『大祓祝詞における天津罪と国津罪について』

『大祓祝詞における天津罪と国津罪について』

                            八神邦建

「大祓祝詞」とその内容の重要な箇所である「天津罪・国津罪」について、ご説明を申し上げたいけれど、まず「祝詞」とは、なんぞやというところから、はじめさせていただきたい。

 祝詞は通常、昇殿して参拝祈願していただく時や地鎮祭・供養祭・お祓い神事のときなど、神職が時と場合に応じた各種の神事や祈願の種類によって、奉唱し分けているのはみなさまご存じの通り。

「のりと」は正しくは「のりとごと」であり、「宣処言」とも漢字を当てることから「神に宣言し奉る言葉」「神に奏上申し上げる言葉」という意味である。

 そもそも「のる」とは「いのる」ということだ。また「のろう」ということばにもなった。吉凶の差はあるが、どちらも「祈る」「念じる」という点で共通する意味がある。

「いのり」は、いわゆる「言霊」すなわち「言葉を現実のものにする力」への神秘的な信頼と経験によって生まれた信仰を前提にしている。

 それは、神が「今後、このようにする」と発された御言葉は必ず成就するという、先人たちの畏怖と確信の経験に根拠がある。西洋に似た例を探せば聖書に書かれた「預言」(預言者という神秘的な役割の人間が、神から預かって人々に告げる言葉)がそれに近い。

 祝詞は現在、神社本庁の制定祝詞の手本となっている伝統的なものから、神職が参拝者の祈願に応じて作成するものまで、さまざまな場面で各種奏上されるが、中でも平安時代・十世紀から現代まで伝えられる最も有力なものとして普及しているのが「大祓詞」である。「おおはらえことば」と読むが、これは「国民の罪・咎・汚れを払い清める言葉」ということである。「おお(大)」の字は「おおやけ(公)」という意味である。

 その罪咎汚れとはどのようなものかといえば、今回ご紹介する「大祓詞/正式旧版」の原文と現代語訳をごらんいただきたい。

 起源としては、平安時代の延喜年間(西暦九二七年)に制定された律令の中の「式(延喜式)」の祝詞の巻に納められたものが現代まで伝わっている。

 一千年以上も受け継がれてきた祝詞である。いわゆる古代からの「言霊」の精髄ともいうべき奏上詞であり、普遍的な神霊の力がこもると信じられている詞である。

 もちろん、唱える側がおざなりに形だけ唱えるなら、その効果はどんな聖なる詩句でも期待できない。しかし、その詞の意味を知り、その内容を信じて唱えるならば、その効力が奏上の対象となる神々によって与えられる。

「祓え」とは汚れの払拭・掃除を意味し、物理的・精神的の両方の浄化と正常化をも意味する。神道では、人の生命のありかは、神々から分与された霊魂であるとされる。いわゆる神々の分霊を宿すのが人間であるという考え方である。

 したがって、人間の本来の姿は清浄無垢にして健全な心身を持っているものだという認識が前提にある。それが、心身の病気や事故や不幸不運に遭うのは、清浄であるべき心身が、罪咎・穢れによって曇りと濁りを生じて機能不全に陥ったからだという認識がある。それは、個人についてだけでなく人間関係や人と神との関係にも敷衍されて、そこに嘘や過ちや罪悪があれば、それも穢れによってあるべき状態が阻害されるので、祓い清めの対象となる。

 これらの「健康であるための基準概念」は、古来、三つの言葉で表現されている。すなわち「清」「明」「直」の三つである。言い換えれば「清くあれ」「明るくあれ」「正直であれ」という神道の基本理念だ。

 この「清・明・直」の原則は肉体的にも精神的にも言動においても適用される。また、物理環境にも霊的環境にも求められる。

 したがって生活全般、人事百般に関して「清・明・直」を保つことが、神々より御神助・御守護を戴ける条件とされる。

 御神助と御守護を戴ける限りは、大きな病やけがや事故、不測の災害や暴力や犯罪に巻き込まれることは少なくなる。

 そういう「清・明・直」を保つ上で、あるいは穢れによって覆われた場合、それらを国家的・国民全体のレベルで祓い清めて更新するのが「大祓祝詞」の役割である。

 では、何から何を祓うのかということになる。それは国民が犯した「天津罪」「国津罪」という二種類の「罪・咎・穢れ」の蓄積を、国家国民国土から一掃し、天地の御神気が国中に満ちわたるようにすることである。

 まず「国民」を意味する言葉は、「天の益人(あめのますひと)」と書かれてある。これは「天から下されて人口が増えてゆく地上の民」というほどの意味で、起源は古事記・日本書紀の神話にある。

 最初に日本の国生みをしたイザナギ神・イザナミ神の夫婦神のうち、妻神イザナミ神は火の神を産んで現世を去り死者の黄泉の国に行ってしまう。それを焦がれた夫神イザナギ神は、みずから黄泉の国を訪れて現世に妻神を連れ戻そうとするが、こじれて夫婦の争いになってしまう。

 イザナギ神は、怒ったイザナミ神とその鬼女軍団に追われて、現世に逃げ帰るが、そのとき現世と黄泉の国の境目の通路を大岩でふさいでしまう。

 通路をたたれたイザナミ神は、悔しさのあまり大岩の向こうにいる夫神に叫ぶ。「こんなことをするなら、あなたの生む現世の人を一日に千人殺してやります」

 それに対してイザナギ神がこう言い返す。「あなたが千人殺すというなら、私は一日に千五百人、人を生み出すことにしよう」

 こうしてイザナミ神によって死ぬ人数とイザナギ神によって生まれる人の数の差が、五百人ずつ増えていって今にいたるという人口起源説話である。この「五百人ずつ益してきた」というのが「天の益人」という言葉の由来だ。益は増と同じ意味。

 そして、この「天の益人」たる国民が、日々の生活の中で「清・明・直」の本来の姿から離れて、心身も生き方も、濁り暗くなり偽るようになる。その結果さまざまな自覚無自覚を問わない倫理的・道徳的な罪咎、穢れ過ちが起こる。それらはさらに不幸や災害、疫病や事故や犯罪といった苦難と悲劇をもたらす原因となる。

 それらの罪咎穢れ過ちには二種類あって、「天津罪」と「国津罪」にわけられる。おおまかにいえば、前者は「国家国民の生計・産業・共同体へ公的の罪」を意味し、後者は「刑事・民事・家族関係についての私的の罪」を意味する。

「天津罪」については、古事記・日本書紀に書かれたスサノオ神の高天原での乱暴狼藉に由来する。

 その由来をつづめていえば、先のイザナミ神が黄泉国のイザナミ神から逃れて現世に戻り、黄泉国の穢れを海の急流で洗い流して清めたときに、穢れと浄化に関わる多くの神々がお生まれになった。その中でも中心的なのは、祝詞の浄化力を実現する「祓戸大神」という四柱の女神様たちで、大祓詞の後半から末尾にかけてお名前とそれぞれの役割が出てくる。さらにその後に、イザナギ神の左の目から天照大御神、右の目からツクヨミ神、鼻からスサノオ神という三柱の貴い御子神が生まれた。

 イザナギ神は喜んで、天照大御神に昼の天空を、ツクヨミ神に夜を、スサノオ神に大地を治めよと命じられる。日の神と月の神は、ただちに命じられた天に昇ったが、スサノオ神だけは母神イザナミ神のいる黄泉の国へ行きたいと泣いてだだをこねて言うことを聞かない。怒ったイザナギ神は、勝手にするがいい、黄泉でもどこでもゆくがいいと、愛想を尽かす。

 それで喜んだスサノオ神は、では黄泉の国へまかる前に、姉神である天照大御神にご挨拶を申し上げようと神界に昇っていった。

 一方、わがまま強情で父神をも根負けさせたスサノオ神が来るというので、天照大御神は大いに弟神の訪問の意図を疑い、女神ながら勇猛な完全武装の姿で迎える。

 そこで、スサノオ神は自分には邪心などかけらもないということを証明することにする。姉神の身につけたものをスサノオ神が口に含んで、男の神が生まれたら邪心がないとし、また天照大御神が弟神の身につけたものを口に含んで女神が生まれたら、やはり邪心がない証拠とするという誓約(うけい)を立てられた。

 そこでお互いに身につけた勾玉と剣を交換し、天の聖なる井戸の水ですすいで噛み砕き、吹き出したら誓約の通りに男女の神々が現れた。この時現れた男神たちの一柱が、神武天皇につづく皇室の祖先神となり、女神たちは宗像の三女神となって、現在も福岡県の宗像大社に、海防の神としてお祀りされている。

 こうして身の潔白の立ったスサノオ神は、堂々と晴れて高天原に入る。

 ところが、スサノオ神は自分の正当性が証明されたうれしさのあまり、調子に乗って、乱暴狼藉を働きだす。その様を「勝ちさびに勝ちさびて」すなわち「勝った勝ったと誇りに誇り高ぶって」と神話に描かれている。

 自分が優位に立つと高慢になり、尊大な態度で傍若無人に振る舞う欠点を、スサノオ神は露呈したことになる。

 勝利の喜悦のあまり横暴になったスサノオ神は、高天原に広がる美田の畦を崩し(畦放ち=あはなち)、水路を埋め(溝埋=みぞうめ)、水を曳く樋をこわし(樋放ち=ひはなち)、すでに田植えをした田に種籾をさらにばらまき(頻蒔き=しきまき)、自分の田の印である串を勝手に刺すなど(串刺し=くしさし)して稲作を妨害し田地をだめにしてしまう。  また天照大御神の御殿の戸に大便し、糞を塗りたくる穢し事を行う(屎戸・許許太久=くそへ・ここだく)。

 天照大御神の元へは、そういった蛮行の報告がなされたが、それでもスサノオ神をかばい御寛恕されていた。  しかし、姉神の寛大さにもかかわらず、スサノオ神はさらに大変なことをやってのける。

 高天原の農耕用神馬を、生きたまま逆むきに皮を剥ぎ(生剥ぎ=いきはぎ・逆剥ぎ=さかはぎ)、天照大御神の神衣を織る機織所(はたおりどころ)の屋根を壊して、機織り機の上に投げ入れたのだ。

 そのとき機(はた)を織っていた織女が、あまりのことに手にしていた糸を張りくぐらせる梭(ひ)という尖った道具を使っているとき、驚きのあまりそれが陰部に刺さって死んでしまった。

 ここまでされると、天照大御神も激怒されて、有名な天岩戸にこもられて世界は暗黒になってしまった。

 では、それまでは御寛恕されていらっしゃったのが、なぜ機織り女(め)の死により、堪忍袋の緒がお切れあそばされたのか。

 経過を見るとわかる。まずスサノオ神は、食料供給の元である水田をこわし、住居である御殿に不浄を塗りたくって入れなくし、衣服を織る機織り所をこわして死馬・死人まで出した。

 これは、「衣食住すべてを汚して破壊行為を働いた」こととなり、これでは神々も人間も暮らしがたちゆかないことになる。

 つまり、スサノオ神の調子にのって思い上がり、誇り高ぶる心を発端とし、衣食住の生産活動に重大な障害を起こしたということである。

 このように、自他の衣食住の生産活動を阻害し損害を与える行為の数々を、大祓祝詞では「天津罪」すなわち高天原における神による罪として定義している。

「天津罪」を別の言葉でいえば、田圃の畦を壊したり、溝を埋めたりというのは、「境界線の破壊」であり、樋をはずすのは「必要資源の供給の阻害」であり、種の二重撒きは「作物の生育阻害」であり、串を田に刺すのは「所有権の侵害」である。馬の皮を生きながら逆剥きにはぐのは、「殺生残虐行為」である。

 屎戸・許許太久は、いうまでもなく、不浄のものを戸口にぬりたくる穢れの数々で、不潔であるだけでなく、神の入室を妨げ、魔物や悪霊のつけいる隙を与える行為にもなる。

 そして、「国津罪」とは、「天津罪」の生起によって、人間世界にどのような悪影響があるかの例示である。  まず、「生膚断ち=いきはだだち」は、傷害・暴行・事故による怪我や流血を伴う殺害を含む罪である。「死膚断ち=しにはだだち」とは、死体を傷つけたり損壊することも、死体の一部を呪詛行に使ったり、あるいは人肉食を行うことを禁じている意味だろう。これらは、天津罪の「生剥ぎ逆剥ぎ」から来ている。

「白人・胡久美(しらひと・こくみ)」は、レプラのような悪性の皮膚疾患によって、体が白くただれたり、黒く腫瘍ができることだという説が一般的だが、これには諸説あって定説とすべき解釈がない。

 私見では「痴(し)ら人・扱(こ)く身」ではないかと思っている。後に出てくる近親姦の罪から、劣性遺伝子による脳機能障害などをもった子供を「痴ら人」とし、「扱く身」は、すなわち、人の身をしごく、虐待する、過酷に扱うなどの行為を意味するのではないかと思われる。

「おのが母犯せる罪・おのが子犯せる罪」は、自分の母と性交する罪、自分の娘と性交する罪である。「母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪」は、妻と妻の母と両方と性交する罪、妻と妻の娘の両方と性交する罪で、実の親子でも義理の親子でも、これらは家庭内の秩序と家族の境界線を破壊し、性虐待の結果、家系子孫が衰滅してゆく行為である。

 また、「畜(けもの)犯せる罪」は獣姦で、人が牛・馬・山羊・羊などの家畜や犬などのペットと性交する罪である。ちなみに「けもの」は「毛の生えた家畜」のことで、野生動物は「けだもの」と読む。これも、人畜の境界線を犯すがゆえに罪となる。「昆(は)う虫の災い」は、昆虫ではなく「蛇」の害のことである。ヘビは古語で「ながむし」とも呼ばれていた。家にしのびこむ毒蛇だけでなく、子供や家畜を飲み込む大蛇の類もたくさんいたので、そのような災いに自分や家族が遭わないようにという祓え言葉である。

「高津神の災い」は、いわゆる天狗や異類の魔性による「神かくし・人さらい」を防ぐための祓え言葉である。「高津鳥の災い」は、鷹や鷲などの猛禽が、乳児や幼児をさらってゆく害のことを示している。現代では想像できないが、1000年前の日本の山村では、蛇や妖怪変化や鷹鷲によって、子供たちが被害を受けるという悲惨な出来事がたくさんあったのだろう。これも、野生動物による、人間の生存がおびやかされて侵害されていたという証左であろう。

 次に「畜倒(けものたお)し蠱物(まじもの)せる罪」は、呪詛行のことである。家畜を生贄にして自分の願望をかなえようとする行為や、人を呪い危害を加えるために藁人形のような呪物をこしらえて祈願するような行為のことをいう。

 そして、最後に「許許太久の罪出でん」、これは「そのほか類する諸々の罪が現れるだろう」の意味である。「許許」は「ごろごろ」、「太久」は「たくさん」の「たく」と見なせばわかりやすい。

 このような天津罪・国津罪を、日本全国の国民から祓い清めるというのが大祓祝詞の目的である。

 清めといえば、頭から全身に水をかぶる「禊ぎ」という行がある。大祓祝詞の奉唱は、それを霊的次元で行う行為であるといってよい。

 大祓祝詞は、目に見えない精神的・霊的なレベルで非常に浄化作用が強いことを、私はこの二十年以上の自分の体験から知っている。

 神社や神棚などの神前だけでなく、普段から暗唱しておけば、常住坐臥、必要なときに小声でつぶやいたり、心の中でとなえることも可能だ。日頃から敬神・尊皇・崇祖の念を厚くし、神社や神棚に拝礼していれば、より一層の浄化力をいただける。暗誦すれば、入浴中に繰り返し唱えることもできる。

 心が落ち着かないときなど、日常生活を送りながら、声にはださずに数度唱えるとかなり落ち着く。眠れないときに寝床で声に出さずに何度か黙唱するうちに、いつのまにか眠ってしまったことも何度もある。

 神頼みするしかない最悪の事態でも、地元の氏神(産土・鎮守)様に詣でて、昼でも夜でもお参りできる時間をとって、何日間か大祓祝詞を一心に唱え続けることをして、窮地を切り抜けたこともある。

 まことに、大祓祝詞の御蔭で、私は本当に救われ助けられており、多くの皆さんにも神前・日常生活での朗誦をお勧めする次第である。

(了)


(令和1年9月25日)

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