第六弾(2):『狂信人間たちの宴』(続)

★3・誇大妄想戦士たちのさびしい後ろ姿

 前項では「戦士症候群」とその類似の症例を、具体的に描写しマニュアル化してみた。 

 しかし、まだまだこんな程度で、彼らのすべてを解剖しおえたわけではない。今までは、「戦士症候群」の側の視点で分析してみた。今度はごくまっとうな普通の人々の視野には、どう映っているかを提示してみたい。

 彼らにどんな分かりやすい特徴があるか、なぜそうなったかをも、合わせて考えながら列挙してゆこう。

《戦士症侯群の若者たちの妄想以外の特徴》

1・よほど親しくなっても、自分の家族・親兄弟・家庭環境などについて、触れ られるのを非常にいやがる。自分から生い立ちや家族についていいだすことは、 まずめったにない。

 なぜなら、そこにこそ彼らを誇大妄想・霊的関係妄想へ走らせた深刻な劣等感 の原因があるからだ。

 彼らは自分の生まれ育ちや、両親・家庭環境を嫌悪し、または憎悪している。 現に筆者が出会い、関わった「戦士症候群」の人たちの八割は、生い立ちや家庭 環境に問題をかかえながら生きてきたという背景を持っていた。

 具体的には、両親が不和で、離婚していたり、別居・死別している例が多い。 また親が創価学会などの宗教に凝っていたり、親の一方が家庭人失格の場合もあ り、普通の家庭ではないケースが目立った。

 おそらく彼らは自覚していないだろうが、生まれ育った家と親ゆえに傷つき、 大事なものが欠落してしまったという「手おくれ」の感覚を醸成してきたはずで ある。それが、成長の過程で、強烈な劣等感となってしまったのだ。筆者の生い 立ちも家庭環境的には似たようなものだから、彼らをむげに責めることはできな いが。

 本来与えられるべき家庭の愛情が得られず、大切な絆を持たずにきてしまった という「喪失感」が、「戦士症候群」ヘと彼らを走らせる。家族の間で持てるは ずだった安心感や連帯感、人間的な絆を、彼らは無意識のうちに取り戻したいの だ。だからこそ、「前世の同志」「魂の仲間」という形を変えた想定のもとで、 失われた人としての確かな絆を得ようとする。そのために、家族・血縁に求めて も得られなかった絆を、彼らは霊的な世界の「同志」「仲間」「前世の因縁のあ る魂の兄弟」に見いだしたいのだ。

 一見、わけのわからない異様な文通募集の手紙文の深層心理には、おおむね今 あげたような背景がある。すべては家庭と教育から、はじまっているのである。

2・家庭環境の不備からくるためか、「戦士症候群」の若者には、しつけが十分 ゆき届いていない人が多い。(もちろん、しつけのなっていない人すべてが「戦 士症候群」になるといっているわけではない)。

 ふだんから幻想や妄想に依存して生きているので、現実的な困難への対処の仕 方が、非常におそまつである。非常時、緊急時には無能となる。それゆえ社会へ の適応能力が、普通の人よりも低い。

 職業は、学生や無職、フリーターだったりするケースがほとんどで、正社員な どの責任をとらねばならない仕事は避けたがる。

 基本的に考え方が子供で、社会や世間の常識をわきまえないことが多く、それ を守る気持ちも薄い。たとえば、年長者や初対面の相手に対する敬意や礼犠が欠 如している。手紙の書き方ひとつとってみても、大半は悪筆を気にすることもな く、下手でもていねいに書こうとする気持ちすらない。

3・彼らの社会性無視、責任回避の性向は、考え方に弾力性がなく、人と誠意を つくして関わろうとしない傾向と合致している。強い劣等感の裏返しとしての、 世間一般への優越感と蔑視が、現実的な根拠もなしに信じられているせいであ る。

 自分は正しくて優れた霊性を持っていると自認しているため、すべての人は自 分の意見を尊重し、従うべきだと信じている。

 まず、自分が世間知らずであることを認めたがらない。ゆえに、それを修正す る努力もしようとはしない。

4・日常的に自意識過剰状態にある。いつも他人や仲間から注目され、尊敬され ていないと気がすまない。あらゆる現象を大げさに考え、自分と妄想関係に結び つける習性がある。そのため、ささいな偶然の一致や、どうでもよいようなシン クロニシティにひどくこだわり、自分への特別な霊的メッセージと思いがちであ る。また、被害者意識の強い場合は、他者の呪いの念、生霊などが、自分を襲っ ていると思いこみ、被害妄想が悪化するケースも少なくない。

(筆者注・シンクロニシティとは、共時性ともいう。心理学者ユングが提唱した 概念。とても偶然とは思えない偶然の一致現象の全般をさす。まったく何の接触 もない、隔絶した地点もしくは複数の人間の間に、同一の現象が起こったりする こと。たとえば、ある人に会いたいと思っていたら、そう思った直後に、その人 に偶然出会ったとか、三人の人間が初対面で白己紹介したら、三人とも同じ生年 月日だったなど、背後に目に見えない何かがありそうだと感じさせる現象)

 これらのシンクロニシティに、霊的なメッセージがある場合もあるが、問題は それを解読する姿勢だ。偶然とは思えない偶然の一致が無言で示すメッセージ は、実は虚心坦懐に受け取らないと、正しく解読できないのだ。

 それにシンクロニシティの黙示・暗合を解読するには、世間の苦楽を味わいな がら、何年も読解の訓練をくりかえす必要がある。それも個人的な運命や行動の 可否についてのメッセージが大半なので、読み取れたからといって人に自慢げに 吹聴したりするようなものではない。

 いってみれば、自分用の預金通帳や内申書、納税申告書の内容を教えてくれる ようなもので、それらがわかったからといって、声高に世間に発表する筋合いの ものではない。

 世間知らずや責任回避、幻想に逃げる人種にとって、オカルティックな現象に かかわるのは、危険なサタニズムの罠にかかるだけだ。

「戦士症候群」の人たちは、シンクロニシティ解読をはじめ、霊がかり神がかり の世界に触れてはならない。ふれれば、オウム真理教の信者や、幸福の科学の信 者たちと同じ路線を行くほかはないのだ。抜け出せない地獄の狂気の迷路におち こむだけである。

 ここで明言しておきたいが、現実のリアルな厳しさと正面から向き合い、乗り 越える苦労をくりかえしたことのないものは、たとえ霊的な世界を理解しようと しても、決して正しく知ることはできない。浮世の喜怒哀楽でしっかり鍛えられ た心の持ち主にのみ、まことの神は、知らぬまに、こっそりと霊の智慧の門を開 いて下さるのである。

5・自分の信じこんでいる霊的な関係や前世キャラクター、思いこみの世界、夢 見ている目標や願望などを、否定されると、感情的に反応する。「それはウソ だ。君の幻想妄想だ」などと指摘しようものなら、ヒステリックで過剰な反応が 返ってくるのはまちがいない。極端な場合、即座に絶交を宣告されるだろう。

 また、自分の弱点や欠点、苦手な部分を指摘されたりすると、とたんに血相が 変わる。自己について、見たくない部分に意識を向けざるをえなくなった場合 も、やはり感情的な熊度が返ってくる。

 仮に、今まで信じてきたことが、幻覚や妄想であると認めざるをえなくなった 場合でも、彼らはまっとうな人生を堅実に築きあげようとはしない。かえって反 故になった妄想のかわりになるものを求める。

 すなわち、手のひらを返し、既存の新宗教やカルトという、ほかの人間と新し い幻想を共有できる場所へと身を移すのである。自分の幻想がこわれても、教祖 や教団という他人のつくった妄想幻覚世界へとすがりついてゆく。

 結局、彼らは、現実にぶつかり、苦労して解決方法をあみだし、責任を果たす という、痛みのともなう人生をひどく恐れているのだ。

「戦士」になりたいなら、この甘くない現実を向こうにまわして格間する、実人 生における戦士になるべきだ。筆者はそう思うのだが、彼らは、幻想に頼ってい るうちに、精神の自立性を失い、虚弱になったのかもしれない。どんなに、誇大 妄想への失望や幻滅をくりかえしても、決して、まっこうから現実に立ち向かお うとは考えないのだ。

6・「戦士症候群」の男女の傾向として、年齢にかかわらず処女や童貞が多い。 性に対する態度が未成熟か過敏、あるいは非常に抑圧的である。もちろん、処女 や童貞のすべてが「戦士症候群」になるというわけではない。

 自分は霊性の高い人問だと決めつけているので、自然な性的関心や欲求まで抑 圧し、潔癖・清浄を気取るケースが多い。また家庭不和の影響のせいか、強い異 性恐怖症が潜在的にある。

 このように、実社会の側から見ると、「戦士症候群」は社会不適応の典型の様 相を呈する。それもこれも、家庭環境の間題と、現今のあやまった民主主義や平 等思想が、彼らから生命力をそいでいるからだ。

 人生を戦いぬく意地や根性をやしなう競争原理を、頭から否定され、戦力を持 てなくされているのだ。学校では鼓争はいけません、差別はだめですと、徹底的 に頭ごなしに教える。ところが、実社会では競争、差別はあたりまえ。

 これでは卒業した後、どうしたらいいのか分からなくなる人間が増えてもおか しくない。ウソでぬりかためられた教育を受けた人間が、ナマの現実にぶつかっ て悩み苦しみ、混乱し不安になる。それを自力で解決できないからこそ、「戦士 症候群」になったり、新宗教の門をたたいたり、勧誘に乗って引きずりこまれた りするのだ。

「戦士症候群」では、自分が主役の妄想劇を演じるのだが、新宗教に入ると、今 度は自分の崇める教祖を主役にすえて新しい妄想劇を演じはじめる。

 おことわりしておくが、ここでいう《新宗教》とは、戦後に結成され、今日ま で続いている新しい宗教法人のほとんどを指す。その古株は、いわゆるかつての 新興宗教。代表的なのは「創価学会」「統一協会」「生長の家」「世界救世教」 「真光教」「真如苑」、またそれらから派生した有象無象の諸派教団など。

 最近の例では、「オウム真理教(現・アレフ)」「阿含宗」「GLA」「法の 華」「幸福の科学」がある。これらは、あくまでも代表例であって、戦後に宗教 法人として認可された団体のみならず、法人申請していない私的な宗教グループ もふくむものである。

 こうした新宗教に入った人間は、自覚せざる洗脳の巣へと巻きこまれてゆく。 「戦士症候群」の傾向や前歴があろうとなかろうと、これから述べるような心理 状態におちいってしまうのだ。

《新宗教・カルトの狂信盲信者の内面》

1・宗教的な話題や精神世界の話、使命や輪廻、過去世、霊能などについて、し ゃべりだすと自分で自分を律することができない。

2・自己の成長のため、また信じて崇める先生(教祖・師)のためなら、どんな に恥ずかしい、愚かしく見えることでも我慢して実行するべきだと思っている。 たとえ、よくわからないことでも、師がやれといえば、やった方が人生のために なると感じている。

3・尊敬する先生のいうことはすべて正しい、非のうちどころがないと、信じて いる。先生の教えは、絶対不変の真理にして真実なのだから、先生は受肉した神 そのものであると、陶酔しながら確信している。

4・先生や組織を信じきれなかったり、疑う気持ちが起こるのは、信じる心がま だ浅く未熟だからだと、思いこむ。教祖や幹部や組織に対する疑念は、悪とみな している。

5・師を非難したり悪くいう人間は、正義と真理に楯つくゆるされざる輩と映 る。先生をくさする者は、まちがったことを言う不逞のやからである。それどこ ろか、この世のゴミか無用の人間、呪いをかけてもかまわない相手に見えてく る。

6・目前の判断力、勘、良心よりも、先生の判断力や良心の方が、ずっとすぐれ ていて正しく的確だと決めつける。なにごとについても、自分の考えより、先生 の判断や価値観を優先させて生きることが、よい人生を送る秘訣だと信じてい る。したがって、師の教えをひたすら守り、ついていって生活してゆけば、人生 はよくなると頭から信じこんでいる。

7・師の教え以外の宗教や思想はいらない。それさえあれば、あとは世界へ伝道 してユートピアを築く活動を押し進めるだけだと、心底から思いこんでいる。

8・師を自分と同じく尊敬し崇めている人たちは、みな仲間で、心をゆるせるに ちがいないと思う。そういう人たちとは、ぜひ会って話をし、ともに伝道と教え の実践生活を送れ、るように導いてあげたいと願っている。

9・先生がいなくなったり、その率いる宗教法人・組織・グループがなくなった ら、世界(または自分の国・社会)は悪くなり、滅びるかもしれないという恐怖 心を持っている。

10・盲信をある一定期間以上続けると、心の奥にひとつの影ができる。「この師 を信じるのをやめたり、組織を脱会したら、何か悪いことが起きるのではない か」という強迫観念である。

 これらの強迫観念を、最初から信者に植えつけて利用する悪質な新宗教も多い が、そうでない新宗教でも、この種の心理は発生する。狂信盲信に、つきものと いってよい。信じる先生や組織を「神」と見なすため、当然、それに逆らった り、背を向けることは「神への反逆」すなわち「悪魔のしわざ」ということにな る。

 宗教に関わるもので、自分を好きこのんで、悪魔の側に置きたがるものはいな い。そのために、強迫観念が必然的に生じるのである。

 現に筆者の身にも、かつて六年にわたり所属していた新宗教GLAを退会した あと、何か悪いことが起きると、「やはり、あそこをやめたために、こうなった のか。自分の方がまちがっていたのだろうか」と、悪魔のささやきのように、あ らぬ妄念がよぎることがあった。

 その理由は簡単だ。崇めたてまつった人物や組織に、自覚できない未練があっ たせいだ。自分では抜け出したつもりでも、まだ意識のすみに、彼らを信じる心 が残っていたのである。

 人の心の難しさがここにある。このかつて所属した団体や、信じた相手への未 練は、新宗教を盲信狂信したあと、そこから抜け出そうとする者には、つきもの の感情だ。これを、ふりきれないと、また舞いもどったり、別の新宗教に逃げ場 を求めたりする。

 今だから断言できるが、信じることや所属することをやめて強迫観念を生むよ うな教えは、まことの神から来るものではない。むしろ、サタニズムの側に属す るか、その汚染の危険がきわめて高い偽真理なのだ。

 この強迫観念の正体は、まことの神ならざる偽神を崇めてしまった反動であ り、当然の報いなのである。

11・狂信盲信の状態にある人間は、以上のような心理を自覚していても、それを 狂信や盲信の状態だとは、露ほども思わない。むしろ、そのような感覚になった ことを「覚醒した」「目から鱗が落ちて、新しい世界が開けた」と感じている。

 つまり、自前の判断力や認識力が、ほとんど麻痺しているのである。これが性 格改造セミナー受講生などにも共通する、まっとうな感性をこわされた洗脳被害 者のパターンである。

12・以上の総合として、典型的なパターンを次に上げる。先生や教祖を、神のご とく崇めているため、先生がどんなにつまらない凡庸なことを言っても、盲信す る者はおおげさに感動し、一喜一慶する。

 教祖が冗談など口走ろうものなら、「神である先生が、われわれ人間のレベル まで降りてきて下さった」と思い、さらなる感動を引き起こす。

 このように、「狂信・盲信」は、先生や幹部の言動に対して、客観的で公平な 第三者的な見方を失わせる。

 彼らが、先生の言葉や動作や文章に、いちいち敏感に反応する様はこっけいで すらある。だれでも知ってる普通の事でも、先生の口から出るとちがって聞こえ てしまう。つまり、「今のお言葉(あるいは行為、文章)には、何か重大で深遠 な、きわめつくせない真理や聖なる意図があるにちがいない」となる。

 はたから見ればつまんないお説教にも、本気で遠大な意味を見いだそうとす る。先生が、たとえ沈黙して何もしなかったとしても、その沈黙や無為にも、何 か重要な意味があり、余人には及びもつかない深謀遠慮がおありになると思って しまうのだ。

 典型的な例では、GLAの最高幹部の口から直接聞いたことばで、「遠大な御 計画」というのがあった。先生がくしゃみをしても、道でけつまづいても、御著 書がどんどんつまらなくなっても、信者の老齢化と若者ばなれが顕著でも、それ もまた「遠大な御計画」の軽視すべからざる一環なのである……。

 なぜ、そうなるのかといえば、「先生のいうことは、ひとつでも多く理解し、 把握しなければならない。それが、自分が悟りに近づいた証拠になる」という強 迫観念があるからだ。「悟り願望亡者」「覚醒願望の亡者」とでもいうべきか。

 先生の言説を、わずかでも不審に思ったり、疑問に感じる瞬間があると、すか さず「自己反省」してしまう。「先生のおっしゃることは、全部がすばらしい真 理に満ちているはずだ。不審感や疑念を抱くとは、なんて不敬なことか。私は未 熟でまだまだ修行が不足している。だから、こんな感情が生まれるのだ」と、自 罰的な想念にひたり、みずからの判断力をひたすら萎縮させてしまう。

 この「反省の名を借りた判断力の萎縮」こそ、マインド・コントロールを容易 にする「被暗示性強化」の原動力だ。それゆえ、教団は労せずして、狂信・盲信 者を引きとめておけるのである。

 ゆきすぎた反省は、反省ではなく盲信である。反省・自戒は、自前の判断力や 理性、批判精神がなくならない程度にしておくべきだ。いくら盲信下の反省をく りかえしても、何の意味もない。せいぜいが教団のいい「カモ」になるだけであ る。

 くどいようだが、以上の観察結果も、筆者自身の恥ずかしい体験から得たデー タである。だから、オウム真理教(現・アレフ)の信者が、なぜあのような悪行 を実践できたか、筆者には少なくとも普通の人よりはよくわかるのだ。

 もちろん、わかるからといって同情しているわけでは、さらさらないが。

 洗脳とは、まことに恐ろしいものである。教祖や幹部が、教団の場で「これか らみなさんを洗脳します」と信者に告げるわけもない。また麻原や統一教会の文 鮮明などはともかく、ほかの新宗教では、教祖も幹部も、意図せずして、信者を 洗脳しているケースも多いのだ。

 ここから導きだされる結論は、無自覚のまま洗脳された人間は、他人をやはり 無自覚のままに洗脳しようとするということだ。愛や慈悲や、聖なる霊性につい て教えるはずの新宗教の場も、このように性格改造セミナーとさほど変わらない 盲信者たちをつくるだけである。

 ここにこそ、もっとも巧妙な形のサタニズムが、だれにも自覚されることなく 蔓延している。

 その教義教理、教えの内容と実態の乖離(かいり)、裏の顔と表の見せかけの はなはだしいギャップは、正常な人としての心性を腐敗させるよう機能してい る。

 自分が師と認めた人物と組織のほかは、家庭・社会・国家について、ほとんど 本気で顧慮しようとしない人種を、新宗教の各宗教法人は増やし続けているの だ。

 もし、読者の中で、新宗教の法人に属しており、この文章に対して「うちの先 生や組織だけは別だ」と思った人がいるなら、まず十中八、九、教祖ごのみ、組 織ごのみのに人間になっている。その反射的な反応そのものが、洗脳済を証して いることを、どうかここで自覚してほしい。

 どんな新宗教の場でも、先生や師の教えを奉じ、毎月のように熟心に機関誌や 機関紙を読み、主宰団体のイベントに参加する人々は、みなが「うちの先生だけ はちがう」と同じことを思っているのだ。百の新宗教があれば、百の数だけそれ ぞれの構成印員が「われわれのところだけは、ホンモノ」と信じているのだ。

 そして、その人々はたいてい、「宗教関係者」「信者」と呼ばれることをきらう。またどの新宗教の内部でも、異口同音にいうのは「うちは宗教じゃありません。真理です。教義教理じゃありません。教えは、生きた真実、普遍の法則そのもので、化石化した既成の宗教や古臭い教理とは、まったくちがうものです」というのである。

 第三者から見れば、まちがいなく宗教であり信者であるのに、「宗教と呼ばれることをきらう」「信者と呼ばれることをきらう」のが、新宗教系団体、またニューエイジ・ムーブメント系諸グループの大きな特徴であることを銘記された い。

 次の章では、いよいよこれらの新宗教を使ったサタニズムの真意に触れ、それを破る方法をお伝えしよう。筆者のあまり口にしたくない体験談も書かねばならぬが、これも世のため人のため……かな。

第七弾(1):『天然主義の日本人』』