『都心の森の意外な効果 環境の回復だけじゃない』
(平成13年9月9日 日本経済新聞・日曜版17面)


東京の中心、皇居に五十八ヘクタールに及ぶ原野がある。
この六十年もの間、人の手が入っていない吹上御苑だ。
人為的な管理を意図的に避けた結果、自然が戻り、隠れた動植物の宝庫になっている。
それだけではない。カラス問題やヒートアイランド現象といった都市の難題の解決に、その存在が役立つ可能性があることがわかってきた。
都心の森がもたらす意外な効果を探る。




 町なかで近年急増し、東京都内で三万羽までになったといわれるカラス。他の鳥を追いやり、 生態系を乱すだけではない。ごみ置き場に群がって食い荒らし、人を襲う例もある。東京都には 昨年度で約千三百件もの苦情が寄せられたほど。都は今月からプロジェクトチームを結成し、実 害の調査と解決に乗りだす。
 ところが、都内でこのカラスが減っている地域がある。東京都千代田区千代田1−1。皇居だ 。


皇居の野鳥がカラス減らす

 敷地全体で九十五ヘクタールに及ぶ皇居の中で約六割を占める吹上御苑。江戸時代には徳川御 三家の邸宅があった。その後、防火のための庭園となり、昭和の初めには、天皇・皇后両陛下の ゴルフ場だったこともある。しかし、昭和天皇の意向で一九三七年からば芝の手入れをやめ、庭 園管理もしなくなった。現在は「原野」ともいえる緑地が広がっている。
 この森が抱える様々な生き物の調査が始まったのは九六年のことだ。天皇陛下のお声掛かりで 、国立科学博物館が五年がかりで吹上御苑一帯を調査。今年二月に報告書を発表した。この調査 でカラスが減っていることがわかった。
 鳥類の調査を担当した国立科学博物館動物研究部の西海功さんは「経路を決めて鳥を観察記録 する調査でカラスは九六年の平均八十羽から減り続け、二〇〇〇年では五十羽。明らかに減少傾 向にある」と話す。

 カラスは都市の森をねぐらとし、近隣の繁華街から出る生ごみなどを食料にしているといわれ る。カラスが増えても不思議はない皇居で、なぜ減っているのか。内海さんは「最大の原因はオ オタカ」と見る。
 オオタカはカラスにとって数少ない天敵だが、都市からはほとんど姿を消していた。ところが 、皇居にはそのオオタカが戻ってきているのだ。最初は冬にだけ飛来し、ここ数年は年間を通じ て姿を見せるようになった。今年二月の報告書発表時にはオオタカの巣は確認されていなかった が、五月に宮内庁が巣を発見。えさとして食べたカラスの死がいも、いくつか見つかっている。
 調査ではこのほか、千三百六十六種の植物と三千六百三十八種の動物が吹上御苑に生息してい ることがわかった。ワラジムシやミミズなど新種の発見。ベニイトトンボ、ジャコウアゲハなど の昆虫、タシロランやヒキノカサなどの植物は、東京都内で初めて確認したり、絶滅が危惧(き ぐ)されていたりしたもの。

「継続調査で、今年に入ってからもガの一種、ビロウドハマキの成虫を東京で初めて採取。ムラ サキシジミやネアカヨシヤンマといった珍しい昆虫が毎月のように二、三種は見つかっている」 と話すのは同博物館動物研究部の大和田守さん。都心で動植物は静かに増えているのだ。



 効果はこれだけではない。アスファルトの蓄熱や冷房などが出す熱で都心の温度が上昇するヒ ートアイランド。突然の豪雨など局地的な異常気象をもたらすこの現象の緩和にも、皇居の存在 が役立っているのだ。


オフィスの熱クールダウン

 日本大学生産工学部の西川肇教授らがランドサット衛星を使って、皇居と周辺部の地表面温度 を計測したところ、春夏で三度、冬でも一度程、皇居内が低くなっていることがわかった。「植 物が水分を放出する蒸散作用で熱が下がる。この冷気は周辺にも流れ、東京をクールダウンさせ ている」と西川教授は解説する。
 東京都立大学の三上岳彦教授(地理学)らが新宿区の新宿御苑で調査したところ、昼間は緑地 の低温の空気が南寄りの海風に乗り、風下にあたる周辺部二百メートルの範囲まで、温度を下げ る効果があることがわかった。また無風となる夜間も、周囲の暖かい空気を緑地内に取り込み、 内部の冷気を放射状に周辺約八十メートルにわたってじわじわとしみ出させていることも観測し た。
 三上教授は「緑地面積も大きく、周辺が堀になっている皇居は、より広い範囲に冷気を及ぼし ているだろう。都心の森は、熱源となったビル地帯の空気を取り込み、冷まして吐き出す大きな 肺のように、ヒートアイランド化に歯止めをかけている」ると強調する。
 もちろん、こうした機能を果たしている都心の森は皇居だけではない。五十ヘクタール以上の 大きな緑地だけを拾っても、東京二十三区内には、新宿御苑、明治神宮、赤坂御用地、上野恩賜 公園などが点在する。
 森の効果として最近、注目を集めているのが、森が見えるという景観がもたらす経済的効果だ 。


眺めがステキ 億ション完売

 野村不動産が八月に販売を始めたマンション「ヒルズ新宿御苑」は、一平方メートル当たりの 単価が百万円を超え、周辺の物件に比べ高めの価格設定だったが、南に面した窓から新宿御苑を 望めるという希少価値のおかげで、即日完売した。
 今年一〜六月に販売した東京のマンションのうち、新宿御苑、赤坂御用地、皇居、神宮外苑、 明治神宮に近接する物件について、不動産経済研究所(東京・新宿)が調べたところ、一平方メ ートルあたり平均九十四・一万円、一戸あたり平均価格が六千六百七十万円で、一割以上の約六 十戸が億ションにもかかわらず、三割強が即日完売。初月の契約率も八九・九%と都区内平均の 八〇・八%を大きく上回った。パークビュー効果には、業界の注目も集まっている。
 森が見えることによる経済効果はオフィスビルなどの商業用不動産にも広がる可能性がある。 東京では二〇〇三年までに大規模なビルが相次ぎ稼働し、テナント獲得競争が激しくなる見通し 。ほかの条件が同じなら森の景観は大きな売り物になる。
 東京には今後、森とはいかないまでも小規模な緑地が増える見通しがある。後押しするのは小 泉内閣が目指す「都市再生」だ。郡市再生の具体的な政策の一つがすでに部分的に始まっている 容積率の緩和。平面の都市開発を立体へと変え、建物の高層化を認めるかわりに「公開空地」を 増やす。この空き地を緑地や公園に変えていくという仕組みだ。



 三井不動産が渋谷区で販売している青山パークタワー。第一期販売分の二百五十戸余りは八倍 を超える平均倍率で即日完売だった。「代々木公園などの緑地を借景に望めるためか、普通は人 気のない北向きの物件でも希望者は多かった」(広報部)。しかも、公開空地に約一万本の木や 草花を植えることで「緑の空間を評価する声が強かった」という。
 ニューヨークのセントラルパーク、ロンドンのハイドパーク。都心の中心にある森や緑地は都 市のシンボルであるだけでなく、周囲のオフィスや住宅の価値を上げ、環境や経済面で有形無形 の効果をもたらす。
 都市再生が動き出そうとする現在の状況について、千葉の幕張メッセや沖縄ブセナリゾートの 開発などを手がけた都市計画プロデューサーの梅沢忠雄さんは「老人も子供も楽しく過ごすハイ ドパークのような、緑あふれる都心を東京に作り出すチャンスでは」とみる。都市百年の計がい ま問われているのかもしれない。         

 (スクープ取材班)