田も、亀卜によって選ばれ、秋にその収穫米が「大嘗祭」に供される。日本の国土の地気を吸った新米(穀霊)によって、新天皇が国土の霊気を、御稜威と同化させて補給し、更新するためである。

「大嘗祭」のおこなわれる「大嘗宮」にも「悠紀殿」「主基殿」という一対の正殿(聖殿)が立てられるが、このふたつに建物の中でこそ、「天皇霊の降臨」がなされる。そこでおこなわれる儀式は、「天孫降臨した皇祖神・邇邇藝命の再生=新天皇が新しい邇邇藝命そのものとなる」を意味しており、いいかえれば「天皇の新生・新しい神の誕生」を証する儀式でもある。

『日本書紀』によれば、邇邇藝命の「天孫降臨」は、邇邇藝命自身が「真床追衾」と呼ばれる神霊力場のオーラ、もしくはそのような膜状のものに包まれて、高千穂峰に降臨したとある。これは邇邇藝命が、胎児や新生児のようにまっさらな状態で降臨したことを物語っており、不純なものをシャットアウトする「神霊的羊膜」の象徴と見ることもできる。

「大嘗祭」における「皇祖神の再生と新天皇との同一化」も、これと同じく厳しい潔斎と物忌みごもりの儀式によって遂行される。「悠紀殿」「主基殿」のふたつの正殿で、宵から深夜にかけて、それぞれ二時間ずつ行われる儀式がそれである。

 正殿の奥にあがれるのは新天皇のみであるが、登殿前に「廻立殿」という休息所で沐浴される。そのときに身にまとわれる湯帷子を「天の羽衣」と呼んでいる。すなわち、ここで既に新天皇は、特殊な羊膜的神霊磁場に包まれて降臨された邇邇藝命を、まず模倣していることになる。

「廻立殿」から正殿までの道は、おつきの者が巻物状の敷物を、素足の新天皇が歩く先に敷き広げ、歩き終わったところから巻きとっていくという、地面にも触れさせない潔斎ぶりである。

 実はこの「敷物ひとつへだてた状態」というのは、邇邇藝命が地上に降りた時、足の裏と地面との間に、真床追衾ひとつへだてて立ったという伝説をなぞっているのである。

◎「新しい神」となる儀式

 正殿にあがった新天皇は、奥の部屋に入って外部を一切排除した「おこもり」の時間を持たれる。そこでは「八重畳」という特別あつらえの分厚く重ねられた敷物の寝床が、降臨する神の「寝座」として設けられ、その上には聖なる夜具が置かれている。また、「寝座」の四周には「沓」「扇」「櫛」が配置されているという。

 その聖なる夜具こそ「真床追衾」と呼ばれるものである。真床追衾という言葉自体は、もともと御神体や御霊代など、聖物・神体にかける絹製の衾(布製の上掛夜具)をいう。つまり、神霊の降臨される依代にかける神聖な寝具・掛け物である。

 実際には、その寝座に関して、新天皇がどのような行をされるのか、何も伝わってはいない。しかし、日本全国の神社の中に、各神社での新嘗祭(大祭)のとき、神主がそっくり同じような「いみごもり」の儀式をする例があることから、ある程度の推測はできる。

 新嘗祭をする神社では、やはり奥殿の神座に潔斎した布団とかけものを用意し、正装した宮司が、外部を一切遮断して、布団の上にかけものをかぶって一定時間横になる。この聖なる寝具にくるまった「おこもり」には、横になっている間に、神の力を受けて生命力を更新するという意味がある。

 同様のことが、「大嘗祭」正殿でもおこなわれていると見てもおかしくないだろう。

 新天皇は、神の降臨する「寝座」に横たわり、「真床追衾」をひきかぶり、一定時間横たわる。このとき、真床追衾は、新天皇を生み出す「天皇霊の受信装置・依代」となり、新天皇に「御稜威」が宿る瞬間を迎えると考えられる。

 いいかえれば、真床追衾は、純粋無垢な赤子と同じほど精進潔斎された新天皇を、外界から完全に隔離するバリアとなり、皇位継承者のみにかかる「天皇霊」を受け取り合体させる霊妙な器官となるのである。

 ご神体にかける真床追衾を、みずからかぶられるということは、新天皇そのものがご神体=神になることを意味するのはいうまでもない。ここから、皇位継承者は、決定的に「新天皇」となられるのである。

 また、この「おこもり」の儀式にあたり、特殊な祝詞や祭文などをとなえたり、あるいは横になっている間に、神霊よりくだされる夢を見て、半覚醒状態で「天皇霊」の降臨を受けるということも想像できる。「沓」「櫛」「扇」などの小道具も、新天皇だけの秘儀の行法のために用いられているのかもしれないが、それらについては全くの謎である。

 こうして「天皇霊」を受けて「御稜威」を発揮する「新天皇=新しい邇邇藝命」が誕生する。

 これらの儀式が、単なる形式ではないことを、今上天皇の大嘗祭に参加し、今上陛下の変化をまのあたりにしたある神職が証言している。その神職は、今上天皇のお顔が、正殿での「おこもり」の儀式に入られる前と後では、まるで違っていたという。儀式を終えた新天皇の姿には、それまでになかった、みちがえるような「威厳と力強さ」が備わり、畏怖を感じたというのである。

 たった一晩で、皇位継承者を、威厳にあふれた「天皇」にしてしまう働き・・・それこそが、万世一系の歴代天皇が受け継ぎ、手渡してきた「天皇霊の御稜威」の何よりの証拠といえないだろうか。 (了)                     


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