第三回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(五)&(六)』

1.苦労人国学者・平田篤胤(五)

◎役者か学者か

 団十郎のところで役者修行をしながらの家庭教師生活は、比較的平穏で、以前から みれば安定したものだったらしい。

 しかし、もちろん役者となることは、半兵衛の本意だったわけではない。たとえ厚 遇され、生活にも安定が生まれたとはいえ、その生活に安住したわけではなかった。

 その証拠に、『聞受書』の中で篤胤はこう告げているからだ。

「私は思った。本心では(学者として)大いに名をあげたかったので、役者では、た とえ千両役者になったとしても、大いに名をあげたことにはならないと。そこで、医 学書や漢学の書物を研究したのだが、どうも、これだというものに出会えなかった」

 役者修行のかたわらでも、相当の漢籍を読みふけり、医学書もずいぶん研究したよ うだ。すでに二二〜二三歳で「老子」「荘子」を熟読し、諸子百家の書物もあらかた 読みつくしたらしい。俳句・川柳の類も研究した形跡があるので、驚くほど広範囲の 読書をしていたことがわかる。

 役者の世界もまた、火消しとは別の意味で、低俗な部分があり、半兵衛の志にかな う場所ではありえなかった。真摯に学問をおさめて高名ならんと欲する「志」に、か なわなかったのである。

 そんなおりもおり、半兵衛のもとに、ある町人の商家から「飯炊き募集」の口入れ があった。場所は、江戸城の三六個ある見附(江戸城の外門のこと。譜代大名が交替 当番で門番警護に当たった)のひとつ「常盤橋」付近のお堀端。今日でいうならJR 東京駅の北口、日本銀行のあるあたりである。

 大きな店だったと見えて、かまどのそばで、夜通し灯明をつけてもかまわないとい う環境だった。 

「飯炊き男」といえば、朝晩の飯を炊く以外には仕事がない。余暇というか、空き時 間は たっぷりあるわけで、読書時間の確保を第一においていた半兵衛にとって、まさにう ってつけの仕事だった。

 ただし、当時の「飯炊き」は賃金が安いばかりでなく、一般的に「半人前のやる仕 事」とみなされていたのも事実である。それでも、読書勉学の時間がとれて、しかも 夜通し灯火を使わせてもらえる環境は、半兵衛にとって、なによりもありがたい職場 だったにちがいない。

 故郷の秋田で、親兄弟に下人のごとくこきつかわれた経験を持つ半兵衛である。水 くみ飯炊きなど、仕事としてはたいした苦痛ではなかっただろう。

 もちろん、武士の出でありながら、町人の商家のかまどの前で、火ふき竹でふーふ ー吹いている彼を、バカにしたり、見下したりする意地悪な連中もいて、屈辱的な気 持ちをさんざん味わわされたであろうことは、想像に難くない。

 彼の読書方法であるが、「音読」が基本だったようだ。彼のみならず、江戸時代の 読書法は、今日のような「黙読」が主体ではなく、「音読」が常識で、目の前で朗々 と読み上げられても、だれも不思議に思わなかったらしい。

 のちに篤胤が書いた『童蒙入学門(初心者むけ勉学入門)』という本の「読書の章 」にはこう書いてある。

「おおよそ、読書というものは、机をふいてちりを払ってのち、書物を置いて開くべ きである。姿勢をただし、呼吸をととのえ、一字一字、しっかりと見て、音読するこ と。

 韻をふむ箇所、声の調子を強めるところ、弱めるところ、章だてや節、段落の切れ 目、句読点ごとに、一カ所のあやまりもなく、声たからかに読み上げ、一句一句の意 味を読みとるようにすべきである。また、同じ文章を何度も繰り返して読むべきであ る。読む回数が多ければ多いほど、口が覚えて忘れなくなるものである」

 おそらくは、このように「繰り返し、声たからかに音読して覚える」という読書法 を身につけていた篤胤は、半兵衛時代の飯炊きかまどの前でも、夜通し声も勇ましく 朗々と音読に励んでいたにちがいない。

 この朗読が、のちの彼の行く道を決定することになる。現代の感覚だと、夜中に声 高く音読なんて、うるさくて眠れやしないじゃないか、と思うかもしれない。

 しかし、江戸時代は、今より住宅密集度ははるかに低く、都市とはいいながら、江 戸もまた「森の都」であり、少々の人声など、問題にならないほど、木々におおわれ た場所だった。

 町屋や大店といっても、今日のような高度集約型の土地利用という発想自体がない 時代のことである。しかも、人々の気性は、現代よりはるかにおおらかで、身分の上 下を問わず、一心に勉学に励む若者を、尊敬こそすれ、迷惑がったりする風潮は皆無 だったであろう。

 夜中に、飯炊きが台所で、声高く漢文朗読しても、だれもとがめない。そういう時 代だったのである。

◎運命を呼ぶ声

 半兵衛の声は、浄瑠璃修行でならしたせいか、よく通り、江戸城のお壕を越えるほ ど大きかった。対岸の見附の大名たちも、門番警護の最中に、彼の声を聞いたと思わ れる。

 それというのも、半兵衛の運命が大きく回転しだしたのは、備中松山藩主(岡山県 )の板倉侯が、彼の朗読の声を、見附での警護中に聞いたことにあるからだ。

 ある晩、板倉侯が警護途中でかわや(トイレ)に立つと、壕の対岸の町屋の立ち並 ぶあたりから、朗々とした読書の声がきこえてきた。

 町人にしては、熱心なことだと思って、家来に軽くたずねた。どうやら、学問好き な飯炊きが、本を読んでいるようでございますと家来の報告を受け、そのときはそれ で済んでしまった。

 ところが、三年後、ふたたび同じ見附当番に立った板倉侯は、まったく同じ場所で 、全く同じあの朗読の声をきく。  三年も、ずっと飯炊きをしながら読書とは、見上げたやつもいるものだと、侯は本 格的に声の主について調査をさせる。

 このとき調査を命じられたのが、板倉藩士として召し抱えられ、山鹿素行(江戸前 期の儒学・兵学者)流の兵学の進講をしてきた平田藤兵衛篤穏(あつやす)という人 物だった。

 平田家は、四代前から板倉侯に仕え、軍学を進講してきた家柄である。もちろん、 軍学の先生であるから、江戸に常駐していた身分である。藩内外を問わず、生徒を集 めて兵学を講義し、教えていたことはいうまでもない。

 あとですぐにわかるのだが、実は半兵衛は、江戸に出てきてから、一時期、この平 田藤兵衛のもとで、山鹿流の軍学を聴講していたのである。

 板倉侯から調査命令を受けた時点では、藤兵衛の意識のうちに、半兵衛の記憶など 、まったくなかったであろう。  ちょうど殿様の板倉侯が見附に立ったとき、平田藤兵衛の地位は、警護隊長ともい うべき「番頭(ばんがしら)」にあった。

 殿様の命令でさっそく、謎の飯炊き男の調査に乗り出すが、その結果、意外な男の 姿を、見いだして愕然とする。

 なんと、会ってみれば、以前、自分のところに、たびたび聴講に来ていた大和田半 兵衛ではないか。しかも、出羽国佐竹藩の大番頭たる大和田家の四男という、ほんら い飯炊き男をするような出自ではない。

 もともと、平田家は兵学、大和田家は医学を中心にして、ともに儒学の家系であり 、家柄をたどれば「桓武平氏」の流れにあるから、まさに同族感覚、似たものどうし といってよかった。

 なんで、おまえのような身分の者が、こんなところにいるのだ、三年もよく辛抱し て、刻苦勉励につとめたものだ、あっぱれなやつということで、平田はただちに半兵 衛を自宅に引き取る。軍学を教えるかたわら、半兵衛の望むがままに、読書の時間と 生活の保証を与えたのである。

 こうして、半兵衛は、江戸入府以来、初めてなんの生活の心配もなく、思う存分、 読書勉学できることになった。

 おりもおり、平田家では跡継ぎにしようとした養子に死なれて数年、誰かいないか と心ひそかに探している最中でもあった。半兵衛の登場は、まさにタイムリーだった のである。

 藤兵衛の半兵衛への入れ込みようは、実に大きなものがあった。半兵衛の志の高さ と学識の深さと広さ、学問への熱意の強さにうたれ、わずかの間に「養子はこの男し かいない」と決めたようである。

 しかし、半兵衛自身は、自分を拾ってくれた恩人の願いに、少なからずためらい、 悩んだようだ。素直に「はい、養子になります」と返事をするわけにはいかなかった 。

 藤兵衛に引き取られるまで、彼は車引きや火消しや飯炊き以外にも、さまざまな武 家や商家に出入りして、下働きのアルバイトを転々としてきた。「私は、大志がある ので、あえて人の家を継ぐことはしない」と固く決意していたからである。

 まさに勉学ひとすじ。大学者になるために、天涯孤独であってもかまわないと、本 気で覚悟していたのだ。

それ以外にも、養子相続をためらう事情があった。実は「恋人」のことである。さ まざまな武家や商家を、奉公人として転々と渡り歩いていたころ、ある旗本のお屋敷 で知り合い懇意となった女性がいた。

 行儀見習いをかねた奥勤めの奉公にきていたその女性の名を、織瀬(おりせ)とい う。

 半兵衛は、その彼女と、いつになるかわからない結婚を、ひそかに誓いあっていた 。もちろん、本人どうしの勝手な色恋ざたは、御法度あつかいの時代のこと、だれに もいえな い「秘密の約束」だった。

 だが、平田家の養子になることで、別の女性と結婚させられ、生木を裂かれる可能 性があった。

 織瀬もまた、江戸府内の石橋家の娘として生まれ、小身ながらきちんとした武家の 出身である。二十歳という当時としてはぎりぎり、婚期の限界に近づいていたため、 ぐずぐずしていると、これもまた親や親戚に強いられ、別の相手と結婚させられてし まうおそれがあった。

 なによりも、厳しい武家制度の中で、親や親戚や師匠の許諾を得ずに、勝手に自分 たちで「婚約」の意志を持つなど、ゆるされなかったご時勢である。

 平田家か、石橋家か、どちらかから「そなたら不義の仲、不届き千万」との非難が なされれば、あとは手討ちにされても文句のいえない立場だった。

 強い反対の声があがれば、養子になるどころか、心中や駆け落ちしか、なすすべが なくなる。まさに、二人の仲は、この養子問題によって、微妙で苦しい局面に入るこ とになった。

 そんな中、半兵衛は織瀬とも、よく語らい相談した上で、あれほどためらっていた 平田家の養子になることを承諾する。恩人・平田藤兵衛の世話に報いるためにも、最 後まで断ることはできなかったであろう。

 藤兵衛たっての懇請で、養子相続のはこびとなったが、まだ解決すべき問題があっ た。

出自は相当の家柄とはいっても、半兵衛はうたがいようもなく脱藩者である。よる べなき身であることはまちがいなく、そのまますんなり養子にするわけにもいかず、 作法にしたがった手続きが必要だった。具体的には「後見人・身元保証人」としての 「家元」がなければ、養子にはできない。

 このとき、見かねて「家元」役を買って出たのが、同じ平田の門で軍学を学ぶ黒田 藩士の高久喜兵衛文吉だった。彼が半兵衛の「叔父分」として「家元」になり、形の 上からも正式に平田家の養子にできるよう、はからってくれたのである。

 こうして、寛永十二年(一八○○年)八月十五日、大和田半兵衛は、平田の姓を名 乗ることになった。名は半兵衛あらため「篤胤」。義父平田藤兵衛篤穏の「篤」と、 実家大和田家の通り字「胤」をあわせた名だ。

 平田篤胤の誕生である。

1.苦労人国学者・平田篤胤(六)

◎篤胤の結婚

 この辺で、平田篤胤という人物の、記録に残っている風貌や雰囲気などを記してみ たい。「大学者」と目されて後代に多大な影響を与えた偉人だが、その人となりはど うだったのであろうか。

 本居宣長の養嗣子・本居大平は、同じ本居門下として、その後、篤胤と親しく交わ るが、彼の書簡には、こんな篤胤評が残されている。 「篤胤は、もともと非常にもの柔らかな男であって、顔だちも柔和で、笑みをうかべ ながら・・・」

 決して、ごりごりの厳格さや、闘志をむきだしにするタイプではないのがわかる。 むしろ、人柄の穏和な、ことを荒立てることを嫌う、一言でいうなら「優しい人」だ ったらしい。

 そこには、堅苦しい雰囲気は、まったくうかがわれない。生家の家学だった山崎闇 斎派の峻厳さとは対照的な、きわめて人あたりの柔らかい丸い人物だったようだ。

 少年時代から、人を見ればニコリとする人なつこさがあったのに加え、苦労人によ くある、優しい老成した感じすら、漂っていたことであろう。人間的によく練られた 、温かい人物だったようである。

 さて、大和田半兵衛は、めでたく平田篤胤となったのだが、身分はもとより板倉藩 士、殿様への願書は「医師としてのお仕え」という書面だった。願書は受理され、八 月十五日の養子縁組の翌日には、板倉侯へのお目見えがかない、同二四日、二人扶持 で医師として、正式に出仕することとなった。

 問題は、かねて秘密の婚約を交わした織瀬のことである。養子となったとき、篤胤 二五歳、養父・藤兵衛六九歳、その妻「そえ」もそれに準ずる高齢だったと推定され る。

 本来なら、篤胤に嫁をもらい、一日も早く家名を嗣ぐ孫を得ることが急がれるとこ ろだ。

 しかし、なぜか藤兵衛も「そえ」も篤胤の縁談を積極的にすすめようとしなかった 。だれか良い相手をと思って、見合いの真似事くらいはしたかもしれない。ところが 、実は、篤胤に、すでに織瀬という思い人がいるのを知り、かなりの困惑が藤兵衛側 にあったのではないだろうか。そして、それを承諾しかねて、ずるずると時間がたっ たようである。

 そうしているうちに、養子になってから十カ月後、「そえ」が急逝する。

 板倉藩の兵学師範の家庭の主婦の不在は、体面上からも実務上からも、多くの門弟 が出入りする関係からも、ゆゆしい問題であった。一日も早く、奥向きをきりもりす る新しい主婦が必要である。

 このような余儀ない事情にあって、織瀬との縁談は、急速に進んだのだろう。「そ え」の四九日があけるのを待って、同八月十三日、篤胤が養子となってほぼ一年後に 、織瀬は平田家に嫁入りする。

 篤胤の伝記のひとつ『御系譜御草稿』という記録の中には、「そえ」逝去から織瀬 の嫁入りまでと思われる期間、平田家と織瀬の実家の石橋家の間で、ずいぶんとむつ かしい話し合いがあったことを示すくだりがある。

 篤胤自身の言として、こう述懐している。

「互いに親の許しもないまま、自分たちだけで(結婚の)約束をし、(それがために )さまざまな辛苦を経験したあげく、(平田・石橋)双方の親たちの熟談によって、 そのとき(織瀬)は嫁に来たのである」

「辛苦」「熟談(とことん話し合う)」という語からも、色々なことが二人をめぐっ てあったであろうことが、推察できる。

こうして、苦しい峠を越え、はれて結ばれた二人であったが、そこには「甘い新婚 生活」とはほど遠い結婚生活が待っていた。

 これまで、姑にあたる故「そえ」が何十年もかけて築いてきた平田家の「主婦」の 大役を、織瀬は若干二十歳で果たさねばならなくなったのだ。ノウハウも何もない、 まったくの一から、「板倉藩兵学師範」の「奥」として、決して金持ちではない家禄 を、切り盛りする立場に置かれた。

 平田家の主要な収入は、家禄の五十石(五百斗)だが、実態は五十俵(二百斗)で ある。なぜなら、江戸時代の収穫米は、「四公六民(収穫された米の四割を武士が、 残りを百姓がとる)」が当たり前なので、単なる「生産高」を現す「石高」も実際に は、その四十パーセントだけが武士の取り分だったからである。つまり、「加賀百万 石」といえども、藩主・前田家とその藩士たちが自由にできたのは、四十万石にすぎ ない。いわゆる「石高」という表現には、そういった実態があり、台所事情の苦しく ない武士など、ほんの一握りだったのだ。

 今日にたとえて言うなら、「支給額五十万円、手取り二十万円」ということである 。これが「禄高」と「実収入」のギャップの実態なのである。表向きの「石高」を真 に受けて、「大名は農民から搾取して豪勢な暮らしをしていた」などと、愚かな空想 をしているのは、歴史考証など眼中にもない、左翼的な無知のしからしむるわざなの だ。

◎織瀬の導き〜国学への目覚め

 ここで、話が少しとぶのを、おゆるしいただきたい。

 不思議なことがある。学校の日本史の教科書でも、一般的な「日本史辞典」のたぐ いでも、今あげた「石高制」の実態を、ちゃんと記述しているものが、ほとんどない 。

 ここには、なんらかの「江戸時代や封建制を悪く思わせる操作」のあることがわか る。「過去は今よりずっとひどかった」と教えれば、「現在は最高なのだ」と子ども たちに思いこますことができる。

 実際は、現代の日本は「最悪の時代」である。人間らしさ・精神文明の面、肉体的 な健全さを維持する面からも、「最悪」の時代のただなかにある。乳幼児の死亡率が 減って、人口が増えて、高齢化が進むという現象だけをとらえて「進歩」したという のは幻想である。国民の精神性、徳性の錬磨向上と、技術的進歩を同列に捉える「即 物的歴史観」が、蔓延するから、こういうことになる。

 西洋近代文明から日本に注入された「毒素」のひとつに、この「進歩」という概念 がある。過去よりも、今、今よりも未来がすぐれているはずだという「進化論的直線 思考」だ。

 実際のところ、技術的には「進歩」したが、精神的には「退歩」している。歴史の 本質は「変化の連続」であって「進化の連続」ではない。「技術的改善の連続」では あっても「精神性向上の連続」ではありえない。

(もちろん、技術的進歩に貢献した先人たちの努力に対し、感謝と敬意を惜しむもの ではないが)。

 だから、この時代は「人類科学の最高潮」なのではなく「たまたまこういう時代」 という変化の一断面なのであって、過去のどの時代よりも優れている訳ではない。「 進歩」の思いこみは虚妄である。われわれ現代人のだれが、それぞれの先祖たちより 、人格・識見・徳性において優れていると断言できようか。

 物質的に優れていることと、精神的に優れていることを、そもそも同列に論じるこ と自体が、いわゆる「近代」の「異常さ」なのだ。つまり、現代は過去に比べて「異 常化」しているのである。過去のいかなる時代より「異常」なのだ。その「異常さ」を「進歩」と呼んでいるから、子どもたちがおかし くなる。「進歩的文化人」などという呼称は、無知な人間の、たちの悪いジョークに 過ぎない。

 その時代における国民や民族の「精神性・徳性」が総体として立派であるとき、そ の時代は立派だったと初めていえるわけで、「物質的豊かさ」があるから「立派」と は、先祖も子孫も認めてはくれないだろう・・・。

 話を戻そう。とにかく、脱藩者・大和田半兵衛の恋人から、板倉藩士・平田篤胤の 妻に昇格したものの、織瀬は、かなりの重責をになうことになった。夫や舅によく仕 え、子育てし、苦しい奥向きの台所を切り盛りしながら、多くの門弟たちの面倒を見 るという、大変な仕事を、結婚してすぐに、否応なくつとめなければならなかったの である。

 その心労と激務がたたったのであろう。織瀬は前述したように、この十二年後、夫 ・篤胤の『霊能真柱』の成立をみるや、若干三十一歳で他界してしまう。  この織瀬夫人は、相当に教養とたしなみのあった女性のようで、独身時代の奥勤め での稽古事は、かなりのレベルまで達していたようである。現存する夫人の和歌など を見ると、日本の古典の教養にも深いものがあったことが偲ばれる。ともかく、広範 な学究の人・平田篤胤の細君にふさわしい知性があったことがわかるし、その後、そ れを実証する出来事も起きる。

 その出来事とは、こうである。

 新婚まもないある日、篤胤はなじみの紙屑買い業者から、反故紙を安くどっさりと 仕入れた。紙屑買いといっても、寺子屋の習字の書き損じの半紙を中心に扱っている のではない。正確に対応するのは、今日の「古紙回収業」である。だから、その中に は、当時の書籍もあれば雑誌もあり、かわら版もあれば、浮世絵も見あたるという、 いってみれば「古本」の宝庫でもあった。

 現代とは比較にならない高度リサイクル社会だった江戸では、古紙も立派な産業シ ステムに欠くべからざる資源。こよりにしたり、便所紙にしたり、銭湯のたきつけに したり、その他、さまざまな用途で、需要があった。

 なにしろ、戸外にうっかり下駄を放置しておくと、いつのまにかボロ屑買い(廃品 回収業者)がもっていって、江戸で繁盛している無数の銭湯屋に、たきつけの一つと して売り払ってしまうというすごさである。

 江戸には、ごみは極端に少なかった。ごみも立派な売り物になって、リサイクル循 環の中に組み入れられていたわけで、道ばたに放置してあるものは、なんであろうと 「ごみ」とみなされ、ごみ屑買いが無断でもっていってもよいというのが、当時の「 常識」だったのである。

 こうして、篤胤は安い古本を入手するために、紙屑買いと親しかったわけだが、そ の日、仕入れた古本の中に、ある書籍があるのを、織瀬がめざとく見つけて夫に示し た。

 その書籍は『古事記』であった。織瀬はそれを勧めてこう言ったという。

「これは皇国の古書でございます。必ずお読みくださいませ」

 そのとき、初めて篤胤は『古事記』を手にして熟読玩味、深く感動し、もっと研究 したいと願ったと記録にはある。もちろん、この時点では、のちの師匠・本居宣長の ことは知らない。

 篤胤=尊皇国学というイメージから、『記紀』は、彼の若年より常識だったろうと 、われわれは考えがちだが、実はこの時まで『古事記』を、彼はまともに読んだこと がなかったのがわかる。

 当時の学問の情勢から考えれば、それも無理はない。幕府の学問は儒学・漢学・仏 教学がもっぱらであり、『記紀』のうち『日本書紀』の方が上とみなされ、本居宣長 の『古事記伝』が注目されるまで、ほとんどの学者は『古事記』など読まないものだ ったからだ。

 だから、篤胤も妻から『古事記』を勧められるまで、読んだことがなかったのであ る。 もっとも、この織瀬が『古事記』を勧めたのは、秘密の婚約時代のことであり、結婚 が成ったころには、すでに国学に傾倒していたとの説もある。

 いずれにせよ、織瀬が『古事記』を勧めたことがきっかけとなり、篤胤は日本の古 史に強く傾倒してゆく。

『古事記』を読んで感動し、もっと深く追求したいと思い、何かよい解説書はないか と探しだしてから、本居宣長の著書に出会うまで、さしたる時間はかからなかった。

 篤胤が『古事記』を読んだのち、初めて出会った宣長の著書が何だったかは、不明 であるが、宣長の著書を読んで、初めて「これだ!」と思ったことはまちがいない。

 前述の『聞受書』には、こう書いてある。

「あるとき、本居宣長の著書を読み、これだと胸落ちするものがあった・・・・・」

 そして、篤胤は本居宣長を、敬慕私淑しつつ、国学まっしぐらに突き進むことになる。

第四回:『』