「庶民のねがい/戦争の反省」
『庶民の発見』宮本常一(1955年7月初稿/講談社学術文庫)

「庶民のねがい/戦争の反省」
『庶民の発見』(1955年7月初稿/講談社学術文庫:1987年11月)

宮本常一(みやもとつねいち・民俗学者)

庶民のねがい/戦争の反省

 大東亜戦(われわれはこうよんでいた)のおこったとき、私は深いかなしみにとざされた。敗戦の日のいたましい姿が目さきにちらついてならなかった。私にはこの戦争が勝てるとは思えなかった。軍隊が、政府が、どのように終戦へもってゆくかは、われわれにはわからないとしても、まず第一に自己崩壊をさせないで戦いを終わりたいことと、戦いの終わったあとわれわれはどのように対処してゆけばよいかを、今から考えなければいけないと思った。この二つの考えは戦争が終わるまではなれなかった。

 ただ一つ、この戦争は日本にとっては実に大きな犠牲を強いられたことになるけれど、何らかの意味で民族解放の戦争になるだろうということにかすかな希望がもてた。東亜諸民族が、それぞれ自分の力でたちあがるための、一つの契機になるだろうということは想像せられた。

 昭和十九年、私は民俗採集の旅行ができなくなったので奈良県の田舎の中学校につとめることになった。生徒たちが敗戦の日に失望しないように、戦争の状況についてよくはなし、また戦場における陰惨な姿について毎時間はなしてきかせた。生徒たちは熱心にきいてくれたが教室の外ではあまり他人にはなさなかったらしい。私は憲兵にも警官にもとがめられることなくしてすんだ。別に口どめしたわけではなかった。ただこれだけのことは言った。「私たちは敗けても決して卑下してはいけない。われわれがこの戦争に直面して自らの誠実をつくしたというほこりをもってほしい。それは勝敗をこえたものである。そしてまだ私たちはこのきぴしい現実を回避することなく、真正面から見つめ、われわれにあたえられた問題をとくために力いっぱいであってほしい。そういう者のみが敗けた日にも失望することなく、新しい明日へ向かってあるいてゆけるであろう」この言葉はあやまっているかもわからない。しかし私はそんなふうに説かざるをえなかった。

 戦場に向かう生徒たちには、「決して死んではいけない。たとえ自分ののっている船が撃沈せられた場合も木のきれ一つあってもつかんで生きることを考えよ。いかなる日にもいのちをおしめ。いのちの尊さを知れ。君たちがそのようにして苦難にみちた現実の中をあるき、その現実を見つめたいのちこそ戦後に本当に役に立てるべきであり必要ないのちなのだ。苦難にたえうるものこそ、明日をひらく力になるのだから。そしてそのためのいのちなのだから」と言った。さいわいにして若い人たちは一人も戦死することなくかえってきた。それは臆病だったから助かったのではないようだ。「心のはやるとき、おちつきをなくしたとき、いつも私の言葉を思いだしてほしい。いのちをおしめ」と。

 日本が敗戦によってうちひしがれ、全く自信を失っているとき、アジア諸国はつぎつぎに立ち上がった。太平洋問題調査会のインドのラクノーにおける各国代表の講演をよんでみると、いかに希望にもえ明るくかがやかしいことか。それは明らかに明日を持った人々の生命の躍動によるものであるといえるであろう。

 大東亜戦は批判者たちの言うごとく、軍部の、政府の、ブルジョアたちの陰謀によるものかもわからない。しかし私はただ単にそのように考えたくない。圧迫せられた民族の心の底のどこかに、あるいは血の中にその圧迫をはねかえそうとする意欲がつよく動いていたことも、この戦争を初期において大きく拡大させた原因だったと思う。周囲民族のわれわれを支持する気持ちは、われわれの彼らに対する信頼の裏切りのために、われわれからはなれていったけれども、自らの足であるいてゆこうとする夢はすてなかった。少なくとも戦場にあって聖戦を信じ、自らに忠実であった人々の人間的な努力が、政策や戦略をこえて、同じ民族の心の中にともした火は明るいものであったと思う。

 自らを卑下することをやめよう。人間が誠実をつくしてきたものは、よしまちがいがあっても、にくしみをもって葬り去ってはならない。あたたかい否定、すなわち信頼を持ってあやまれるものを克服してゆくべきではなかろうか。

 私は人間を信じたい。まして野の人々を信じたい。日本人を信じたい。日常の個々の生活の中にあるあやまりやおろかさをもって、人々のすべてを憎悪してはならないように思う。

 たしかに私たちは、その根底においてお互いを信じて生きてきたのである。

(以下略)


(令和1年10月10日)

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