第七弾(1):『天然主義の日本人』

第七弾(1):『天然主義の日本人』

★ 1・ニセ天国のニセ救世主から脱出せよ

 本章では、サタニズムを駆逐する方法について、若干の考証を加えたい。が、その前に、ま天然だ残っている狂信盲信についての指摘を、片づけておきたい。

 前章でたっぷり述べたはずだが、たぶん、これだけいっても、まだ洗脳のボケが続いでいる人がいるだろう。狂信盲信というのは、それほど始未におえないものだ。筆者のこの原稿で、彼らの目をさまさせようというのは、睡眠薬を飲みすぎて昏唾状態におちいった人間を、たたき起こそうとするような愚挙であることは、重々、承知の上である。

 だが、やっぱりいっておきたいことがある。自分の盲信に気づかず、筆者の論 を都合のよいように誤解してくれる信者の中には、こんなことをいう人もいるに ちがいない。

「洗脳といわれようが、宗教といわれようが、かまわない。この筆者は、脱落者 であって、ほんとうの真理のよさが分かっていないのだ。洗脳に見えても、それ でもいいじゃないか。真理真実を教えてくれる人物と集いに参画しているのだか ら」と。

 ちょっと待ったと、筆者はいいたい。かつて新宗教GLAの狂信盲信者だった 前歴を持つ筆者は、自己の盲信十年間の体験をかけてとどめを刺して(やるつも りで、言って)あげよう。

 筆者は、特定の新宗教に所属するあなた、先生の言動に一喜一憂している人に 向かっていう。

『あなたが、現在の師と団体、また諸々の新宗教やニューエイジ系の教えにかか わっているかぎり、あなたが本来果たすべき使命は、死ぬまで果たされることは ない。

 あなたは、現在の状況を続ける限り、人生修行、魂の錬磨をなまけている。

 あなたは真理に触れ、人生を学ぶことができると歓喜にふるえているが、それ はまったくまちがっている。

 あなたは、実はまるで目覚めてもいないし、成長もしていない。成長や覚醒の 錯覚に酔い、精神的なオナニーにふけっているだけだ。

 あなたが本当に自分らしく、あるべき使命を果たすためには、特定の先生や団 体に依存することをただちにやめなければならない。

 むしろ、実社会の荒波の中にとびこんで、みずからの心と体をもって、世間の 常識やしがらみや、宗教とは無縁な分野でのシビアな苦労を積みたまえ。そこか ら自分のカで、自分なりの人生マニュアルをつくりだし、それにのっとって生き ることだ。

 それらの体験を通してこそ、まことの使命がはっきりと自覚できるようにな る。使命を果たしたいのなら、まず一から人生マニュアルをつくる試行錯誤を開 始したまえ。きれいごとでも、理屈でもない、清濁あわせ呑む経験、裏も表も見 る経験、苦いも甘いも味わう体験を積む中からしか、本当の使命感、本当の使命 の遂行は現れないものなのだ。

 先生もその主宰団体も、マニュアルづくりはおろか、マニュアルが必要なこと や、だれもが人生の苦労を通してのみ、それを獲得しうるのだとは、決して教え てはくれない。

 いつまでも、先生だの教祖・チャネラーだのが提示する他人のマニュアルに頼 って生きようとするな。人のマニュアルなぞ、持っでいても仕方がないではない か。

 もちろん、先生たちは真理真実といっているが、正体はちがう。そんなものは 普遍の法則の粉飾をほどこした、彼らだけに通用する個人的な人生マニュアルに 過ぎない。

 どんなに普遍的に見えようと、真理真実に感じられようと、そこには必ず先 生・師の個人ゆえのゆがみや限界、錯覚や誤解、あやまちがあるのだ。いわば、 普遍の真理や法則を利用しつつ、伝道用にアレンジしたものこそ、あなたが「教 え」と思っているものの正体なのだ。

 組織や信者集団を維持するためには、教祖や先生というものは、巧妙な嘘をつ くことだっていとわない。中には、『私は、真理がこの世に広がるためなら、こ の組織や園体がなくなってもかまわない。こういう組織の形は、なくてもよいの だ』という先生もいるだろう。

 だが、それは嘘だ。かっこつけて見せているにすぎない。本当は信者に去られ て丸裸になることを、だれよりも恐れている。だから、団体に所属する会員(信 者)たちに、かっこうのいい情けぶかそうな、いかにも人生の真髄をつかんだか のようなポーズをとるのだ。それもこれも、主宰団体の維持のためである。会員 たちはダシにされているのだ。

 こうして頭から信じこんでいる者たちに、保身のための嘘をつくような人種の 『真理』が何になろう。旧新約聖書でも、こういった『先生』連中のことを『ニ セ救世主』『ニセ預言者』『ニセ教師』などと呼び、もっとも罪深い連中として 描写している。

 だから、その『教え』は、あなたにとっては何の役にも立たない無用のもので ある。そんな役にも立たないものを後生大事に、普遍の真理とあがめたてまつっ ているから、人生修行と魂の練磨をなまけ、貴重な時間を無駄にしているという のだ。

 ではどうすれば、自分だけの人生マニュアルづくりにとりかかれるのか、その 基本姿勢だけなら、私のような若輩ものでも、ちょっとだけヒントを差し上げら れる。つまり……」 と、心ならずも説教調になってしまい、お恥ずかしい限り である。なんだ、いいところでやめやがって、と思われたかもしれないが、続き はここに記しますので御安心を。

 これを実践すれば、本人の洗脳がとけるばかりではない。洗脳と無縁な人も、 この生きかたを基本に置けば、洗脳された人間を真人間にするカを得ることも夢 ではない。

《狂信盲信から脱却し、自立する方法》

1・自分で自分を律する習慣をつける努力を続ける。衝動や感情に流されず、抑 制し冷静になるすべを学ぶ。自己管理能力の高低は、自分の責任しだいというこ とである。

2・いかなる人物にも盲従はしない。どんなに辛く寂しい状態でも、他人に判断 基準をゆだねない。助言や忠告、参考意見はとりいれても、最終的には自分で考 え、五感を働かせて判断し、ものごとを決定する。

3・特定の人物に盲従・盲信している人間(組織・集団なども含む)との接触 は、できるだけ避ける。どうしても接触せねばならない場合でも、相手がどのよ うな人種なのか充分な自覚と認識をもって応対する。

4・自他の受け売りについては慎重な態度をとるようつとめる。あやしい場合 は、些細なことでも裏をとる習慣をつける。

5・人間社会で起こるほとんどの現象は、事実のつみかさねの結果、または過程 であることを自覚すること。事実とデータをつみかさね、裏付けと検証の結果 を、ものごとの判断材料の中心にすえること。

 たとえば、その結果、尊敬していた人物が、真っ赤なにせものだと分かったと しても、その事実を受け入れる強さが必要である。感情がどんなに裏切りに傷つ き、血を流そうとも、結果として現れた事実を尊重し、現実に即して行動するこ と。

 たったこれだけのことなのだが、これに気づくまで大変な苦労を要した。

 というのも、筆者は、前述したように、長い間にわたって狂信妄信におちい り、そのあげく、みずからが先生とあがめた人物とその組織に幻滅した。その結 果、それまで真理や真実、倫理、道徳、正義などについて信じてきたことが崩壊 するという、非常な精神的危機にみまわれた。

 表面的には、どの新宗教も愛や慈悲や真理を説く。だから、それにまっすぐに 感動してうのみにした者は、それが偽善だと知ったとき、とほうもない絶望、失 望、幻滅にあえぐことになる。

 筆者もそうだった。小説を書くかたわら、自分が救世主とあがめた人物、世を 救う団体と信じた人たちの真の姿に、激しく傷ついたのだ。その幻滅と失望の悲 哀は、とんでもなく深かった。

 最悪の苦悩は、三年あまりにおよび、その間、アルコール依存症になりかけ、 何度も自殺の誘惑を感じたほどである。

 それは、一種の深刻な失恋といってよい。今まで理想の女性、女神と崇めた女 が、実はとんでもない女だったと知ったときの絶望と苦悩である。狂信妄信と は、実は形を変えた恋愛感情の一種なのだ。

 惚れた目でみりゃ、あばたもエクボというのは、信者の教祖に対する感情にも 当てはまる。麻原彰晃も、オウムの信者の目には、生き仏に見えたはずだ。信者 たちは、まごうことなく、輝かしい黄金のオーラに包まれているのを、感動の涙 とともに見たはずなのだ。

★ 2・宗教失恋の末路

 あのヒゲ面のきたならしいオッサンが、信者にはなぜ黄金の光の化身のごとく 見えるのか。ここで、その種あかしをしよう。

 まず第一には、麻原に憑依した魔物の類が、それっぽいメッキの金色オーラを 放って眩惑したということ。これは、憑依の魔によってよく使われる手だ。霊光 にも、ニセの霊光があるので注意が必要である。

 またもうひとつ、大事な点がある。それは麻原を鏡がわりにして、信者のひと りひとりが、自分の内部にある美しい黄金の光を映して見ていたということだ。

 筆者もこの「理想像の第三者への投射・転嫁」をさんざんやらかして、アバタ をエクボにしまくったのでよくわかる。

 つまり、自分の理想像を投射する対象の人物が、どんな人間であろうと、人の 形をした、鏡の役目さえ果してくれればよいわけである。鏡になる者の人格・品 性・度量などまったく関係ない。

 信者たちは、自分の内部にあるものを、他人の姿に投射して映し、われとわが 魂の光であるとも知らず、感激して涙にむせんでいたのだ。まるで、水鏡に映っ た自分の姿に惚れて、そのまま水仙の花になってしまった、ギリシャ神話のナル キッソスである。ちなみに、自己陶酔=ナルシズムという言葉は、この美青年の 神話に由来する。

 また新宗教の集会の場などで、やはり不思議な明るく優しい光が、頭上から降 ってくるのを、人によっては感じたりもする。これも全然、特別なことではな い。その清らかで温かい光は、何も新宗教の集会の場にだけ降ってくるものでは ない。今、この瞬間にも、全世界のあらゆる場所に、あらゆる人の頭上に、昼夜 季節の別なく、常に降り注いでいる神霊の光なのだ。

 だから、かりに新宗教の講演会などの場で、黄金の光が見えたとしても、何も 驚くに値しない。あらゆる場所に、金色の霊光は普適的に存在しているのであ る。ふつうは、ほとんどの人が気づかないで過ごしているが、新宗教の場などの ように、霊的なことに関心が高く、意識が集中しやすい状態では、だれでもその 光が見えやすくなるものなのだ。ただそれだけのことなのである。

 はっきりいって、職業的な霊能者、自称霊能者は、この世の人心をまどわす有 害無益な存在である。なぜなら、霊覚・霊能といったものは、霊能者の専売特許 などではないからだ。もちろん、無名だがまっとうな霊能者も、地方などでは探 せばわりと存在する。

 そういった正しい霊能者というのは、人なみはずれた苦労人が多く、またなに ごとも控えめで、金品を要求することはない。義理人情に厚く、しかも無欲、人 柄もごくごく普通の田舎のおじさん、おばさんといった感じなのである。

 それに、霊能者でなくとも、幽霊や霊的な存在を察知し、見たり聞いたり感じ たりする人は、驚くほど多くいるものである。読者のみなさんの身近にも、そう いう敏感な普通人が、かならず一人や二人いるはずだ。

 そういう能力を自覚できず、ごくごく平凡に幕らす人もふくめたら、半分以上 の人間が霊能者になってしまうだろう。

 霊能をひけらかし、先生でございと金品や名誉を欲する人間と、同じ能力をも ちながら、つつましく奥床しく普通に暮らす人と、どちらが徳の高い人間か、い うまでもないだろう。

 世に出る霊能者とは、ほとんどの場合、老若男女・地位名誉を問わず、イコー ル問題児、杜会不適応の傾向大とみてよい。麻薬取締法違反で逮捕された有名出 版社の元社長などが、その好例である。

 強い霊能があっても、嫌われうとんぜられる人間は、実に多い。逆に、徳があ る者で、人から忌避され孤独におちいる例はない。霊能より徳が大事である。孔 子も『論語』の中で、「目に見えない存在に頼る前に、まず人としてなすべきこ とを果たしなさい」と告げている。人の道すら踏んで守れないものが、霊の道や 神の道に触れようなどと、おこがましいにも程があるというわけだ。

 とにかく霊能の有無より、これまで述べた宗教的な失恋の問題の方が重大だ。 のめりこんで惚れた先生や師に幻滅してしまった心の傷は、霊能なんぞに癒せる しろものではないのだ。見えたり見えなかったりする霊光よりも、そっちの方が よっぼど切実である。

 先にも述べた通り、筆者もその宗教的な失恋を経験し、はなはだしい苦しみを 味わった。その体験の中で、もっとも危なかったのは、愛や慈悲や信という言葉 への信頼が壊れたことだった。

 それをきっかけに、一般的な普通の意味の愛や慈悲、美徳、真理に対しても、 疑念と不信の目を向けるようになったのである。つまり、正しく健全に生きよう とするまっとうな努力に、激しい失意と幻滅を感じてしまったのだ。

 きのうまで真・善・美と信じてきたことで傷つけられたため、それらの言葉自 体に虚しさを覚えるという、とてつもない闇が襲いかかってきたのである。すな わち、善や美徳や愛という概念も、盲信した教祖が語ったことと同じであるゆえ に、幻滅の対象となったのだ。

 頭から信じて、しかも長い間、心のささえにしてきた事柄が、すべて偽善の虚 説であると分かってしまったから、さあ大変。いったい何を支えに、何を信じて 生きればよいのか、背骨を失ったも同然の危機だった。信じるべき善の基準がな くなり、あとは闇と悪と不信・猜疑だけが残ってしまいそうだったのだ。

 さいわいこれまで長々と説明してきたロックやタロットなどの最悪のサタニズ ムは卒業ずみだったので、そこには走らずにすんだ。もし、それらの体験がなか ったら、今ごろ悪魔派の作家にくらがえしていたかもしれない。

 とにかく、きれいにお化粧した先生の告げる愛や慈悲や真理が、嘘だったとわ かったとき、ほかの人間が告げる理想の言葉まで、信じられなくなったのだ。羹 (あつもの・舌をやけどしそうな熱い煮物)に懲りて膾(なます・刺し身など、 鳥獣魚介の生肉を刻んだ料理)を吹く(さますために息をふきかける)というや つである。ロシアのことわざにも、「ミルク(の熱さ)に懲りて水を吹く」とい うのがある。

 つまり、愛や慈悲や美徳を信じようとする行為そのものが、トラウマになって しまったというわけだ。人を信じる、人を愛する、人としての道を求めるという 態度そのものが、信じた人間に裏切られた痛みとうらみのせいで信じられなくな ったのだ。

 この美徳や信への不信と否定的感情の発生こそ、あらゆる新宗教にしかけられ た、見えざるサタニズムの巧妙な罠である。新宗教の真理の仮面をかぶった偽善 を信じこませ、手ひどく傷つけ、失意と幻滅を与える。

 あげくの果てには、人としてあるべき愛や美徳や、義務感、責任感、向上心に まで不信感を植えつける。まっとうな意味での求道心や、正しい使命感まで、グ レさせ、ひねくれさせてしまうのだ。

 このように、悪しき存在は、目に見えない形で、新宗教の団体や指導者を媒介 に、人間どうしの愛や信や徳義に、不信感、猜疑心を抱くよう仕向けているので ある。

 それを罠とも知らず、筆者は心に絶望の叫びを上げた。「この世に善も愛も信 も、神の真実もあるものか、あるのは嘘と偽りと裏切りばかりだ。もう何も信じ られない!」

 まるで思春期の傷口が再び開いて、とめどなく血を流したかのようだった。は っきりいって、大バカである。信じるに値しないものを信じて、裏切られるのは 当たり前ではないか。信じた方も愚かなのだ。

 信じるに値するものは、自分の血と汗と涙と、時間と金をかけて探すしかな い。一粒の真珠を得るために、真珠取りは海底にもぐり、窒息死の危険を侵しな がら戻ってくる。山師は、ひとつかみの砂金を取るために、その何万倍もの土砂 を山から掘って運び、川で洗い流さなければならない。

 また、そうした努力の果てに発見したものでなければ、人生のバックボーンと はなりえない。オウムの信者たちの最大の欠点はここにあるのだ。真理真実は真 珠や砂金のようなものだ。それは、実在するけれども、入手するにはとほうもな い努力と熱意と根性がいる。

 浜辺に真珠がころがっているわけもなく、川底に黄金の延べ板が沈んでいるは ずもないのだ。そんなことも知らない大半の新宗教の信者は、ひとつの教団に幻 滅すると、その苦しみに耐えられず、別の似たような教団へと籍を移す。そし て、同じことを何度もくりかえし、複数の教団の間を渡り歩く。筆者はこれを 「宗教ジプシー・宗教渡り鳥」と名付けている。

 だが、筆者はさすがに、そういうことまではできなかった。もう先生だの宗教 法人だのはこりごりだった。そのかわり、筆者は絶望の冷たい涙を流しながら も、手さぐりで裏切らないものを求めはじめた。その幻滅と失意の底から、ふて ぶてしい笑いとともに復活したので、今こうしてこんな原稿が書けるわけであ る。ふっふっふっ……。

 とはいうものの、その後、数年の苦しみは筆舌に尽くしがたかったし、記すと 長くなるのではしょるのを、お許しいただきたい。

 結果は、現在のところ、日本の神道をはじめ、戦後否定されたさまざまな事柄 への信頼を回復するところに来ている。日本国民として当然といえば当然なのだ が、その当然のことが、これまで視野に入っていなかったのである。

 筆者は自分自身に問うてみた。「何も信じられない」と叫ぶが、自分は一度で も日本古来の神々や、明治以前の国内の聖人賢哲たちに学び、尊崇の念を抱いた ことがあるだろうか。神々や国旗に向かって頭を深々と下げたことがあるだろう か。自分の生まれた国家そのものに、頭を下げて感謝したことが、いつあるだろ うかと。

 その結果、教祖や先生に頭を下げる前に、まず日本国の固有の文化を学びなお す必要があると痛感した。そうした失われた知識を獲得し、諸外国の事情と比較 した上で、王室である皇室や先人たちに対し、あらためて頭を下げるべきではな いか。やっと、そこに気づいたのである。

 とにかく、『古事記』『日本書紀』はおろか、天皇家の歴史、中国・東洋の古 典的な聖賢についても、不勉強きわまりない状態である。日本人なのに、ユダヤ や聖書についてだけ、とても詳しいというのは恥とせねばなるまい。

 勉強中なので、結論というわけではないのだが、天皇についてもひとつの見解 を持つにいたった。その存在を、日本国の「大神官長・最高祭司」とみなす見方 だ。そこから導き出される背景のひとつとして、日本は国土全体を「境内」とす る「神社国家」であると、筆者は思っている。

 オーバーな言い方をするなら、日本は本来、「国家」そのものが「超大神宮」 としてあった場所なのではないか。

 誤解されては困るが、これは戦後左翼が悪意をもって解釈した「軍国主義」を 主張するものではない(つまり、正しい解釈による本来の「軍国主義」があると いうことだ)。

 本居宣長や平田篤胤などの神道家や研究家たちの本を読めばわかるが、終戦以 降、一般に流布された「神国日本=おろかで野蛮な軍国主義の正当化の論」とい う評価は、無知な左翼思想家たちの盲信の結果といってよい。

 戦前の庶民の血肉となった国家観とは、まるでことなるのだ。比叡山の僧兵や 一向宗の信徒とちがい、日本超大神宮の氏子たる日本兵が、他国の領土を舞台に ドンパチやったのは、そうせざるをえない追いつめられた状況にあったからだ。

 固有の領土、列島とその周辺の島嶼という「境内・縄張り」だけを守るための 軍備で済めば、それにこしたことはなかっただろう。しかし、当時はそうしたく てもできなかったし、欧米から日本への全面的輸出禁止という措置をとられて は、石油やゴムや鉱石などの基本的な資源を、アジア圏に求めるしかなかった。

 ところが、そこには、すでに欧米に植民地化されたアジアがあり、日本が近代 国家として生き延びるためには、欧米に支配された植民地のアジアを解放し、そ の上で資源調遠をする以外に道はなかったのだ。

 これは、当時の資料やいわゆる「東京裁判(極東軍事裁判)」に提出されなが ら却下された弁護資料などにくわしく載っている。

 もちろん、終戦前の軍部(特に陸軍)の中には、唐の二代名君・太宗と家臣の 会話を記した東洋屈指の帝王学『貞観政要(じょうがんせいよう)』が頭にあっ た人も多くあっただろう。大帝国・唐の基礎を築いた太宗は、「兵は凶器なり」 と喝破している。戦争という行為そのものが、国と民のカを疲弊させ、国家滅亡 の少なからぬ原因になると指摘している。

 そうとわかってはいても、覚悟の開戦を「せざるをえなかった」という側面を 忘れてはならないのだ。筆者は、日本が戦争したことが悪いとは思わないし、今 あげたように、歴史の趨勢上、どうしてもそうせざるを得なかった事情も知って いる。「神国日本」という精神主義的な気力がなければ、物量で圧倒的な米軍に 抗しえなかったことも分かる。

 当時の欧米列強の過酷なアジア植民地支配に対し、反旗をひるがえし、売られ た戦争を買って挑んだ黄色人国家は日本だけである。極東における黄色人種の発 展と拡大を恐れた白人勢力にしかけられ、罠にはめられ、戦争せざるをえないよ う、追いつめられたのだ。

 日本が戦争して悪かったというなら、まずそういう状態に追い込んだ欧米白人 権力層を責めるべきだと、筆者は主張したい。

 近代戦争の歴史を公平な目で調べれば、どう見ても日本が極悪非道の侵略軍事 国家だったなどという結論は、出てくるはずがないのだ。ましてや、日本だけが 一方的にあくどいまちがった戦争をしたなどという説は、事実に反する。

 第二次世界大戦は、アジア・太平洋域においては、あきらかに白人対黄色人種 の人種間戦争だったのである。

 それにしても、日本は不思議だ。あれだけの大敗を喫しながら、ハワイのよう に名実ともに属州化されることがなかった。皇室は存続しているし、おまけに欧 米巨大財閥層に利用されたとはいえ、驚異的な経済発展を遂げてきた。

 もし、私がユダヤ・エリートの人間だったら、敗戦直後にまず皇室を撤廃し、 ハワイに次ぐ属州にした方がてっとり早いと思ったはずだ。

 なぜ、彼らは日本に対して、そうしなかったのか。一説には、「天皇廃止」を 宣告した場合、日本人全員がゲリラ化するおそれがあったという。その場合、ア メリカ軍はよりいっそう大量の兵員を投入せざるをえなくなり、アメリカの国力 そのものが危機に瀕するという試算がでたらしい。

 そこで、アメリカは「皇室は存続させるが、弱体化させる」という方策にきり かえたという。そのひとつが、今上陛下の皇太子時代(中学時代)にアメリカの バイニング婦人による「英語教育」であったとか、クリスチャンの正田美智子さ ん(現・皇后)との結婚だったとか、今にいたるもいろいろ言われている。

 ついでに言うなら、日本の本当の呼称は、「ニホン」ではなく「ヤマト」らし い。北畠親房(一二九三〜一三五四没)の『神皇正統記』の冒頭にも、そう書い てある。ちなみに「大日本(おおやまと)は神国なり」という記述が書き出しな ので、興味のある方は参照されたい。

 かつて、アメリカに媚を売って、「日本列島不沈空母論」を唱えた首相がいた が、一億国民を乗せた国土を空母にたとえるとは、とんでもない総理もいたもの である。噂によると、ユダヤ・エリートの走狗だそうで。

 というのも、ある人から、こんな話を聞いたことがあるからだ。

 彼の総理時代に、ユダヤの陰謀の警告者として有名な宇野正美の本が発売され た。そのとき、発行元の出版社の社長のもとヘ、一本の電話がかかってきたとい う。

 かけてきたのは、総理秘書。内容は「あんな本を発行してもらっては困る。た だちに発売をとりやめてほしい」ということだったらしい。

 その元首相が、最近では「このままでは日本が滅びる」と正義面しているというのだから、口から飯が噴き出すというものである。

第七弾(2):『天然主義の日本人』(続)