「神と天皇・大嘗祭」考(二)

*神霊の世代交替の祭儀

「大嘗祭」は、ひとくちでいえば、「天孫降臨」の故事を、儀式的に再現したものである。

 その目的は、皇祖神「邇邇藝命」以来の、天照大神の神威とも強固な神霊力場ともいえる「天皇霊」を、世代ごとに更新し、新天皇が受け継いで心身と一体化することにある。

 その概要は、毎年十一月二十三日(厳密にはその前後の「卯の日」)におこなわれる新米の収穫感謝祭ともいうべき「新嘗祭」が、新天皇の即位の年だけ、特別に四日間、大規模に行われるものだ。

 新嘗祭は、大切な食糧である「稲」の新穀が無事に実ったことを、天照大神と国土の神、祖先神に感謝し、ご報告申し上げ、神々とともに食する神祭りである。同時にまた、新米に凝集した太陽の神気と日本列島の土と水の霊気を、天皇ご自身が体内におさめて、天照大神の神気の更新をおこなう場でもある。

 結論からいってしまえば、「大嘗祭」は、この「天孫降臨」の太古の故事を儀式化したものということができる。皇祖神「邇邇藝命」以来の、天照大神の神威「天皇霊」を、世代ごとに更新し、新天皇が受け継いでゆく、重要な祭儀なのである。

 七世紀後半に天武天皇が、唐風の律令制に合うようアレンジしたのが、代表的な「大嘗祭」の形である。明治以後は、近代化にともない、最盛期の三分の一程度にまで簡略化されている。もちろん、不可欠な核心部は変わっていないと見られるが、ここでは平安時代の「大嘗祭」と近代の「大嘗祭」などを参考にしながら解説したい。

 なにしろ、最盛期には、すべて終了するまで、神官・奉仕者・神役などをはじめ、直接の関係者だけでも五千人は下らないといわれたほど大規模な祭祀である。

 三大神勅にもある通り「稲」は、天照大神からの授かりものなので、「大嘗祭」でもきわめて重要な扱いを受ける。ことに天皇が「新嘗祭」「大嘗祭」で、神々に捧げてみずからも食される「初穂(その年の新穀・新米)」は、特別な霊威があるとみなされる。

「新嘗祭」では、毎年の新穀(新米)は、皇居内の水田からの収穫と、全国の農家からの献穀によってまかなわれるが、「大嘗祭」用には特別な田が、神聖な儀式による「亀卜」によって、全国から選ばれる。

 つまり、古代同様の卜占によって神意をうかがい、「東日本」と「西日本」から、それぞれ一カ所ずつ選定されるのである。これを「悠紀田(ゆきでん)」「主基田(すきでん)」という(平成「大嘗祭」の悠紀田は秋田県、主基田は大分県)。

 従来、「悠紀」は「聖域」、「主基」は「副次」の意とされるが、実際は優劣はない。京都を中心に「東=悠紀国」と「西=主基国」をともに統治する天皇が、それぞれから「神聖な米」の提供を受け、日本全体の「大地の神気」と同化するための聖田である。

 特徴的なのは、「大嘗祭」のため、さまざまな準備が全国的におこなわれるが、それに先立ち、直接間接の関係者はもちろんのこと、各種の儀式を通じて「全国の禊ぎ祓い」が行われる。また、「大嘗祭」の準備については、ことあるごとに、まず「亀卜」がおこなわれ、「神意」をうかがいながらすすめられる。これは日本独特である。

「大嘗祭」に必要な物的準備は、主役の米をのぞいても大変なものがある。まず、天皇の祭服を筆頭に、数千の関係者の着る「衣服(正装)、装身具、布紙類」「儀式の什器・調理具」「穀物、魚貝、野菜、果物、酒、調味料、菓子類」、会場として造営される「建物の木材や敷物、家具調度、装飾品」など、準備から本番までに必要な数百種類の物品のすべてが、数カ月の間に新調される。

 しかも、それらの物品を製作する国と製作者集団は、特別に数カ国から選ばれ、材料選びの段階から、品物ごとに厳重な精進潔斎で何重にも「祓い清め」されるのだ。

「大嘗祭」用品は、神々に捧げる供物(「神餞」という)から、行事遂行の書状を記す筆や墨の一本にいたるまで、「材料・人・場所」のすべてが、幾度も祓い清めの儀式を受ける。その上、準備にあたっては、三百を越える全国の主要神社の神々に、「大嘗祭」の準備を報告して成功を祈る使い(奉弊使)を、数次にわたって派遣する。

 このように慎重に厳格な条件を守って造られた物品だけが、本番の会場に奉献される。

 平安時代には、「大嘗祭」準備執行の開始から、全国の国司・郡司を通じて、数カ月前から各国民にも、精進潔斎するよう勅令がだされていた。もちろん、もっとも厳重かつ徹底して祓い清めと精進潔斎するのは、新天皇ご自身である。

 そのため、「大嘗祭」で新天皇に近い立場で奉仕する関係者であればあるほど、厳重きわまる精進潔斎が、何度も行われる。本番の11月ともなれば、天皇ご自身、宮中関係者、「大嘗祭」の神官などが、次のような「物忌み」を行う。

 病人、罪人、死人、産婦に触れたり、関わったりしてはならない。仏事は全面禁止、宮中への僧侶の立ち入りも当然、祭儀終了まで全面禁止。言葉も、「死ぬ」を「なおる」、「血」を「あせ」、「泣く」を「潮(しお)垂る」と言い換えたりして、不浄・不幸を連想させる言葉を、すべて禁止するなど、心身ともに、最高度の潔斎に入る。

「大嘗祭」の準備では、新天皇から関係者すべてにいたるまで、何度も徹底的な禊ぎをなされるが、それはすべて「純粋な状態でまじり気のない天照大神の神気を受け、天皇が同化する」ことを第一の目的に置いているからだろう。

 もし、ここで、新天皇が、新しい天皇霊と同化せず、その霊威を全国の地方行政官に分与できないと、日本はまとまりを欠き、平和な統治が崩れるという現象が起きる(または、、日本にとって不吉で不幸な時代は、大嘗祭ができなくなるという事実に象徴されてきた、と言い換えても良い)。

 その証拠に、大嘗祭は、七世紀後半に天武天皇が現在の原型をととのえて以来、1467年の応仁の乱から、東山天皇御即位の貞享4年(1667)に再開されるまで断絶。220年間、九代の天皇がお受けになられなかった。

 ご存じの通り、この間の大部分は群雄割拠の下克上、「戦国時代」として知られている。しかし、2世紀以上の断絶を経て、徳川幕府によって、なお古式にのっとって復活する処に、この祭儀の重要性と、人為的な制度では説明不能な不滅性が顕現している。

 ただ、近代の「大嘗祭」自体は、最盛期の三分の一になっている。明治陛下までの「大嘗祭」の準備にあたっては、「新天皇」御自身の十カ月がかりの大小の「潔斎」プログラムの数々が、徹底的におこなわれていた。ところが、資料を見ると、大正天皇の「大嘗祭」からは、それらの諸潔斎行の八割方がカットされ、いまだに復元されていないようである。

 近代の大嘗祭において「天皇の潔斎行」は、資料を調べる限り、「大嘗祭」当日の儀式の潔斎以外は、ほとんどおこなわれていないようだ。もちろん、資料にないだけで、実際は必要な潔斎の数々は事前からおこなっていらっしゃるのだろう。

 このことに関して、専門の神職でもない筆者が、余計なさしで口は控えたいが、もし万が一、必要な潔斎行事の数々が、準備やスケジュールの都合等で短縮・削除されているのであれば、潔斎を完全なものにするという意味でも、旧に復された方がよいのではないだろうか。

*「子宮」としての「大嘗宮」

 今まで述べたような準備のうちに、いよいよ地鎮祭等の済んだ「大嘗祭」の会場となる用地に、「大嘗宮」が造営される。大正と昭和の「大嘗宮」は、従来通り京都御所で設営されたが、明治と平成の「大嘗宮」は皇居東御苑に設けられた。

「大嘗宮」は、「大嘗祭」の一週間前から造営をはじめ、五日間ですべての施設を竣工しなければならない。そして、「大嘗祭」が終わると、即刻、解体撤去される。神聖な皇位(王位)継承の場が、このように短時日で竣工・解体される例は、諸外国にはない。いかに「汚れ」を嫌う祭事か、この一事からもよくわかる。

「大嘗宮」では、新天皇が祭主となって皇祖神への儀式を行うが、そのために主要な三つの建物が建てられる。

 まず、隣接して建てられる一対の建物、「悠紀院」と「主基院」。これは、前述した「悠紀田」「主基田」に対応するものだ。この双子の院のそれぞれの正殿でおこなう儀式こそ、「大嘗祭」の核心である。

 新天皇が「天皇霊」を受けられるということは、「天皇」という「新生児」として、お生まれになることを意味し、「大嘗宮」は「悠紀院・主基院」を「子宮」とする「産床」でもある。

 神聖な出産の場であるから、「けがれ」はゆるされず、事前より徹底的な禊ぎ祓いがおこなわれるのは前述した通り。「大嘗宮」全体が、大祭が執行される直前の一週間足らずで建てられ、終わるとすぐに取り壊されるのは、産婦の「胎盤」と同じで、役目が終われば、すみやかに除かれるためである。

 この斎田と「大嘗宮」にまたがる「悠紀・主基」という、一対の名称は何を意味するのだろうか。これは「悠紀=東日本を代表する」「主基=西日本を代表する」と解釈されているが、筆者はそれだけではないと考えている。

 これは筆者の思いつきだが、「悠紀・主基」の「一対構造」は、伊勢神宮の「内宮・外宮」に対応しているのではないだろうか。そればかりでなく、「陰・陽」「天・地」「日・月」「霊・物」「男・女」「祖先・子孫」「皇室・国民」など、統治にかかわる、対の現象を多重にふくんでいるものと考える。

 これらの「対のシンボル群」を「ひとつのものとして新天皇が受け継ぐ」ことを、神々の前で表現し、証するのが、悠紀・主基のふたつに別れている理由ではなかろうか。

 また、悠紀・主基殿での中心儀式のために、もうひとつ「廻立殿(かいりゅうでん)」という建物が、北側に建てられる。双子の正殿のそれぞれの入り口と、通廊で結ばれるが、天皇の最終的な「禊ぎ」と「儀式直前の支度」をする場所である。

 主要な施設は、この三つで、建設資材は、すべて古式にのっとったものだ。たとえば、悠紀・主基の両正殿は、皮をむかない丸太のみを用いて柱や梁とし、屋根は萱などの青草でふき、やはり皮をむかない木材で切り妻屋根となす。壁や扉も二重構造のむしろのようなもので、床は竹の簀の子を張って、その上に畳表を敷き詰めるといった、非常に簡素なものである。

 こうして、新天皇は「大嘗祭」の初日当日を迎える。悠紀・主基の両田から収穫された聖なる新米を、選ばれた巫女たちが脱穀して炊きあげ、酒・供物の調整もすべて終わり、夜の八時ぐらいから「儀式」ははじまる。

 もちろん、悠紀院・主基院・廻立殿には、随伴してお世話をする巫女や神職以外は、天皇しかあがることが許されない。「大嘗宮」の院外には、皇族ともども、列席する文武の官僚(閣僚・政治家)たちや、全国の地方の長官・国司(現代では知事)たちが、儀式が終わるのを待っている。(平成「大嘗祭」の場合は、内外の代表・約九百名が参列した)。

*神夢の降臨

 新天皇は「大嘗祭」の当日、午後八時ごろ、儀式の開始の前に、まず「廻立殿」に入られ、そこでお湯の潔斎をされる。このとき、「天の羽衣」と名付けられた湯帷子を着たまま、湯船に入られ、それを脱ぎ捨てることで、禊がれる。

 まずここで、「湯=羊水・産湯」「天の羽衣=天から来た者の着物=真床追衾」の暗示が読みとれる。そして、湯の禊ぎを終えた新天皇は、祭服に着替えて、八時半ごろ、まず悠紀殿へむかう。御足は裸足である。

 この時、廻立殿と悠紀殿を結ぶ通廊には、おつきの者二人が、新天皇の歩みに先だって薦表(こもおもて)の敷物を巻物状にしたものを、前方に展開してゆく。そして、天皇の歩いたあとからすぐに巻きとって収容する。

 これは、清めに清めきって「新生児状態」となった裸足の天皇が、じかに床や地面に触れないようにという配慮である。だが、もうひとつ大事な理由がある。実は、邇邇藝命は天孫降臨の際、はじめて地上に降り立ったとき、足の裏を地面に直接つけるのではなく、真床追衾によって薄皮一枚へだてて地上に立ったという伝説があるという。

 こうして「悠紀院」にお入りになり、最奥の「内陣」という儀式の部屋に入る。ここには、皇祖神のために用意された寝座(第一神座)と、短帖(第二神座)が、天皇みずから神に給仕する御座・御膳とともに置いてある。この配置は主基殿も全く同じである。

 この寝座は、そのまま人の寝床の大きさの薄縁(畳)を、二重三重の上に八重に重ねたもので、頭の方には坂のような斜面型の坂枕、足下には沓、寝床のまんなかには、薄い「夜具」が置いてある。

 この寝座は、そのまま人の寝床の大きさの薄縁(畳)を、二重三重の上に八重に重ねたもので、頭の方には坂のような斜面型の「坂枕」、かたわらに「櫛」、足下には「沓」、寝床のまんなかには、薄い「夜具」が置いてある。また、足下の左右両側には、「荒妙(あらたえ)」「和妙(にぎたえ)」という、「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」を象徴する布帖が立てられている。

 この「夜具」というのが、実は民俗学者の折口信夫が指摘した、「天皇霊を媒介する真床追衾」なのである。なぜなら、新天皇は、その寝座で、一定の時間、真床追衾にくるまって、おやすみになられる。その状態を経ることで、天孫降臨したときの皇祖・邇邇藝命と同じ、神霊の力に包まれた「胎児」となるのだ。

 寝床となる「八重畳」は「国土・国民のすべて」を現しているのではないだろうか。その上に安んじて横たわるのだが、これは新天皇が安らかに眠ることで、国民もみな安心して眠れる生活を送れるようにとの願いがこめられていそうである。

 このとき、ただ横たわるのではなく、かたわらの「櫛」を髪にさして、眠られる。なぜなら、「櫛」とは「奇し(奇跡的)」であり「天界から地上へと神が降臨する経路としての串・柱」をも意味しているからだ。「天から降りる神霊の伝達路」である「櫛」を頭に戴く天皇は、胎児状態となって「天照大神」のご神威を受けるのである。

 また、坂の形をした「坂枕」もそこに頭を載せることで「出産時の産婦の姿勢」を象徴していると思える。真床追衾にくるまって眠り、櫛とともに「天皇霊」を待ち受ける行為を「新天皇の出産」になぞらえているのだろう。寝座に横たわって眠る行為そのものが、「生む神と生まれる新天皇」とを同時に現している。

 この神聖な眠りの儀式のとき、おそらくは天皇にしか伝授されない祝詞や言霊の類を唱え、半睡半覚醒状態のうちに、皇祖神・邇邇藝命の御魂が降ろされ、その神威を継承するのだろう。

 こうして、ある種の秘伝の行法とともに、半睡半覚醒の神的眠りからさめたときには、「新天皇」が誕生しているわけである。さらに目覚めた新天皇は、足下にある「沓(くつ)」をはいて立ち上がり、天照大神に御礼を申しあげる。

 この「沓」をはいて立ち上がる動作は、新天皇にとっての最初の仕事である。なぜなら、今まで「胎児」だったものが「出産」され、乳児の段階を通過して「自分の足で立ち上がる」からだ。「新天皇が自分の足で立つ」ということを明らかにするための「沓」であろう

 自分で立てるようになった子供は、食べ物も大人と同じ「ごはん=米」を食べられるようになる。新天皇が「天照大神」の神力を得て、「米づくり」とともに日本を守り、神霊の力を常にわかち与える新しい統治者(大神官)となったことを、「沓をはいた新天皇」の姿で表現しているのだろう

 そののち新天皇は、第一、第二神座につくと想定された神・邇邇藝命に、自ら悠紀・主基の新穀の御飯や酒、供物の数々を、手ずから箸をとって給仕する。その器となるものは、諸王家と異なり贅沢な金銀宝石の飾りや高級食器など、ひとつも使わない。陶器や磁器、土器でさえない。

 天皇陛下が「神に捧げる供物の器」は、古代天皇家の時代にのっとり、なんと「柏の葉」である。皿でも器でもない、ただの大ぶりな「木の葉」なのである。

 ここにも「天皇の原初の姿」に回帰して、祖先の建国の苦労とその精神を忘れるまいとする、簡素で質朴な意識が満ち満ちている。このような「即位にともなう儀式」を執行している王家が、どんな先進国にあるだろうか。

 そして、給仕が終わると、今度はご自分で皇祖神に捧げたのと同じ米と酒を召し上がり、「皇祖神と共に食して、みずからも神となる」儀式を終える。

 既存の資料によれば、あらましそのような儀式が行われ、午後十時半ごろには、悠紀殿から、廻立殿に戻るとある。そこで、再度、湯浴みの潔斎をおこない、今度は翌日午前三時ごろ、主基殿の内陣にあがって、全く同じ儀式を行う。

 これらの儀式は夜を徹して行われ、主基殿の儀式が終了するときには、午前五時をまわる。これで「大嘗祭」の最重要の祭事は終了する。

 その後に「節会(せちえ)」という参列の臣下をまじえた祝賀の儀式に移る。「節会」は、「大饗(だいきょう)」ともいう。新天皇が全国から集まった臣下に酒食をふるまい、主だった行政官・官僚たちが、国柄のお祝いの舞踊などを奉納する。新天皇の前で、悠紀・主基の国の舞や民謡などが披露され、また日本各地の舞踊や歌や音楽が催されるのだ。

 それに対して、新天皇は、「節会」に際して、各自に酒や御膳をふるまい祝賀の礼に答える。

 実はこの「節会」は祝賀の儀式だけではないと、筆者は思っている。新天皇が皇祖神から継承した新たな「天皇霊」の力を、日本全国の国民の代表たちに「分配」する場ではないだろうか。眼に見えない「太陽神」の力を降り注ぐ祝賀会・・・・。

 悠紀・主基の米をはじめ、徹底した潔斎と、原初に帰る質朴さ、そして「真床追衾」の秘儀によって「新しい天皇の力」を得た新天皇である。「節会」を、先代の天皇に替わり、引き続き日本と国民を統治して守る、眼に見えない力を放射する最初の場と考えても不自然ではないだろう。

 宴会の形をとっているが、実は新天皇が受けたばかりの天皇霊の神霊エネルギーを、全国の臣下の心身に分与して、各地方に持ち帰らせるのが目的の場ではないだろうか。新天皇の心身に更新された神霊の御力が、臣下の各地の代表者に分け与えられ、ひいては全国民にその磁場が伝えられてゆくのが、「節会」のもうひとつの「使命」であるように思えてならない。

 こうして「大嘗祭」における「潔斎」「真床追衾」の秘儀によって、天皇は代替わりごとに太陽に象徴される祖先神の力を得て、生命力を更新してゆく。そして、それが全国の臣下に分配され、国家国民の結束力、神霊の加護も更新される。

 だからこそ、日本国も皇室も、皇祖・邇邇藝命以来、滅びることなく、世界最古の王家の歴史を積み重ねてこられたのではないだろうか。(了)


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