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『遠野物語に見る産土神・氏神の特徴と座敷わらしとの関係』八神邦建(一)こどもと遊ぶ神々 私、八神の母方の祖父は、昭和四十年代後半に60歳で亡くなったが、その祖父が幼いころに体験したこととして、娘である母が教えてくれた不思議な実話がある。おそらく祖父が10歳以下の子供の時期と思われるので、話の舞台は大正年間ぐらいになる。 現在の宮城県は石巻市桃生町太田(いしのまきし・ものうちょう・おおた)に「薬田(くすだ)」という集落がある。そこには祖父の家があり、その土地の鎮守様(氏神様)は小高い雑木林の丘の上の「薬師神社(やくしじんじゃ)」である。「お薬師さま」と母はいっていたが、その神社の境内で、幼い祖父たちが遊んでいたのだという。「薬師」とは「薬師如来」のことなので、ご神体は仏教系であり、神仏習合の信仰のもとに祀られてきたとわかる。 その神社には、実は御神体として焼き物の小さな土人形が数体おまつりしてあった。それを、祖父たち近所の子供たちが、手頃なおもちゃとしてお堂からとりだして、雨あがりに水たまりに入れて泥遊びに興じていたのだという。 ところが、近所のおじいさんがそれを見とがめた。「ご神体で遊ぶとはなにごとか」と叱りつけたので、祖父たちは泣いて家に帰ったのだという。 そして、その晩、叱ったおじいさんに異変が生じた。原因不明の高熱に襲われて寝込んでしまったのである。 当時は、何かわけのわからないことが起こると、神や霊を自分の体に降ろして口述する「かみさま」と称される霊媒のおじいさん・おばあさんに相談するのが普通だった。そういうイタコがあちこちにいた時代である。 当然、おじいさんの家族は近所のイタコのおばあさんに頼んで、原因を探ってもらった。 その結果は、おもいがけないものだった。イタコのおばあさんの口から出たのは「お薬師さまが怒っている」というもの。 なんで怒っているのかというと、「せっかく子供と楽しく遊んでいたのに邪魔をされたので怒って祟った」とのこと。 そこで、熱病のおじいさんは、イタコのおばあさんを通じて、お薬師さまに必死に謝罪して許しを請うたので、熱病は翌日には平癒したという。 以上の話を聞いたのは、私がまだ二十歳台、昭和の終わりのころだ。当時は不思議なこともあるものだという感想と、神社の神様というのは、どうも自分が思っているのとは違う、泥くさい人情味にあふれたご存在なのだろうかと思った記憶がある。 それから十年ほどして、薬師神社にお参りする機会があって境内をみたが、社殿は新しく昭和三十年代に建て替えられており、中のご神体を見ることはできなかった。ところが、その社殿の右側の奥に、小さな古い木造のお堂があるのを発見した。どうやら、そのお堂こそ、祖父が幼いころに遊んだ古い旧社殿ともいうべきものだとすぐわかった。そして、その小堂の木のすかし窓の入った扉から中を覗き込むと、意外や意外、そこに色あせた数体の福々しい顔をもった土人形がお盆のような木枠の中に、無造作に平たく積まれていたのである。 それが、幼児だった祖父が遊んだ人形だとピンときた。母の話が真実だったことを、そこではっきり確認できた。 ところが、後年、そのことについて、さらに驚くべき発見があった。 それからほどなくして、私は柳田国男の『遠野物語』を偶然に手に取り、まったく同様の話が複数載っているのを発見し、驚きに打たれたのである。以下がその引用である。 『遠野物語』(新潮文庫/平成元年 三十六刷) [45ページ(遠野物語)より。現代かなづかいに直して引用]
五二 また同村柏崎の阿修羅社(あしゅらしゃ)の三面の仏像は、御丈(おんたけ)五尺もある大きな像であるが、この像をやっぱり近所の子供らが持ち出して、阪下の沼に浮べて船にして遊んでいたのを、近くの先九郎どんの祖父が見て叱(しか)ると、かえって阿修羅様に崇(たた)られて、巫女(いたこ)を頼んでわびをして許してもらった。 五三 遠野町字会下(えげ)にある十王堂(じゅうおうどう)でも、古ぼけた仏像を子供たちが馬にして遊んでいるのを、近所の者が神仏を粗末にすると言って叱り飛ばして堂内に納めた。するとこの男はその晩から熱を出して病んだ。そうして十王様が枕神に立って、せっかく自分が子供らと面白く遊んでいたのに、なまじ気の利くふりをしてとがめだてなどするのが気に食わぬと、お叱りになった。巫女(いたこ)を頼んで、これから気をつけますという約束で許されたということである。 五四 同じ町の上組町(かみぐみまち)でも、大師様の像に縄(なわ)を掛けて、引きずりまわして喜んでいる子供達があるのを、或人が見とがめて止めると、その晩枕神に大師様が立たれて、面白く遊んでいるのに邪魔をしたとお叱りになった。これもおわびをして許されたそうな。 五五 琴畑の部落の入口の塚の上にある、三尺ばかりの無格好な木像なども、同じように子供が橇にして雪すべりをしていたのを、通りかかった老人が小言を言って、その晩から大変な熱病になった。せっかく面白く遊んでいるのをなぜに子供をいじめたかと言って、ごせ※を焼いたという話がある。(※八神注・ごせ=後生腹の略。激しい怒りや癇癪を起こすのを「ごせを焼く」「ごせ焼き」という) 五六 遠野町の政吉爺という老人は、もとは小友村字山室で育った人である。八九歳の頃、村の鎮守、篠権現(しのごんげん)の境内で、遊び友達と隠れガッコ※に夢中になっているうちに、中堂の姥神様の像の背後に入り込んだまま、いつのまにか眠ってしまった。すると、これやこれや起きろという声がするので目をさまして見ると、あたりはすっかり暗くなっており、自分は窮屈な姥神様の背中にもたれていた。呼び起こしてくれたのは、この姥神様なのであった。外へ出ようと思っても、いつのまにか別当殿が錠を下ろして行ったものと見え、扉が開かないので、しかたなしにそのところの円柱にもたれて眠りかけると、また姥神様が、これこれ起きろと起してくれるのであったが、疲れているので眼を明けていられなかった。こうして三度も姥神様に呼び起こされた。その時、家の者や村の人達が多勢で探しに来たのに見つけられて、家に連れ帰られたという。この姥神様は痘瘡(とうそう)※の神様で、丈三尺ばかりの姥の姿をした木像であった。 このように、岩手県と宮城県のちがいはあれど、私の祖父の体験とまったく同じケースが複数書いてある。 私は、地方の小さな山や田んぼの中の神社の神様は、子供好きで決して謹厳だけだったり堅苦しいご存在ではないのだということを、これらから学ぶに至った。 地方の神社・社祠にまつられる神々は、子供が大好きで、仏像・神像の扱いに関するかぎり、大人の分別に邪魔されることがひどくお嫌いのようである。古来、わが国には「七歳以前の子供は神様」という伝承があり、祭事に思春期前の子供が重要な役回りを演じることも多い。このような子供重視の態度は、西洋でも子供は天使にたとえられるし、あたかもキリストが「幼子のごとくならないと天国に入ることはできない」と語った新約聖書の一節を彷彿とさせる。 やはり、子供と神は、共通し同通するものを持っているようだ。あるいは、天国や極楽浄土や神々の世界は、無邪気に遊ぶこどもたちの心にこそ流れ込み、その素直さや純真さを、神々はこよなく愛されるのだろう。 遠野物語に出てくる舞台となる寺社には、神仏習合が顕著でむしろ仏教系の仏や守護神を祀る例が非常に多い。寺とも神社ともつかない地元で崇敬される神仏がほとんどといっていい。 それらは、仏が日本の神々の姿を借りて現れたという本地垂迹(ほんちすいじゃく)の信仰を具現したものであり、遠野物語とは別だが、北極星の神を祀る道教の影響を受けた妙見信仰などもある。 仏教系といっても、それは真言宗や天台宗などの密教系寺院の崇拝する仏であり修験道で祀られる神仏も含まれる。 そればかりか、オシラ様やオクナイ様のような土俗的といえるほどの起源不明の民間信仰の対象も、重要な家や集落の神々として大切に祀られる。 一見、混沌としたこれらの信仰対象の不統一は、その深奥にある共通の原理の存在を見えにくくしている。しかし、現れが神であれ仏であれ不思議な霊媒的人型像であれ、信じる人間たちには共通の心理というか崇敬理由がある。神仏のありようは多様でも、崇敬する側の心ばえが同一なのである。 それは、「自家・一族・郷土の守護と繁栄への祈り」の一事に尽きる。 さまざまな神仏の名前をつけられた信仰対象の神霊存在の実在を信じて遠野の人々は拝み祭り、拝む内容は「自分と家族の無病息災、家業繁盛、吉運招来、子孫繁栄、先祖供養」である。その質朴で自然な祈願に、神仏もまたお応えくださる。 このような神仏混交の信仰については、江戸末期から明治・昭和初期にかけての国学や神道の学問では、ある種の純粋ならざる分野であるかのように見なされるきらいがあったように見える。 しかし、土俗的に感じられるからといって、迷信が混ざっていると断じることはできない。信じる側の純粋さは、国学であろうと庶民の地域性の高い信仰の在りようであろうと変わりはない。 遠野物語の著者の柳田国男も、自分がはじめた学問を、国学の一形態とみなしていたというから、古事記・日本書紀などに載ってはいないものの、あくまでも日本の神々とそれを信じる国民の姿に基づいた研究なのはまちがいない。 では、国学や神社神道の方面で、六人部是香(むとべよしか)に代表される産土神・氏神信仰と遠野物語に、どのような共通項があるのだろうか。 産土神・氏神は、自分の生まれた土地の神社(祠や石塔のような、ごくつましい場合も多い)の神で、その管轄する土地で生まれた人たちの出生と死亡を司るとされる。 遠野物語でいえば、表向きは仏教系や密教系・修験系やイタコ系の神であっても、それぞれまつられる場所があり、管轄する集落と氏子となる民がいる限り、その神仏は、そこの人々にとっては「産土神」「氏神」なのである。仏教系の名前の信仰対象だからといって産土神にふさわしくない、などということはない。 むしろ、拝まれる側の産土神・氏神にしてみれば、どんな呼ばれ方をされようとも、氏子となる民を守護し導き、お祭りされる立場は変わらないのだから、人間がこだわるほど名前は重要ではないのかもしれない。 もちろん、皇室の宮中祭祀や伊勢神宮はじめ、皇室や国民全体に関わるような祭事に関しては別である。厳密で純粋な式次第でなくてはならない。呼称を問わない産土神・氏神のありようとは異なる。 そういった国事に直につながる場合は別として、十万社を超える日本じゅうの神社・小祠の神々のありようは、遠野物語に書かれた姿と大差はないはずである。 しかし、崇拝するときの呼称はともかく、土地の民の生死を見守り導く神々の産土神・氏神としての共通の原理というか、氏子が守るべき規則のようなものはないのだろうか。 先述した産土神・氏神の研究で有名な国学者・六人部是香の『産須那社古伝抄』には次のような一文がある。 「『神宮雑事』という秘書に記された内容は、《まず、自分のいる土地の産須那の神に、敬虔さをもって心をこめて奉仕し、その上でほかの神を拝む余裕があるときには、よその神社の霊験を仰ぐことである。かりそめにも、自分の産須那の神を差し置いて、ほかの神の御利益を仰ごうというのは、自分の仕えるべき主君をなおざりにして、他国の君主に向かうがごとき、不当なことではないだろうか。そうであれば、たとえ社殿や境内が狭いお社に坐す産須那の神であっても、その御恩と御神徳のありがたみをゆるがせにしてはならない。社殿が壊れたりしたならば、たとえ自分は、どんなに破れた襤褸の服を着ようとも、餓死を覚悟で費用を当てて奉仕すべきである。もし、ある土地の産須那の神が、不信心な産子をお咎めになり祟られたならば、いかに他の土地の神にご祈願しても、よその神はましてその産子をお助けになることはできない。よその土地の神の祟りならば、自分の所の産須那の神様がお恵みをたれ、よその神の祟りをなだめてくださる。このような心がけを常に忘れず、お仕え申し上げるべきである》と書いてあるように、ほかの土地の神といえども、適当に手を抜くなどということはしてはならないことだけれど、とりわけ、まず第一に、自分のいる土地の産須那の神を大切にしなければならない」 「氏神とは本来、ご先祖より代々に渡り祀って来た神様を指す事で、天皇家が天照皇大神、藤原氏は春日大神、平家は厳島弁財天、源氏が八幡大神などを言うのですが、神々の発祥地を離れたり、受け継がれた信心が途切れた場合は意味の無い事なのです。 実は、遠野物語にもこのことを示唆するエピソードがあるのだ。 [26〜28ページ(遠野物語)より。現代かなづかいに直して引用] 一九 孫左衛門が家にては、ある日梨の木のめぐりに見なれぬ茸のあまた生えたるを、食わんか食うまじきかと男どもの評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食わぬがよしと制したれども、下男の一人が云うには、いかなる茸にても水桶の中に入れて苧殻(おがら)を以てよくかき廻して後食えば、決してあたることなしとて、一同この言に従い家内ことごとくこれを食いたり。七歳の女の児はその日外に出でて遊びに気を取られ、昼飯を食いに帰ることを忘れしために助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、あるいは生前に貸しありといい、あるいは約束ありと称して、家の貨財は味噌の類までも取り去りしかば、この村草分けの長者なりしかども、一朝にして跡方も無くなりたり。 二○ この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。男ども刈り置きたる秣(まぐさ)を出すとて三ツ歯の鍬(すき)にてかきまわせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聞かずして打殺したりしに、その跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分にことごとくこれを殺したり。さて取り捨つべき所も無ければ、屋敷の外に穴を掘りてこれを埋め、蛇塚を作る。その蛇は匱(あじか)に何荷とも無くありたりといへり。 二一 右の孫左衛門は村の珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読みふけりたり。少し変人という方なりき。狐と親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に稲荷の祠(ほこら)を建て、自身京に上りて正一位の神階を請(う)けて帰り、それよりは日々一枚の油揚を欠かすことなく、手づから社頭に供えて拝を為せしに、のちには狐なれて近づけとも遁(に)げす。手をのばしてその首をおさえなどしたりという。村にありし薬師の堂守は、わが仏様は何ものをも供えざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、度々(たびたび)笑いごとにしたりとなり。」 つまり、この18〜21の逸話でいえば、まず栄えている山口家の当主・孫左衛門が勉強家で、家をより富ませるために、遠隔地の京都の稲荷神社を勧請して自宅に祀ったのが、そもそもの発端となったようである。しかも、地元の神仏ではなく動物である狐の霊力に頼ろうとする迷信的な発想であった。「少し変人」ということは、知識はあったがよくある偏った独善的な傾向のある人物だったのだろう。それゆえに、蛇を殺すな、茸は食うなと孫左衛門が制しても、下男たちがいうことをきかなかったことから、変わり者の主人と思われて軽視されていたのであろう。自分勝手な考えで産土神・氏神を無視する態度をとったがゆえに、まず女の座敷わらし(家の守り神)二柱が逃げ出して、蛇の大群の出現と皆殺しの殺生が起こる。そして、その蛇殺しの祟りであるかのように、毒きのこの中毒による一族の滅亡に至った。 孫左衛門は、本来なら自分が氏子である地元の神仏に詣でてわが家の繁栄を熱心に丁重に祈るべきであった。そうすれば、家は滅びずに済んだであろう。それが、もっとも身近でお世話になっている神仏を無視して、遠くの神を祀ったりしたので、産土神のご守護からもれてしまい、凶運邪霊の攻撃にさらされ為すすべなく滅んでしまったのだろう。 また、産土を粗末にしたとたんに、座敷わらしが逃げ出したということは、そもそも座敷わらしは産土神・氏神の与える幸運を運び家を守護する神使であり、妖怪などではないと思われる。家の守り神であるということは、ある種の福の神的な力をもってはいるが、福を授ける家を気まぐれに選んでいるのではないだろう。その家をふくむ土地を管轄する産土鎮守神・氏神のお指図のもとに派遣され、福運を授けて見守っていると見るべきであろう。 ただ、素朴な土地の人々にわかりやすいように土俗的な姿と現れ方をしているにすぎないように思われる。 そして、現代では多くの家庭が神棚をしつらえているように、遠野物語の時代には、オシラ様やオクナイ様を家の神としておまつりしていた。つまり、オシラ様・オクナイ様も、もとをただせば土地の産土神・氏神の分神であり、家家に配された守り神であるといえよう。決して、妖怪や得体の知れない霊物などではないということになる。 霊験あらたかなオシラ様・オクナイ様も、その霊験の源は土地の氏神にあり、その管掌の下で祀られる家々をお守りしてくださっていると見るのが妥当であろう。 こうして、一連の記事からわかるのは、特に皇室や国家の大事にかかわる神宮や大社の行事でない限り、大半の産土神・氏神は、自分たちがどういう名前で崇められても、あまり気にしていらっしゃらないようである。 そのお優しい寛大な御姿に、氏子の一人として、ほっとしまた安心できるものを感じる。 神のお名前や宗派にこだわるのは、人間の側の問題であって、産土神・氏神様ご自身はなんと呼ばれようとも、その土地その土地の氏子・産子を守り導こうとされる姿勢は一貫していらっしゃる。それこそが、神の神たる、人間にはまねのできないありがたい尊厳であると感じられてならない。(了) (平成28年10月8日) |
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