『太上感応篇(神仙感応経)』とは 『太上感応篇(神仙感応経)』とは、 中国の南宋初期(12世紀前半)に成立した 道教の倫理書。 作者は李昌齢と推定されている。内容は一般庶民向けの実践的な道徳書である。 日本には15世紀末頃にもたらされたと推測される。 本邦で最初の解説書には「太上感応篇俗解(ぞくげ)」がある。延宝八年(1680年)に 南部草寿という学者によって書かれた。 また、寛政十年(1798年)には、石竜子相明という僧による講釈を、門人が筆記した 「太上感応篇倭註」という書も成立している。 (「俗解」「倭註」ともに「神道大系103 論説篇16」に所収) ☆太上感応篇(神仙感応経)原文漢文の読み下し文(現代かなづかい) ※この読み下し文と現代語訳は、八神が複数の文献を参考に作成した。 〜本文〜 仙経(せんきょう)に曰く、 禍福に門なし、惟(た)だ人、自ら召(まね)く。 善悪の報いは、影の形に随(したが)うが如し。 是(ここ)を以て天地に司過(しか)の神有り。 人の犯す所の軽重に依りて、以て人の算(さん)を奪う。 算減んずれば則(すなわ)ち貧耗(いんこう)にして、多く憂患(ゆうかん)に逢い、人皆な之(これ)を悪(にく)み、刑禍(けいか)之に随い、吉慶之を避け、悪星之に災し、算尽くれば則(すなわ)ち死す。 又(また)三台北斗の神君(しんくん)有り。 人の頭上に在りて、人の罪悪を録(しる)し、其(そ)の紀算(きさん)を奪う。 又三尸(さんし)の神有り。人の身中に在りて、庚申の日至る毎(ごと)に、輙(すなわ)ち上(のぼ)りて天曹(てんそう)に詣(いた)り、人の罪過を言う。 月晦(げっかい)の日には竈(かまど)の神も亦(ま)た然り。 凡(およ)そ人過(あやま)ちあらば、大なれば即ち紀を奪い、小なれば即ち算を奪う。 其の過(あやまち)に大小数百事あり。 生を求めんと欲する者は、先づ須(すべか)らく之を避くべし。 是(ぜ)なる道は則(すなわ)ち進み、非なる道は則(すなわ)ち退く。 邪径(じゃけい)を履(ふ)まず、暗室を欺(あざむ)かず。徳を積み、功を累(かさ)ね、心を物に慈(いつくし)み、忠孝友悌(ゆうてい)、己を正しくして、人を化す。 孤を矜(あわれ)み、寡(か)を恤(めぐ)み、老を敬い、幼を懐(な)つけ、昆虫草木も猶(な)お傷(やぶ)る可からず。 宜しく人の凶を憫(あわ)れみ、人の善を楽しみ、人の急を済(すく)い、人の危うきを救うべし。 人の得(う)るを見ては、己の得るが如くし、人の失えるを見ては、己の失えるが如くす。 人の短を彰(あらわ)さず、己の長を?(かがや)かさず。 悪を遏(とど)め、善を揚げ、多きを推し、少きを取る。 辱(はずかし)めを受けて怨まず、寵(ちょう)を受けては驚くが若くす。 恩を施して報いを求めず、人に与えて追悔せず。 謂(い)わゆる善人は、人皆之を敬い、天道之を佑(たす)け、福禄之に随い、衆邪之に遠ざかり、神霊之を衛(まも)りて作(な)す所必ず成る。 神仙も冀(こいねが)う可(べ)し。 天仙を求めんと欲する者は、当(まさ)に一千三百の善を立つべし。 地仙(ちせん)を求めんと欲する者は、当(まさ)に三百の善を立つべし。 苟(いやし)くも或(あるい)は義に非(あら)ずして而(しか)も動き、 理に背いて而も行い、 悪を以て能と為し、 忍んで残害を作(な)し、 陰(ひそか)に良善を賊(そこな)い、 暗に君親を侮(あなど)り、 其の先生に慢(おご)り、 其の事(つか)うる所に叛(そむ)き、 諸(もろもろ)の無識を誑(たぶらか)し、 諸の同学を謗(そし)り、 虚誣詐欺(きょぶさぎ)し、 宗親(そうしん)を攻め訐(あば)き、 剛強にして仁ならず、 狠戻(ろうれい)にして自ら用い、 是非当らず、 向背(こうはい)宜しきに乖(そむ)き、 下を虐(した)げて功を取り、 上(かみ)に諂(へつら)いて旨を希(ねが)い、 恩を受けて感ぜず、 怨みを念(おも)いて休(や)まず、 天民(てんみん)を軽蔑し、 国政を擾乱(じょうらん)し、 賞を非義に及ぼし、 刑を辜(つみ)なきに及ぼし、 人を殺して財を取り、 人を傾けて位を取り、 降(くだ)れるものを誅(ちゅう)し、 服せるものを戮(ころ)し、 正しきを貶(おと)し、 賢を排し、 孤を凌(しの)ぎ、 寡(か)に逼(せま)り、 法を棄てて賂(まいない)を受け、 直(なほ)きを以て曲れりと為し、 曲れるを以て直しと為し、 軽きを入れて重しと為し、 殺すを見ては怒りを加え、 過ちを知りて改めず、 善を知りて為さず、 自らの罪を他(ひと)に引き、 方術を壅塞(ようそく)し、 聖賢をせん謗(せんぼう)し、 道徳を侵凌(しんりょう)し、 飛ぶを射(い)、 走るを逐(お)い、 蟄(かく)れたるを発(あばき)棲(やど)れるを驚かし、 穴を填(うづ)め、 巣を覆(くつがえ)し、 胎(はらめる)を傷(きずつ)け、 卵を破り、 人の失あらんことを願い、 人の成功を毀(そし)り、 人を危(あやう)くして自ら安んじ、 人を減じて自ら益し、 悪(あしき)を以て好(よ)きに易へ、 私(わたくし)を以て公(おおやけ)を廃し、 人の能(のう)を窃(ぬす)み、 人の善を蔽(おお)い、 人の醜きを形(あら)はし、 人の私(わたくし)を訐(あば)き、 人の貨財を耗(へら)し、 人の骨肉(こつにく)を離し、 人の愛する所を侵(おか)し、 人の非を為すを助け、 志を逞(たくま)しくして威(いきおい)を作(な)し、 人を辱(はずかし)めて勝たんことを求め、 人の苗稼(びょうか)を敗(やぶ)り、 人の婚姻を破り、 苟(かりそめ)に富みて而も驕(おご)り、 苟(かりそめ)に免れて耻(は)づること無く、 恩(めぐみ)を認(とど)めて過(あやまち)を推(ゆず) り、 禍を嫁(なかだち)して悪を売り、 虚しき誉(ほまれ)を買い、 険しき心を包貯(たくわ)え、 人の長ずる所を挫(くじ)き、 己の短なる所を護り、 威に乗じて迫り脅かし、 暴を縦(ほしいまま)にして殺傷し、 故なくして剪裁(せんさい)し、 礼に非ずして烹宰(ほうさい)し、 五穀を散らし捨て、 衆生を労擾(ろうじょう)し、 人の家を破りてその財宝を取り、 水を決(き)り火を放ちて以て民居を害し、 規模を紊乱(びんらん)して以て人の功を破り、 人の器物を損じて以て人の用を窮(きゅう)せしめ、 他の栄貴(えいき)を見ては他の流貶(りゅうへん)せられんことを願い、 他の富有(ふゆう)を見ては他の破散(はさん)せんことを願い、 他の色の美なるを見ては心を起こして之を私(わたくし)せんとし、 他の貨財(かざい)を負いては他の身の死せんことを願い、 干求(もと)めて遂げざれば便(すなわ)ち呪と恨みを生じ、 他の便(たより)を失うを見ては便(すなわ)ち 他の過(あやまち)を説(よろこ)び、 他の體相(たいそう)の不具なるを見ては之を笑い、 他の才能の称す可きを見ては之を抑(おさ)へ、 蠱(まじもの)を埋(うづ)めて人を厭(まじな)い、 薬を用いて樹を殺し、 師傳(しふ)を恚怒(いか)り、 父兄に抵触し、 強(し)いて取り強いて求め、 好みて侵(おか)し、 好みて奪い、 虜(と)り掠(かす)めて富を致し、 巧(たくみ)に詐(いつは)りて遷(うつ)らんことを求め、 賞罰を平(たいらか)にせず、 逸楽すること節に過ぎ、 其の下を苛虐(しいた)げ、 他を恐嚇(きょうかく)し、 天を怨み人を尤(とが)め、 風を呵(しか)り雨を罵(ののし)り、 闘合争訟(とうごうそうしょう)し、 妄(みだ)りに朋党(ほうとう)を逐(お)い、 妻妾(さいしょう)の語(ことば)を用いて父母の訓(おしえ)に違(たが)い、 新(あたらしき)を得ては故(ふるき)を忘れ、 口には是(ぜ)として心には非とし、 財を貪(むさぼ)り冒して其の上を欺き罔(し)い、 悪語(あくご)を造作して平(たいらか)なる人を讒毀(ざんき)し、 人を毀(そし)りて直と称し、 神を罵(ののし)りて正と称し、 順なるを棄て逆に效(なら)い、 親(したしき)に背きて疎(うと)きに向い、 天地に指(ゆびさ)して鄙(いや)しき懐(こころ)を証(あか)し、 神明を引きて而(しか)も猥事(わいじ)に鑑(かんが)み、 施し与えて後悔し、 仮借して還(かえ)さず、 分外に営み求め、 力の上に施設し、 淫欲度に過ぎ、 心は毒にして貌(かたち)は慈(じ)に、 穢(けが)れたる食(しょく)を人に?(あた)へ、 左(よこしま)の道もて衆(しゅう)を惑はし、 尺を短くし度(ものさし)を狭(せば)め、 秤(はかり)を軽くし升(ます)を小さくし、 偽(いつわり)を以て真に雑(まじ)へて姦利(かんり)を採取し、 良きを圧(おと)して賤(いやし)と為し、 愚人を謾驀(まんばく)し、 貪婪(どんらん)にして厭(あ)くこと無く、 呪詛(じゅそ)して直を求め、 酒を嗜(たしな)みて悖乱(はいらん)し、 骨肉忿(いか)り争い、 男は忠良(ちゅうりょう)ならず女は柔順ならず、 其の室(しつ)に和せず、 其の夫を敬はず、 毎(つね)に矜(おご)り誇るを好み、 常に妬(ねた)み忌むことを行い、 妻子に行(おこない)無く、 舅姑(きゅうこ)に礼を失(しつ)し、 先霊(せんれい)を軽慢(けいまん)し、 上命(じょうめい)に違逆(いぎゃく)し、 無益を作為し、 外心を懐侠(かいきょう)し、 自ら呪い、 他を呪い、 偏(かたよ)りて憎み、 偏りて愛し、 井(いど)を越え、 竈(かまど)を越え、 食を跳(とびこ)え、 子を損じ胎(はらめる)を堕(おと)し、 行(おこない)に隠僻(いんぺき)多く、 晦臘(かいろう)に歌舞(かぶ)し、 朔旦(さくたん)に号怒(ごうど)し、 北に対(むか)いて涕唾(ていだ)し及(ま)た溺(いばり)し、 竈に対(むか)いて吟詠(ぎんえい)し又哭(こく)し、 又た竈の火を以て香を焼(た)き、 穢れたる柴(たきぎ)にて食を作り、 夜起きて裸を露(あらわ)し、 八節(はっせつ)に刑を行い、 流星に唾(つばき)し、 虹霓(にじ)を指(ゆびさ)し、 輙(すなは)ち三光(さんこう)を指(さ)し、 久しく日月(じつげつ)を視(み)、 春月に燎(や)きて猟(かり)し、 北に対(むか)いて悪罵(あくば)し、 故なくして亀を殺し蛇を打つ。 此(かく)の如き等(たぐい)の罪をば、司命(しめい)は其の軽重に随(したが)いて、其の紀算(きさん)を奪う。算尽くれば則ち死す。 死して余責(よせき)あらば、乃(すなは)ち殃(わざはい)子孫に及ぶ。 又た諸(こ)れ横(よこしま)に人の財を取る者は、乃(すなは)ち其の妻子家口(かこう)を計(はか)りて以て之(これ)に当て、漸(ようや)く死喪(しそう)に至らしむ。 若し死喪せざれば則(すなわ)ち水火(すいか)、盗賊、器物の遺忘(いぼう)、疾病(しっぺい)、口舌(くぜつ)の諸事(しょじ)ありて、以て妄(みだ)りに之を取るの直(あたい)に当(あ)つ。 又た枉(まげ)て人を殺す者は是れ刀兵(とうへい)を易(か)へて相殺さしむ。 非義の財を取る者は、譬(たと)えば漏脯(ろうほ)に飢を救い、鴆酒(ちんしゅ)に渇(かつ)を止むるが如し。 暫くは飽(あ)かざるに非ざるも、死も亦(ま)た之に及ぶ。 夫(そ)れ心に善を起こさば、善、未だ為さずと雖(いえど)も、而も吉神(きちじん)巳(すで)に之に随う。 或は心に悪を起さば、悪、未だ為さずと雖も、而も凶神巳(すで)に之に随う。 其れ曾(かつ)て悪事を行うことあるも、後自(のちみずか)ら改め悔い、諸悪を作すこと莫(な)く、衆善を奉行(ぶぎょう)せば久々(きゅうきゅう)にして必ず吉慶(きつけい)を獲(え)ん。謂(い)わゆる禍を転じて福と為すなり。 故に吉人は善を語り、善を視(み)、善を行う。一日に三善あらば、三年にして天必ず之に福を降(くだ)さん。 凶人は悪を語り、悪を視、悪を行(おこな)う。 一日に三悪あらば、三年にして天必ず之に禍(わざはい)を降さん。胡(なん)ぞ勉めて之を行(おこな)はざらんや。 以上〜本文終わり〜 現代語訳・『太上感応篇(神仙感応経)』 神仙感応経に述べられていることによれば、 人に吉凶禍福の出来事がもたらされるのに、決まった門のようなものがあるわけではない。 ただただ、その人が自分の行いの結果、吉凶禍福の出来事を招くだけである。 善悪の行いの報いというものは、あたかも人の影が、必ずその本体の動きに随い、決してちがう動きをしないようなものである。 そのことについてだが、天地には、人の吉凶禍福をつかさどる司命の神がいらっしゃる。 人が犯す罪や悪の軽い重いをご覧になり、その量によって、人の生まれ持った寿命の三日分もしくはそれに値する健康運や仕事運や財運・家庭運などの生命運である「算」を取り上げる。 「算」が減らされてくると、生活が貧窮し、多くの憂い事や病に見舞われ、皆に嫌われ、処罰されるような目に逢い、吉事や慶事は遠ざかり、不運の星が災いを及ぼし、「算」が尽きれば死んでしまう。 また、天子を表す北極星を守る上中下の三つの台(星)の神がある。 上台は寿命の運を、中台は福徳の運を、下台は財富の運を司るが、日々、人の頭上より見下ろして、人の罪悪を記録し、それによって三百日の寿命またはそれに値する生命運である「紀」と三日分のそれである「算」を取り上げる。 また三尸(さんし)という神がある。 この神は、人の身体の中にいて、三匹の霊虫のようなもので、頭部と腹部と脚部にそれぞれ住んでいる。 暦の上の庚申(かのえさる=こうしん)の日になると、そのたびに、体から抜け出して天に昇る。 こうして一年に六回、六十日ごとの庚申の日に天帝の御前に出て、自分が住みついた人の罪過を報告し、人の寿命を縮めさせようとする。 竈の神も毎月の月末の日に、同様に人間の罪悪を記録して天帝に報告する。 おおよそ、人が過ちを犯したならば、それが大きな罪の場合は、神がただちに「紀」の分の寿命と運気を取り上げ、小さな罪なら「算」の分の寿命と運気を取り上げる。 その命運の削減対象となる過(あやまち)には、大小合わせて数百種類もある。 長生きしたいと思うものは、まずそれらの数百の罪悪の行いを避けるべきである。 正しい良い道へはただちに進み、罪悪への道はただちに退けることである。 邪まな道を歩まず、人の目に触れない所で欺くことをせず、徳を積み、世間に役立つ行いを重ね、心を用いてものごとを慈しみ、君主に忠義を、親には孝行を、友人には友情を、目下には悌心(ていしん=兄弟愛)をもってのぞみ、自分を正しくして、人に良い影響を与えるようにする。 孤児や身寄りのない人を矜(あはれ)み、寡婦や配偶者に先立たれて生活が苦しい人を恤(めぐ)み、老人を敬い、幼い子には懐(な)つくようにし、相手が昆虫や草木であっても、正当な理由もなく傷つけることをしてはならない。 人が災いにあって被害を受けたならばそれを憐れみ、人に喜ばしいことがあったならばそれを自分のことのように楽しみ、人が急を要するときには援助し、人が危難に逢うのを見たら、救いの手をさしのべる。 人が得をするのを見ては、自分が得をしたかのように喜び、人が損をするのを見ては、自分が損をしたかのように残念がる。 人の欠点をあからさまにして恥をかかせず、自分の長所を見せびらかして賞賛を求めない。 悪しき言動を抑止し、善行を積極的に進め、人と何かを分け合うときも、相手には多い方を勧め、自分は少ない方ををとる。 屈辱を味わわされても恨まず、人から目をかけられて厚遇を受けても、自分のようなものにはもったいと驚き、懼(おそ)れ慎む。人に恩を施したなら、恩返しを期待せず、人に何かを与えたら、そのことを後悔し取り返そうとしたりしない。 善人というものは、だれもが尊敬し、天の神が佑(たす)け、幸いがついてくるし、さまざまな悪事や災いも遠ざかり、神霊が衛(まも)るので、やることなすことが必ず成就する。そのようであれば神仙になることを乞い願うべきである。 生きながら天に昇る天仙になろうとする者は、確実に一千三百件の善行を実践すべきである。地上において仙人と呼ばれる地仙(ちせん)になろうとする者は、確実に三百件の善行を実践すべきである。 苟(いやし)くも、仙人を目指すほどの者は、次のようなことをしてはならない。 不正不義とわかっていることを敢(あえ)て実行し、 道理に反すると知りながら実行し、 悪だくみを才能とみなし、 人目に隠れながら人畜生類を損ない破り、 ひそかに罪なき人に危害を加え、 陰で主君や親を馬鹿にし、 師匠先達を見下して主君や上司や師や先輩にそむき、 知識のない老若男女をたぶらかし、 同じ道を学ぶものたちをそしり、 嘘をまことであるかのように言って詐欺を働き、 同母の兄弟を攻撃して秘密をあばきたて、 猛々しくこわもてで情け容赦がなく、 獣のように道理を知らず、 自分のことしか考えず、 ものごとの是非をわきまえず、 随うべきものに逆らって逆らうべきものに随い、 目下を虐げてその功績を横取りし、 目上にはおもねりへつらって欲望の達成を願い、 恩を受けてもありがたいとも思わず、 恨みに思ったことは片時も忘れず、 人民を軽んじさげすみ、 国の政治を混乱させ、 不義の者に賞を与え無実の者に刑罰を加え、 人を殺して財産を横取りし、 人を追いやって地位を奪い、 降参した者を責め立てて殺し、 服従した者を殺害し、 正しい者を陥れ、 賢人を排斥し、 孤児や身寄りのない者を踏みつけにし、 未亡人を脅迫し、 法律を無視して賄賂を受け、 まっすぐなことを曲がったこととし、 曲がったことをまっすぐであるとし、 ささいなことを重大であるとし、 人が処刑されるのを見ては忍び難さや憐れみを持つことなくさっさと殺せと怒り、 あやまちを犯したとわかっても改めず、 何が善かわかっていても実行せず、 自分の罪を人になすりつけ、 方術(世のため人のためになる善用の祈祷や占術やまじない)を邪魔してふさぎ、 聖者賢人を誹謗中傷し、 道徳を破り無法を強行し、 生き物に対しても残酷で飛ぶ鳥を射落とし走る動物を追いまわし隠れた動物を引きずり出し住む穴を埋め巣をひっくりかえし妊娠している動物を痛めつけ卵を割り砕き、 人が失敗するのを願い人の成功をそしり、 人を危機に陥らせて自分は楽をし、 人のものをかすめて自分のふところをこやし、 悪をもって善とし、 私的なことを優先して公的なことを捨て、 人がやったことを自分がやったことにし、 人の善を覆い隠し、 人の醜いところをあらわにし、 人の私生活をあばき、 人の財産金品を浪費し、 人の肉親の仲をへだててばらばらにし、 人の恋人や妻などを犯し愛好する物などを奪い、 人の非道な行いを助長し、 野望をたくましくして嵩(かさ)にかかり、 人に屈辱を味わわせて勝つことを欲し、 人の稼(かせ)ぎの元を台無しにし、 人の結婚生活を破綻させ、 たまたま富者になったのに驕り高ぶり、 たまたま罪を免れたのに恥じることもなく、 恩恵を与えることを停止し、 まちがったことを人に勧め、 自分の過ちを人のせいにし、 悪事をもって金銭を得て、 金銭をもって名前ばかりの名誉を手に入れ、 人を責め裁き攻撃する心を絶えず募らせ、 人の長所をくじけさせ、 自分の短所は自己弁護し、 自分が優位だと嵩にかかって相手を脅迫し、 好き放題に暴力をふるって人も生き物も殺傷し、 冠婚葬祭でもないのに高級な布地を裁断して礼服をつくって着飾り、 祭礼や婚礼などの儀礼や祝典でもないのに宴会を開き、 穀物をゴミのように散らし捨て、 民衆を騒がせ苦しめ、 人の家から力づくで財宝を奪い、 堤防を切り崩して水害を起こし、 放火して火災で人家を損ない、 法規を乱して他人の功績を破り、 人の持ち物を壊し傷つけて使い物にならなくして苦しめ、 他人が栄誉に浴するのを見てはその人が落ちぶれさすらう目にあうことを願い、 他人が富裕であるのを見ては破産し一家離散することを願い、 他人の妻や恋人の美しいのを見れば欲望を起こして自分のものにしようとし、 他人の財産を預かる身になればその持ち主の主人が死ぬことを願い、 欲して得られなければたちまち相手を恨み呪い、 人が過失を犯しなどすれば世間に広め関係者にさらに告げ口して事態を悪化させ、 人の身体に障害があるのを見れば嘲り笑い、 才能ある者の賞賛すべき所を抑圧し、 生贄や人形や呪符を土中に埋めて人や他家を呪い、 薬物で人の植えた樹木を枯らし、 師匠先達に恩義感謝どころか憤怒を向け、 父兄に逆らい衝突し、 人からはなにごとも無理やり取り上げ、 無理やりに求め、 好んで人倫を侵し、 好んで強奪し、 自分のものにして掠めとって富を築き、 たくみに言葉を偽って地位名誉を上げようとし、 賞罰を公平に下すことなく、 楽しみに溺れること節度を忘れ、 部下や目下を虐待し、 他人を恐喝し、 何かあれば天を恨んでまわりの人のせいだと咎め、 風が吹けばそれを叱り、 雨が降ればそれを罵り、 喧嘩や訴訟ごとを起こし、 やみくもに友人や仲間たちを追放し、 妻や妾の言葉を信じて父母の教えに逆らい、 新しいものが手に入れれば古いもののことは忘れてしまい、 口では肯定しても内心では否定し、 自他の財産を貪り限度を超え、 主君や上司を欺いて悪事を隠し、 虚偽を語って罪のない相手を陥れて名誉を毀損し、 人をそしっておきながら直言したのだといいはり、 神を罵っては正しいことだといいはり、 素直に従う心を捨て去り、 反逆する者を真似し、 縁の近い親しい者に背を向け縁の遠い者に顔を向け、 天地を指差して軽侮の心もあらわな言葉を発し、 ご神前に祈願をしながら淫らなことに臨み、 施して与えたのにそれを後悔して惜しみ、 借りた金品は返さず、 自分の分限を超えた活動を起こして欲しがり、 強引にものごとを建て、 度を過ごして淫欲におぼれ、 内面は毒々しいのに外面を慈しみ深く見せかけ、 不衛生なあるいは霊的に不浄な食事を人に与え、 よこしまな教えで人々を惑わし、 物を売る時には公正な基準を捨てて目盛を短くした定規や目盛幅を狭めたものさしや実際より重く見せる秤や容積を減らした升を使うなどしてごまかし、 本当のことに偽りをまぜて意図的に不正な利益を搾取し、 良い者をおとしめて卑しい者と為し、 愚かな人をだまして駆り立て、 貪欲さに飽くことなく、 呪いの術をおこなってただちに祟りの効果が現れるのを求め、 酒に酔っては乱暴狼藉を働き、 親兄弟に怒って争い、 男は忠実善良なところがなく女は柔和温順なところがなく、 妻と和合することなく夫を敬うことなく、 常におごり高ぶって威張るのを好み、 常に妬んで嫌がらせを行い、 妻子に対し人間らしい扱いをせず、 舅や姑に対し礼節をもつことなく、 先祖代々の霊を侮り軽んじ、 君主や上司の命令に違反し逆らい、 無益なことをこしらえ為し、 二心をもって自負し、 自分で呪いを為し、 他人を呪い、 偏って憎み、 偏って愛し、 井戸をまたぎ、 竈をまたぎ、 食物をまたぎ越え、 子を傷つけ堕胎し、 行動に隠し事が多く、 慎むべき月末年末のときに歌い踊り、 穏やかであるべき月初年初に怒り叫び、 天子とその守護神を表わす北極星と北斗七星のある北に向かって洟(はな)水や唾液を吐きあるいは放尿し、 竈神の座す竈に向かって声高く歌や詩を吟じまた声をあげて泣き、 竈の火で線香に火をつけ、 穢れたものに触れた薪で煮炊きし、 夜に起きだして裸体になり、 立春から冬至までの八つの節気のときに死刑を執行し、 流星に向かって唾を吐き、 雌雄の竜を表わす薄い外側の虹、 濃い内側の虹に向かって指さし、 同様に日月星の三光を指さし、 長時間日月を見つめ、 生き物が繁殖期に入る春に野焼きをして狩猟し、 聖なる北の方角に向かって罵り悪口を吐き、 理由もなく亀を殺し蛇を打ってはならない。 以上のような罪の所業を、司命の神は、その罪の重さにしたがって、それを行った者の「紀(寿命300日分)」や「算(寿命3日分)」を罪ごとに重ねて加算して奪う。「算」が無くなれば、ただちに死ぬ。 これらの罪の結果、命が尽きて死んでも、まだ償いきれない罪過があるならば、その余罪の償いは子孫に災いとなって及ぶことになる。 また、人の資産を横取りした者には、その妻や子供や家族の命をもって償わせ、次々に死に至らしめる。 そうでなければ、替わりに水害や火災、盗難、家財道具の紛失、病苦、訴訟ごとなど費用のかかる出来事が起こって、横取りした金額を支払わせる。 また、不当に人を殺した者は、時間を隔て相手を変えてではあるが、刃傷沙汰によって互いに殺しあう目にあわされる。 不正に財を得た人間というものは、たとえていえば傷んだ干し肉で飢えを救い、毒酒で渇きを止めるようなものだ。 しばらくの間は満足しているだろうが、やがて自分のしたことの報いの死が見舞う。 人が善の心を起こしたならば、その善をまだ実行していないとしても、眼に見えない吉神(きちじん)が、すでにそばに来て付いている。 逆に、悪の心を起こしたならば、その悪をまだ実行していないとしても、眼に見えない悪神(あくしん)が、すでにそばに来て付いている。 しかし、かつて悪事を行ったことがある者でも、後に自らそれを省みて後悔し行いを改め、諸々の悪を為さず、諸々の善を奉仕の心で行うならば、長い間に次第にではあるが必ず吉慶を得ることになる。これがいわゆる「禍い転じて福と為す」ということである。 故に、吉運に恵まれる人は、善を語り、善を視(み)て、善を行うものである。一日に三つずつ、三年の間、善を行ったならば、天は必ずそれに対して福をお授けになる。凶運に見舞われる人は、悪を語り、悪を視て、悪を行うものである。一日に三つずつ、三年の間、悪を行ったならば、天はそれに対して禍いを下される。どうして、務めて善を行わないでいられようか。 (以上・全文) |
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