第四回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(七)&(八)』

1.苦労人国学者・平田篤胤(七)

◎巨星・本居宣長に入門志願

 平田篤胤の生涯の方向を決定づけた本居宣長の「国学」との出会いは、織瀬との結婚の前後だったと推定される。

 本人の記憶違いや、話をわかりやすくするため、わざときりのいい元号の年にしたりと、不正確な形跡があるのだが、とにかく二四〜二六歳ぐらいの間に『古事記』を読み、本居宣長の著作に触れたのは確かなようだ。

 その衝撃と感激は、篤胤の自著や伝記の複数に記してあるので、国学への志がはっ きりしたのが、そのころなのはまちがいない。

 たとえば、結婚後十二〜三年後に書かれた『気吹(いぶき)おろし』という本には 、こうある。

「二六歳のとき、初めて鈴の屋先生(本居宣長)の著された書を読み、その教えのありがたいことを知って、その門下に入りました。それで、この上もないほど、古道(復古思想 )というものの尊さを知り、それからというもの、ひたすらこの(国学)の道をまなび・・・・」

 また、『御一代略記』には、次のようにある。

「この春、初めて、鈴の屋大人(うし)の著書を見て、おおいに古学への志を起こし、同七月、(宣長の居住地)松坂に(入門者としての)名簿を捧げさせていただいた」

 なお、前回記した「聞受書」の一節、「あるとき、本居宣長の著書を読み、これだと胸落ちするものがあった・・・・・」の続きにも、こう書いてある。

「この(宣長という)方は、まだまだ言い残されたことが、沢山おありになるのだろ うと 思った。そこで、その学問を継いで、自分も古学の道を開こうと、宣長の没後に入門 して古学を開くにいたった」

 この篤胤の宣長への賛仰、敬慕ぶりには、かなりなものがあったようで、前述の『 気吹おろし』には、かくのごとき感激ぶりがしるされている。

「先師、本居先生の学風のまさしくすばらしいことは、万国にも古今にも比類ないも のでして、なぜならば、万国の総本国というべき、この皇国におうまれになり、神が お伝えくださった真の道を、説明されたからでございます。さて、先生がこの道をあ まねく世に知らしめようとされ、書き残された著書は全部で五七部。その中には、和 歌に関するものや、漢字の音のことなど、論じられたものもございますが、それぞれ 言及するならば、そのことごとくが、人々に真の道を示そうというお心で著されたも のばかりでして、内容の懇切丁寧なことは、書かれたものを見るたび、涙がこぼれる ほどでございます」

 これほどの感激をもって、江戸よりはるか離れた伊勢(三重県)は松坂まで、本居 宣長への入門願いを出したのは前述の通り。だが、当時の交通・流通事情では、江戸 発の書信が伊勢につくには、大名や大商人たちが使う早飛脚でも無い限り、三カ月は かかった。

 運命の皮肉というべきか、その三ヶ月の間に、本居宣長は篤胤の入門願の名簿を目 にすることなく、他界してしまう。

 かくて、決して入門許可の出ることのない名簿が、宣長亡き後の本居家に届く。

 その名簿にそえられた手紙などから、宣長の跡を継いだ本居大平は、篤胤のいたま しいばかりの真情を汲み、宣長の没後門人として登録したとされている。

 ところが、現実には、宣長門下の名簿に、篤胤の名は見あたらない。どうなってい るのだろうかと、だれしも思うが、そのことについては、篤胤の養嗣子・鉄胤も疑義 を発している。

「わが父・篤胤は、故・鈴の屋先生の御存命のとき、正式に名簿を捧げて、入門をお 願い申し上げたのですが、それがご本人まで届かないうちに、先生はお亡くなりにな ってしまい、お答えをいただけなくなりました。そういう事情はあったにせよ、いわ ゆる没後門人として、父のあることはいうまでもないことですが、その入門願いが、 取り次ぐ人々の間で、とりまぎれて紛失でもしてしまったのか、門人帳に父の名がな いのは、どういうことなのでしょうか。冥府にいらっしゃる宣長先生の御霊は、この ことを、どのように見ていらっしゃるのでしょうか」

 このように、平田篤胤の本居門下への入門についても、その後、先輩門人たちとの 間で、議論やトラブルが起こることになる。

 こうして、篤胤の熱烈なる真摯な入門の覚悟もまた、これまで同様、多くの山あり 谷ありの運命を歩むことになる。

◎霊夢の邂逅

 ここで、筆者・八神邦建は、少し本居宣長という人物について勉強しておきたい。 なにしろ、平田篤胤とは比べものにならない浅学の国学初心者なので、よく知らない 偉人のことを、えらそうに書き続けるのは気がひける。

 さいわい「みち」編集部の三橋一夫氏より貴重な文献をお借りしており、本稿も実 は氏の貸し出してくださった書籍なしでは、とうていやってこられなかったのだが、 その中に本居宣長の「古道」の総論ともいえる代表作『直毘霊(なおびのみたま)』 の原文がある。

 日本人名事典あたりから、「鈴の屋先生」の簡単なプロフィールを抜粋し、その上 で、平田篤胤が感激した本居宣長の著作の血肉の一部に触れて見たい。

 本居宣長は、享保十五年(一七三○)〜享和一年(一八○一)に生きた国学者で、 松坂の木綿問屋・小津三四右衛門定利の次男として生まれた。

 父・定利は豪商で江戸日本橋に出店をかまえるほどだったが、家運、次第に傾いて 、宣長十一歳の年、定利は病死。義兄が家運再興を期すも果たせず、宣長自身、他商 家に養子にいったりもしたが、これも離縁となって実家にもどっている。

 ほどなく、義兄も亡くなり、宣長は家業をたたんで整理すると、宝暦二年(一七五 二年)二二歳で京都に上り、儒学者・堀景山(ほりけいざん)に入門する。

 篤胤とはちがった形だが、やはり不遇な少年時代を送っている。 

 京都では、漢学・漢方医学・薬学を修める。景山のすすめで「万葉集」注釈に生涯 をささげた、国学の先駆けで仏門出身の契沖の書を読み、復古的な古典研究に目覚め る。

 五年後、二七歳のとき、松坂にもどって小児科医を開業。同時に、やはり徹底した 「万葉集」研究から、儒仏を排した日本古来の根源精神を提唱した国学者・賀茂真淵 (かものまぶち)に入門。

 三三歳になってから、大著『古事記伝』の執筆にとりかかり、三五年後の寛政一○ 年に脱稿している。

 その間、それこそ「五七部」におよぶ著作をものしたが、中でも『紫文要領』『直 毘霊』、紀州藩主・徳川貞治の下問に答えて献じた著書『玉くしげ』などが、代表作 として知られている。

 上記のうち、復古神道の代表的総論として有名な『直毘霊』の本文を読むと、全体 に平田篤胤が、深大な影響を受けたことが明瞭に見てとれる。場合によっては、その まま『古道大意』などに踏襲されているくだりも、随所で確認できる。

 まず、「神ながら」の意味については、こう書いてある。

「神の道にしたがうとは、(天皇が)天下を治められるにあたって、ただ神代から伝 わるままに、いささかも人知のさかしらを加えることが無いのをいう。そのように、 神代のままに、おおらかにお治めになるので、自然に神の道は働き、それ以外を求め る必要がない。そのことを、『おのずから神の道はあり』というのである。

 それで、天皇が現人神として日本を統治するというのも、代々の天皇の統治が、そ のまま神の統治であることを意味している。『万葉集』の歌などにも、神ながら云々 というのがあるけれど、それも同じ意味である。(日本を)神国と外国人がいうのも 、なるほどうなずける話である」

 非常にわかりやすく端的な表現がなされている。また、外国の王朝についての見解 も、歴史をよく研究しており、日本の皇朝がすぐれている証拠をあげることにためら いがない。いわく、

「外国では、もとより定まった統治者のお血筋というものがないので、普通の平民も (機会さえあれば)たちまち王となり、王として生まれても(同様に)平民となって 滅亡したりする。昔からのありようである。そんなわけで、国を奪おうとたくらんで 、奪い損ねた者を『賊』として卑しめ憎み、国を奪えた者をば、『聖人』と呼んで、 尊び仰ぐようである。だから、いわゆる『聖人』も実は、『賊』のたくらみをうまく 為し得た者にすぎない。

(それにひきかえ)言葉にするのもおそれ多い、わが国の天皇(すめらみこと)は、 そのような賎しい出自でも平気な外国の王たちと、同じではいらっしゃらない。この 御国をお生みになられたイザナギの命が、御自ら、お授けになられた皇統であらせら れる。それなので、日本の創世より、皇統がお治めになられる大いなる御国と決まっ ているので、皇祖神・天照大神の神勅にも、『もし天皇の統治が悪い場合は、天皇と してお仕え申し上げなくとも良い』などというようなことは、記されてはいない。だ から、天皇御本人の善し悪しについて、はたよりうかがって、おはかり申し上げたり することはできない。

 天地の有る限り、太陽と月が空から照らす限り、何万代を経ようとも、動ずること のない大いなる天皇の御位なのである・・・」

 この『直毘霊』は、元来「道」ということについての論考であり、それを基本とし て、既存の儒者たちを痛烈に批判している。

 その原文は、かなりの量になるので、かいつまんでご説明するが、要するに「さか しい人知で生まれた儒教のような漢学は、みな皇統というものを持たない漢人の努力 が生み出したもので、決して神のごとくすぐれた人物が考えたゆえに『聖人の道』と 呼ばれるのではない。また、その説く所の道というものも、ただ儒者たちが念仏のよ うに、さえずり唱えるばかりのものである」といっている。

 さかしらに人知によって、「道」をことあげするゆえに、支那では、もっともらし い聖人だの、道だのが、ことこまかに書物に記されており、あたかもすばらしい文物 であるように見えるが、実のところはそうではない。

 日本の古学を学ぶものは、よく心を落ちつけて、それらの正体を見極めて、まどわ されないようにするべきだ。なぜならば、日本では古来、「道」という言葉さえなか ったけれど、事実としては「道」がちゃんと行われてきた。だから、むしろ支那では 「道」がすたれたがゆえに、「道」を喧伝せざるをえなくなって、それをことあるご とに継承しているのだ・・・・。

 以上のようなことが、『直毘霊』には形を変えて、ことこまかにくりかえし表現さ れている。まったく正鵠を得たものであり、漢学をきわめた篤胤が、驚嘆して心酔し たのも無理からぬものがあると感じさせられる。

 このような、本居宣長の古学の主張に触れて、篤胤はますますの精進を決意するが 、入門願いを出した直後に、敬慕やまない師に先立たれて、どれほど無念だったこと だろう。

 その痛恨の念が見せた幻影か、はたまたそれをあわれんでの宣長の霊と神のはから いか、翌年のある晩、篤胤は実に不思議な夢を見る。

 後世「夢中入門」として有名になった、一種の霊夢とおぼしい出来事だった。

 その夢とは、ある日、とつぜん友人が訪ねてきて、「君の私淑している宣長先生が 、伊勢からこの江戸にいらっしゃったそうだが、これからまた伊勢へお帰りになられ るそうだぞ」と告げる。

 びっくりした篤胤、とるものもとりあえず、宣長を追いかける。そして、品川の海 岸でやっと追いつくと、土下座して日頃の師への想いをうちあけ、入門の許しを乞う 。すると、宣長は即座に快諾してくれた。ついにやったぞ、願いが果たせた、先生ご 本人から、入門のお許しがいただけたと、とびあがって喜んだら、目がさめたという 夢だった。

 当時、品川といえば、東海道への入り口で、江戸との境の宿場町である。江戸=現 世、伊勢=神霊界、品川=現世と神界の境、と考えるのは、私のうがちすぎであろう か。

1.苦労人国学者・平田篤胤(八)

◎大器の初稿

 夢の中とはいえ、きわめて鮮やかな「入門許可」を、故人のはずの宣長からいただ いたことは、篤胤にとってはまさに「天啓」以外のなにものでもなかった。

 この夢の中の子弟邂逅が、夢という次元をたがえた世界で、実現したものであって も、篤胤には現実に起こったことと、ほとんど変わらないリアリティーをもって感受 されたことは、想像にかたくない。

 その証拠に、彼は知り合いの絵師(渡辺清号・周渓)に頼んで、この夢の中で起こ った「夢中入門許可」の情景を一幅の絵に描いてもらい、終生大切にしていた。この 絵は現存し、今も篤胤を嗣ぐ平田家に所蔵されている。

 夢の中とはいえ、篤胤は敬慕してやまない宣長の入門許可を得た。神霊の世界に戻 られた宣長先生が、悩める自分のために、わざわざ夢の中にお越しいただいて、はっ きりと入門の許可をくださった・・・霊の存在を確信する篤胤には、これでもう万全 の「国学」研鑽への許可が出たも同然である。

 もちろん、「たかが夢の話じゃないか」とバカにする向きもあっただろう。だが、 夢にも「たかが」と笑いとばせるものと、そうでないものがある。篤胤の見た夢は、 まぎれもなく後者であった。「たかが夢」とバカにする人間は、篤胤の見たような重 大で神秘的なメッセージ性の高い夢を体験したことのない、気の毒な人なのである。

 想像をたくましくするならば、この「夢中邂逅」を、即座に「次元をたがえた場所 での事実」と感得したほどの篤胤である。これ以前から、記録には残っていないが、 さまざまな「正夢」や象徴的解読によって判読できる「予知夢」、濃厚な霊的内容を ふくんだ「霊夢(うとうとしている寝入りばなや、起きる直前に見ることが多い)」 をずいぶん見ていたのかもしれない。

 少なくとも「夢」というものが持つ重要な意味を理解していなければ、「夢中入門 許可」を絵にしてまで、保存しようとはしないはずだ。

 この夢の中での入門許可を経験してまもなく、享和二年(一八○二年・篤胤二七歳 )、織瀬は長男を産み、篤胤は「常太郎」と名づける。それまでニ六年あまりも、産 声をきくことのなかった平田家は、にわかに活気づいた。

 ところが、第一子誕生以降の一時期、篤胤は、それまでになかった不機嫌さを、織 瀬にぶつけるようになる。「霊能真柱」初稿の断片によると、原因不明の虫のいどこ ろの悪い状態が続いて、織瀬に当り散らしたという。

 賢明な織瀬は、逆らいもせずに受け流し、心が鎮まるように遇したので、この原因 不明の不機嫌も、一時期だけでおさまったようだ。

 不遜かもしれないが、筆者には、この篤胤の「かんしゃく」の原因がわかるような 気がする。母親に可愛がられた経験の薄い篤胤は、母性に飢えている自分に、無自覚 のままきたのかもしれない。その飢えを、織瀬が満たしてくれたであろうことは、十 分にありうる。ところが、長男が生まれたことで、織瀬の愛情を「横取りされた」と、篤胤の心の中の子供が思ったのかもしれない。つまり、一時的な「嫉妬」である。

 織瀬夫人もまた、夫のかんしゃくの理由が何であるか、うすうす気づいていたのか もしれない。だからこそ、うまく発散させて、一次的な現象ですませることができた のであろう。

 篤胤自身に、「嫉妬」の自覚はまったくなかったであろう。もしあったなら、たと え断片たりといえども、自分の心理状態の乱れについて、書きつけたりはしなかった はずだ。

 もちろん、この見解は、あくまでも八神の想像であり、今はやりの心理分析めくが 、どうもそのように思えてならないのである。

 ただし、篤胤自身は、非常な愛妻家で子ぼんのうな人物だったから、今いった一時 的な不機嫌状態がおさまってからは、なみの家よりもはるかに妻子を大事にしたらし い。

 藩邸への出仕から帰るたびに、すぐに常太郎を抱き上げてほおずりするなど、文字 どおり、眼に入れても痛くないほどのかわいがりようだったという。

 このように、人並みの家庭を築くとともに、篤胤の国学の研鑽は、さらに勢いをま して、猛烈な進歩をとげてゆく。

 宣長の著作を読みすすみ、その偉大さが理解されるにつれて、なんとしても我慢が できなくなったのが、当時の儒仏など支那発の学問に偏重し、日本古来の精神を等閑 視する学者たちの態度である。

 ことに、五十年以上前に物故した荻生徂徠門下の儒学者・太宰春台が書き残した『 弁道書』を呼んだときには、そのあまりの日本蔑視、支那礼賛の内容に激昂し、この あやまった迷妄の書を論駁してくれようと、憤激のままに筆を走らせて処女作を書き 上げる。それが、『呵妄書(かもうしょ/妄説を叱る書)』である。

 たとえば、春台は『弁道書』に、こう書いている。

「神武天皇より、三十代欽明天皇のころまで、わが国には『道』と呼ぶに値するものはなかった。すべてが幼稚であったところへ、第三十二代用明天皇の皇子に、厩戸(聖徳太子)という聖にして明晰な方がお生まれになり云々、(初めて)日本に文明と呼ぶに値するものをもたらしたのである」

 この部分をはじめ、無慮、三十カ所に渡って、篤胤は筆誅・論駁を加えている。

 また同時期、篤胤は宣長の属した賀茂真淵門下で、宣長の弟弟子でもある国学者・ 村田春海(むらたはるみ)と会見するが、この春海、兄弟子だった宣長の古道観を、 口をきわめてののしること尋常でなく、篤胤を驚倒させた。

 春海いわく、「日本に道ありという国学者のたぐいは、自分の国に道がないのを恥 じて、強引にあちこちの古史から手あたり次第に例をひいて、人をあざむき自身をも あざむくものである。もともと日本には道といえるものはなかった。文字は漢字だし 、役人の衣装や制度や法律なども、みな(律令制など)支那のまねをしてきたに過ぎ ない。日本の学者とは、支那の儒学に通じるもののことであり、国学者というのは、 儒学者の中で日本のことに詳しいもののことであり、儒学者のうちで和歌を読めるも のを歌学者と呼ぶにすぎない」

 こんな「支那文明あっての日本」といった論調でまくしたて、「宣長は世をまどわ すニセ学者だ」などと、ぶちあげたのだから、日頃、温厚な篤胤もさすがにキレてし まった。

 春海とは、その場で絶交。二度と友誼をむすぶことはなかった。

 篤胤が後年、漢字以前の日本の古代文字(神代文字〜日文/ひふみ)の研究を、熱 心におこなった動機も、このあたりから、すでに確定されていたことがわかる。

◎愛児と弟子

 こうして処女作を書き上げ、走りだした篤胤だったが、天はまたも彼に悲劇の試練 を与える。 

 ひとりで歩けるようになったばかりの愛児・常太郎(一歳三ヶ月)が、重いハシカ にかかり、手厚い看護もむなしく、この世を去ってしまったのだ。

 俗に、子の成長を見守る親の気持ちを、「這えば、立て、立てば、歩めの親心」と いうが、妻子への情ことさらに深かった、篤胤にとって、また妻・織瀬にとっても、 このできごとは悲痛と落胆のきわみだった。

 妻に先立たれたが、やっと平田家にともった子孫の光が、かき消されてしまった養 父・篤穏の悲しみも深かった。  

 不幸は道連れでやってくるとは、よく言われるが、その典型のような出来事が続く 。

 常太郎の死の直後、織瀬の実父・石橋常房も六十数歳で亡くなり、平田家は重苦し い空気に包まれる。

 そんな中、篤胤はあらためて松坂の本居宣長の実子・春庭に、名簿と入門料として 二朱銀を送り、正式な入門を乞うている。(前述の大平は宣長の養嗣子。実子の春庭 は眼が悪かったため大平にゆずったのである)。

 春庭からは、すぐに「今後、わからないこことがあったら、なんでも隔てなく、ご 相談くださいますよう」という意味の丁重な返事をもらい、宣長門下も篤胤の入門を 認めることになった。

 篤胤はさっそく、春庭に例の「夢中入門許可」の絵を送り、そこに春庭自筆の文章 と歌を書きこんでもらい、返送してもらった。 その歌のひとつが、次のものである。

 わたつみの 深き心の かよいてや そこには見えし 人の面影

 意味は「海のように深い(篤胤の)敬慕の心が通じたのだろうか。そこに現れた人の影(宣長の霊のこと)」

 こうして着々と国学者としての地歩を固める篤胤であったが、平田家の経済の逼迫 は常のことで、七十を越えた養父・篤穏は、出仕先の引き留めもあって、いまだご奉 公していた。

 篤胤自身の扶持もさほどではなかったから、収入の多くは養父に負っている。そこ で、申し訳ないと思った篤胤は、いくらかでも家計のたしになればと、弟子をとって 私塾を開くことにする。

 塾の名は「真菅乃屋(ますがのや)」。もちろん、開塾の真の目的は、本居国学の 宣揚と子弟の育成である。処女作『呵妄書』を世に問い、国学者としてはっきり立つ 覚悟ができたと見てよいだろう。

 家塾「真菅乃屋」の最初の門人は、わずかに三人、しかも同じ板倉藩のものばかり 。後に、この私塾は次第に門弟数を増し、「気吹舎(いぶきのや)」と改称して、国 学の門に大を為すことになる。

「真菅乃屋」の最初の門弟数・三人が、約四十年後の篤胤の逝去時(天保一四年・一 八四三年)には、五五三人を数え、さらに没後に入門した没後門人数にいたっては、 逝去から明治九年までの三三年間に、四千二百名を越えるばかりとなった。

 両方合わせれば、四千七百人を上回る弟子が、篤胤を師とあおいだのである。まさ に、幕末にその影響力の甚大だったことが、おしはかられる。

 さて、篤胤は「真菅乃屋」の開塾と、ほぼ同時期に「徳行(五徳)説」という、一 種のパンフレットを作成している。

 これは、尾張藩の藩士で、同じ本居門下の国学者・鈴木朖(すずきあきら)が書い た「徳行五類図」という図譜を、篤胤が増補改訂、つまりアレンジして書き直し、人 の道に必要な徳目を説く教本としたものである。

 内容は、人の践(ふ)みおこなうべき五つの徳・「敬」「義」「仁」「智」「勇」 を、それぞれ説明したもので、これをもって門弟たちへの「教育方針」としたようで ある。

 また同年、改元があって享和四年から文化元年(一八○四)に変わり、篤胤は友人 の堤朝風とともに、宣長の『玉勝間』の解説書ともいうべき『玉かつま道のしるべ』 という本を出している。

 翌年、文化二年早々、長女・千枝子が生まれる。(千枝子は、長じて篤胤の養嗣子 ・鉄胤の妻となっている)。

 このころ、篤胤は和歌の稽古にもうちこんでいるが、もっぱら新古今調の風雅な趣 味的世界を出るものではなく、篤胤自身「むだごと」「つくりうた」と評している。 あくまでも和歌がどういうものか、学ぶために、ためしに歌をつくっていたようだ。

 これまでご紹介してきたように、極端な苦労人である篤胤にとって、平安貴族が生 んだ古今集以降の文学は、なんとも庶民ばなれした現実味のないものに感じられたよ うだ。 

 宣長は、そうした貴族文学の代表である『源氏物語』などをふくんで「もののあは れ」という感性を表現したが、篤胤はそれについては師匠の教えにうなずかなかった 。

 彼は、「もののあはれ」を「ひよわ」としか見なかったし、「武勇の心を卑しめ弱 くする」として儒仏をも非難した。

 篤胤にとって、本来の日本は、神武肇国以来の骨太で底力のある、意志性に満ちた 、いわば今日でいう「縄文」的な国でなければならなかったのである。

第五回:『第一章「苦労人国学者・平田篤胤」(九)&(十)』