第七弾(2):『天然主義の日本人』(続)

第七弾(2):『天然主義の日本人』(続)

★ 3・悪魔崇拝VS神まつり

 近世〜近代神道や古神道について、勉強しはじめてから気がついたことがあ る。現代の新宗教の「神道・儒教ぎらい」である。

 たとえば、大本・天理などの教派神道系をのぞき、それ以外の新宗教のほとんどが、キリスト教や仏教の教義教理をモチーフにすえている。

 筆者が所属したGLAもその傾向が強かった。特に創立者たる教祖・高橋信次が釈迦に強く傾倒し、自分は釈迦の生まれ変わりだと信じていた位である。また戦争に出征した体験からか、儒教もきらいだといっていたほどだ。

 高橋は、異言(グロソラリアまたはタンギュス、いずれも原義は"舌"。未知の言語が口から吹き出す現象)や悪霊祓いなどの、突出した霊能の大家ではあった。だが、晩年に二十歳そこそこの娘・佳子を、大天使ミカエルとして後継者に立てたあたりで、調子が狂ってしまったようだ。

 彼にしてからが、戦前の神道や儒教に関することは、おくびにも出さないようにしていた。天皇について語ったことで覚えているのは、次のような突拍子もない内容だけである。

 晩年いわく、高橋の霊的本体はエホバやアッラーやカンターレ(あかんたれ、ではない)と呼ばれ、天界では神に等しい最高指導霊であると主張。そこで、何十年か前に、昭和天皇となるべき魂を呼び、「きみ、ちょっと地上界に転生して、今回、天皇の役目を果してくれないかね」と依頼(というか命令)したというのである。

 信者たちは、本気にしていたが、はっきりいって誇大妄想、ここにきわまれりである。娘を大天使にまつり上げんがために、信者たちの手前、神を演じなければならなかったのか。

 余命いくばくもない切迫した状況下、娘を持ち上げるだけ持ち上げ、残った幹 部や信者たちに、娘中心の体制で教団の後事を託すつもりだったのかもしれな い。

 筆者の聞いた耳を疑うような話は、こればかりではない。たとえば、GLAの 会員になると、六代前の先祖まで救われるとか、車に乗っていた高橋信次氏のと ころへ天理教の教祖・中山みきさんの霊が現れて、涙ながらに「今の天理教はダ メになってしまったから、あなたが本来の姿に戻してほしい」と懇願したとか、 天理教のことを知らない人がきいたら、まちがって本気にしてしまうような話も あった。

 また、チャールトン・ヘストン主演の大作『ベン・ハー』は、実は天上界が、 高橋信次に使命を自覚させるために制作した映画だが、彼は結局それを見ること がなかった・…・などなど、限りなく妄想に近い「逸話」も、古株信者から聞か された覚えがある。

 もちろん、高橋信次という人は、決して悪人ではないし、欲深でもなかった点 で、他の新宗教の教祖たちといっしょにすることはできない。

 聞くところによると、長野のいわゆる被差別の出身らしく、非常に辛い差別経 験から宗教的な情操を育てあげた苦労人でもある。現実に電機メーカーの社長だ ったし、ビルを建てるほど業績を上げた。その上、「宗教で飯は食いません」と 断言し、大きな霊能と、謙虚で気さくな人柄で、多くの信者に愛された。

 GLA自体も最盛期には、信者十万を数えるばかりとなり、先発の大規模な新 宗教団体をおびやかす勢いだったという。それがこの晩年である。娘かわいさの 父の愛情だとしたら、あまりにも哀しすぎるではないか。どうころんでも、霊能 者や教祖など、やるものではない。

 ミカエルに擬せられた二代目教祖・佳子については、筆者が「失恋」した相手 だといえば、もう余計なことを語る必要はあるまい。

 ちなみに、テレビ司会者の関口宏は、夫婦でこの佳子の信者である。『知って るつもり』のエンディングタイトルに、佳子の個人的な機関の名が出たことがあ る。だいぶ前に「チャップリン」の回があったときなど、あまりのことにおった まげた。

 佳子がGLAで提唱している教義を、関口が番組の中で、わざわざフリップに した上、得々と解説していたのである。また関口の担当番組に「女神の天秤』と いう、『知ってるつもり』の犯罪者版が放映されていたことがある。このネーミ ングもまた、高橋佳子信者の証と見られる。なんとなれば、善悪の裁きをなす天 秤を持つのは、西洋では大天使ミカエルと相場が決まっているからである。

 『女神の天秤』の女神とは、大天使ミカエル高橋佳子の暗喩だと感じるのは、 考えすぎだろうか。そうでなくとも関口は、番組スタッフにも、高楕信次や佳子 の著書を、熱心にすすめるという話だから、やれやれといったところである。芸 能人であろうとなかろうと、これだから盲信狂信者はうっとうしいのだ。

 こういった盲信行為をさらに拡大した教団がある。『幸福の科学』である。こ の「天皇陛下より偉い」GLA教祖の生前の活動や言動を、受け売りし模倣しま くって、一教団を立ち上げて世間を騒がせたのが、主宰の太川隆法(本名・中川 隆)なのだ。

 この中川くんの父親が、実は高橋信次の熱心な元信者。これまた、善川三朗と いうペンネームで霊言本をけっこう書いている。この親子が、後発ながら、高橋 信次の生前の著書をもとネタに、質の悪いふくらし粉をどっさり入れて霊言集を 出版し、まねしまくってきたわけである。

 まるで、化学調味料で水増しした粗悪な覚醒剤にもたとえられよう。むろん、 「魂の覚醒」剤だと主張するかもしれないが、残念ながら限りなくインチキくさ いという点はゆずれない。

 前述した高橋信次の「カンターレ」説を、そっくり踏襲し、自分は現代の釈迦 だのエル・カンターレだのと、オリジナリティ皆無のほらを吹いている。ほらが 悪いとはいわないが、どうせ吹くなら、自前のほらを吹いてほしいものだ。

 これらの経緯そのものが、非神道系の新宗教団体の越えようにも越えられない 限界を示している。筆者は、これまで述べてきたように、二−チェイズム、マル キシズム、オカルティズム、性格改造セミナー、新宗教と、十代後半から、二十 年近く、日本のサタニズム畑の縁を渡り歩いてきた。そのあげく、次のことだけ は確信している。

 戦後日本を席巻したサタニズムに影響された者たちは、皇室支持はおろか、神 道や儒教など、戦前の道徳観念を排撃してやまなかった。これは逆に、敵が何を 苦手とし、警戒しているかを無言のうちに物語ってくれる。

 サタニストは、神道や儒教などの武士道の根幹に関わる道徳律が、大きらいだ とわかるのだ。つまり、明治維新以前からあった神道と、そこから派生した日本 化した儒教〜武士道的精神が、サタニストにとって天敵らしいと透けて見えるわ けだ。

 ここから、サタニズムのはびこる原因についてはっきり言えることがある。こ れは大切なことなので、よく目を見開いてしっかり読んでほしい。

 これまで述べた「戦士症候群」や、性格改造セミナー、新宗教の蔓延の根本的 な土壌は、なにゆえに生まれたか。

 結論からいおう。それは、日本人がおおっぴらに皇室や神道、戦前の価値観へ の信頼を表明できなくなったからだ。そのときから、日本人はサタニズムヘの抵 抗力を、みるまに失ってしまったのである。

 天皇や神道・武士道について言及するのに、なんとなく肩身が狭くなると同時 に、戦後目本の教育界から「神道」「儒教」が、影も形もなくなった。そのこと こそが、今日の日本の家庭と教育の荒廃の開始の象徴的な現象だったのだ。

「敬神」「崇祖(祖先を敬うこと)」「祖国愛」この三つの感情は、国や民族を 問わず、人間としてあるべき自然なものだ。それを育てそこなったからこそ、若 者たちは苦しみ、漂流し、過去の筆者のように、サタニズムの貫にかかって狂っ てしまう。

 国とそれを体現する存在を愛することは、同時にその背景にまします、国の 神々をあおぐことだ。生まれた国を愛して大事にすることは、その国を統治する 神々を信じ愛することと同義なのだ。その心が失われて久しく、日本は今日、目 を覆うばかりの惨状に至っている。

 神道・儒教・武士道は、日本国の秩序の根本である。それを否定したら、その 先の幹や枝葉に当たる、政府や国民生活という秩序が枯れてしまう。天皇につい ても、筆者はここで、あえて「天皇制」という言葉を使うことは避けようと思 う。それは西洋の「王制」と対比してつくられた用語だからだ。

 天皇の存在は、制度というような人工的な枠組では、把握することも理解する こともできない。「天皇」という称号そのものは、聖徳太子ありし日の推古天皇 (五九二〜六二八年在位)時代から始まっている。それまでは「大王(おおき み)」と呼ばれていたらしい。

 呼称はともかく、日本の天皇と外国の王とは、成り立ちや由来、またその伝統 の古さ、朝廷の安定度からいって、同じ最高位に座する存在でありながら、その 内実が大きくなる。

 その最も大きな特色は、戦前までの社会構造に見られる。天皇を頂点とする階 層構造、すなわち「君・臣・民」の国家的秩序が、そのまま国民の各家庭の「父・子・孫」の構造に、違和感なくスライドしてきた点だ。

 日本人は古来、そのような形で、長く秩序体系を保ってきたのである。むろ ん、天皇家の中でも、幾度か王朝の交代があり、南北朝のように分裂したこともあった。しかし、海外の諸帝・諸王朝に比べれば、まるでお話にならないくらい、小規模でおさまりが早く、しかも内輪ゲンカに近い感覚なのだ。はっきりいって、外国の王朝交代劇と日本の天皇象のいざこざは、ヤクザの組どうしの抗争と、子供の兄弟ゲンカほども差がある。

 天皇、および皇室とは何か、いかなる存在かといえば、議論百出のところだ が、ここで筆者も一仮説を提示したい。『天皇家と日本の各家庭は、もともと何 か見えない無数の縁の糸でつながっている』というものだ。

 血縁関係(たとえどんなに薄いものでも)もふくめ、ある種の霊的・運命的な 縁が、日本人の各家庭と、本宗家としての皇室との間に存在する節が見られる。 皇室という、日本で唯一の王家の家庭と、無数の日本の一般の家庭とは、一対多 の関係で、見えざる無自覚な、けれど断ち切りがたい、超大家族の縁でつながっ ているのではないか。どうも、それが本当のところらしいと、思わざるをえな い。

 今ではすっかり見失われてしまったが、王家を頂点にいただきながらも、日本 の階級構造は特異だった。そこには、海外のような「王家=支配者、庶民=被支 配者」という、冷たく過酷な対立の構図はない。

 その証拠に、百姓一揆などの形で、庶民が爆発することはあっても、それが 「王家を倒せ」というフランス革命さながらの事態になったことは一度もない。 敵対しないのだから、階級闘争など、起こりようがないのである。

 ところが、進歩的知識人を自認する退化した日本人学者・評論家たちは、いま だに皇室や戦前の価値観を否定することが、かっこよく知的なことだと見るむき がある。はたで見ていると、その十年一日の態度に、ばかばかしささえ覚えてし まう。

 筆者は、彼らのことを本気で心配しているのだ。このままでは、彼らは現代の 激変についてゆけないだろう。年功序列・終身雇用制は崩壊、家族主義的な企業 形態が、政府の庇護のもとに繁栄できた時代は、とっくに終わっている。一部上 場の金融機関がばたばた倒れてゆく時代なのだ。いつまで、過去の高度経済成長 の頃の学生運動まがいをやっているのかといいたい。

 屋根に上がって、「いい見晴らしだ」なんていってるうちに、ハシゴをはずさ れてしまった事を、いったい彼らのどれだけが自覚していることやら。変節する なり改心するなら、今のうちである。

 これからの時代は、洞が峠を決めこむ日和見は通用しない。日和見=死という とてつもなく過酷な状況が当たり前になるからだ。いくら財布をさかさにふって も、ホコリやゴミくずしか出てこないという時代が、すぐそこまで迫っているの である。

 彼ら進歩的知識人が、ほんとうに進歩的なら、この経済の氷河期の到来をだれ よりも早期に察知し、警告できたはずだ。でも、それができたのは宇野正美や広 瀬隆ぐらいだった。

 大半のいわゆる知識人のいうことを、筆者はだから信用しない。彼らのいうこ とを真に受けたら、今後のサバイバルに重大な障害を生じ、足をひっぱられる恐 れがある。したがって、彼らの唱える歴史的な通説についても、信頼をおくこと はできない。危機の時代には、正しい情報と体験的な知識が武器になる。嘘を信 じこまされたら、死に直結するのである。

 そんな彼らのいう「支配・被支配」の構図も、海外の王家と庶民の関係につい てなら、確かに当てはまる。だが、日本の場合は、いささか歴史的な事情が異な る。たとえば、実権を武家政権に奪われてからというもの、皇室が明治になるま で、どんなに貧乏だったか。調べてみればすぐわかる。

 こんなに長期に渡って貧乏、なおかつその地位を保ち続けたエンペラーは、世 界史上、類を見ない。お隣の中国でもそうだが、諸外国では、実権を失った帝王 は、家族・親戚・縁者まるごと、九族まで抹殺される、というようなことがあっ た。

 日本ではそうはならなかった。あの織田信長でさえ、京都におしよせて皇位を のっとりはしなかった。大宅壮一が『実録・天皇記』で書いていたと思うが、バ クチに欠かせぬ「花礼」の図案は、落魄した公家たちが、金に困ったあげく、頼 まれてにわか絵師となって書いたものらしい。百人一首などから題材をとったと いうが、たしかにあれの図柄はお世辞にもセンスがあるとはいいがたい。

 お公家さんでさえ、たいていこれほど貧しかった。宗家の天皇家も、台所事情 は決して楽ではなかったのだ。諸外国なら、人民が飢えようが、暴動が起きよう が、王族は自分たちだけ賛沢ざんまいにふけり、苛斂誅求(かれんちゅうきゅ う)の限りをつくしたはずだ。

 暴君ネロとまでいかずとも、世界史上、ろくでなしの君主にはことかかない。 小物でも、ルーマニアのチャウシェスクや、フィリピンのマルコスのレベルな ら、はいて捨てるほどいる。このような歴史的な差異が、進歩したつもりの退化 日本人の学者たちに、なぜ分からないのか、不思議でならない。

 なにより、嘘いつわり、でたらめのサタニズム学説にあざむかれ、てのひらの 上で踊っている論壇諸君のことだ。どこも知的ではないし、自慢げに披露するお 説のどれをとっても、粋でかっこいい側面などまるでない。

 彼らが至高の真理とする「民主主義」のありさまひとつとって見るがいい。以 前の都知事選で、有権者の半分以上が棄権したが、棄権半数の状況のどこが民主 主義なのだ。政治に参画することを、六割の人間が拒否、もしくは無関心でいる 状態を、なぜ民主主義と呼べるのか。もはや日本において、真の意味での艮主主 義は、「多数決の原理」ひとつ見ても、全く機能していないのが現状だ。

 六割という数を、忠実に「多数決」で見るならば、「議会制民主主義は信じま せん」と、民主主義の自殺を大多数の人間が選択したことになる。浮動票などと いういい方は正しくない。一票を投じて政治に反映させる理屈が絵空事であるこ とを、大衆みずからが、すでに棄権という形で証明しているのである。

 つまり、多数決を基本とする民主主義とは大嘘なのだ。サバイバルの一歩は、 これへの警戒・否定から開始されよう。民主主義・人権主義のゆきすぎは、国家 国民を危険におとしいれる。

 そもそも、○○主義などというイデオロギーは、変節や裏切りや改心によっ て、ころころと変わるもの。ある意味で思想的なファッションみたいな現象であ る。いつまでも、それを真理真実のごとく崇め、しがみついているのは、まった くもってナンセンスである。

 イデオロギーについて、もっとも正しい認識は「とりあえず今は、○○主義。 でも先はわからない」とすることなのだ。

 だいたい日本人が、大勢をくりだして一つのことをやるとなったら、「お祭 り」しかない。決して議会を開いたり、投票したりすることではないのだ。神社 の境内で出店を開いて、ドンドンピイヒャラとおはやしの中、おみこしをワッシ ョイとやるのが一番似合っている。神々のために催す飲めや歌えの大騒ぎが、心 底すきなのである。

 ところが、日本人として、ひどく退化した知識人たちは、いまだに民主主義の 危機なんていっている。そんなものは、もとから無いのだから、架空の危機とし かいいようがない。サタニズムの宣教師と化している事実を、彼らはいったいい つ気づくのであろうか。

 本来の日本人は、お祭り好きだ。義理と人情さえあれば、むずかしい哲学や理 屈なんか、いっさいいらないのである。

 中国の聖賢の言葉にも、「三才」というのがある。すなわち、天に陰陽の道、 地に柔剛の道、人に仁義の道あり、という三つの道理である。この仁義を、ひら たく言うと「義理と人情」「本昔と建前」になる。

 庶民の「義理と人情」を基礎として、国への忠誠を家族単位でつちかうのが、 戦前の日本人の「家庭」であった。その延長上に皇室をいただいていたのだ。皇 室の方々をも、ある種の「義理と人情・本音と建前」で結ばれた運命共同体と見 ていたことは、想像にかたくない。

 たとえば、英国では庶民が、貴族のことを「ブルー・ブラッド」と呼んでい た。つまり、同じ赤い血が流れている人種とは思えない、きっと青い血なのだろ うと、半分冗談まじりに言い伝えていた。

 また、白い肌に青い静脈がすけて見える(日焼けしてない)のが、貴族の証と されたという。ところが、静脈が見えないほど日焼けして、風呂にも入れなかっ た庶民の貧しさが、逆に浮き彫りにされる。

 それほど、向こうでは王侯貴族と庶民は、かけはなれた存在なのだ。日本で は、身分制度はあったが、皇族や将軍家の人々を、そんな風に表現した例は絶無 である。「雲の上の人」というたとえはあったが、「血の色までちがう」という 生々しい比較はなかったはずだ。

 さらに、江戸時代までの皇室を、なぜあれほどおちぶれても、将軍家は滅ぼさ なかったのか。それをよく考えて見る必要がある。

 徳川以前の武家政権、戦国大名の中にも、皇室をカずくでねじ伏せられる者は たくさんいた。もし外国に同じ状況があったなら、天皇家はとっくの昔に命脈つ きている。だが、事実は、皇室はこうして日本の象徴として存続している。(た だし、「象徴」とは「物」に対して使うので、天皇を物扱いするこの表現に、八 神は不快を感じる)

 天皇とは、日本人にとって、民族の支配者ではなく、艮族の長老として存在し ているようだ。将軍や大名たちは族長のようなもので、長老に名誉と権威を認め はしても、殺すなんてことは滅相もないのである。

 皇室〜政府〜各家庭を、ある種の運命共同体とみなせば、血筋や血統にたとえ て、「万世一系」と呼んだのも、理解できないことではない。

 日本人の民族意識や国家的な感覚を、もっとも端的に象徴するのが皇室なのだ。たとえ権威だけの建前的な存在とみなされても存続するのが、その証拠だ。

 神道、武士道、儒教などの戦前の価値観も、尊敬すべき規範・建前として、う まく庶艮の「義理と人情」「本音と建前」の感覚とマッチしていたのである。つ まり、義理と人情/本音と建前という明るい二重構造の上に、日本人のアイデン ティティは構築されている。

 したがって、建前としての皇室、神道、儒教は、あたかも皮膚のごとく、日本 人の本音・人情という骨肉・内臓を守り続けてきたのだ。したがって、天皇、神 道、儒教という戦前価値観の喪失は、病原菌から肉体を守る皮膚の喪失を意味す る。

 大火傷の傷口から、菌が入って敗血症や破傷風を起こすように、戦後日本はサ タニズムと言うバイ菌に汚染され、発病してしまったのだ。体内を守るべき皮膚 をなくし、日本の各家庭もどんどん化膿し、病気を進行させていった。その結 果、芯を失った独楽のように倒れ、崩壊現象にみまわれている。

 戦前価値観の義理と建前を失った現代社会に、人情などかけらもない残虐無比 な犯罪事件が多発するのも当然すぎる帰結である。義理と人情をなくしたら、あ とに残るのは自分さえ良ければよいという個人的な快楽追求の欲望だけだ。援助 交際のコギャル、マゴギャルたちが、誰よりも雄弁にそれを見せつけてくれる。

 家庭の問題が「戦士症候群」などの原因であることは記した。だから、深奥の 病因は、大人たちが、戦前の価値観を否定し、国を愛する心を失ったことにある のだ。

 食べるべきものを食ベ、運動するべきときに運動し、休むべきときに休めば、 人間の肉体は健康を保てる。同じように、信じるべきものを信じ、敬うべきを敬 えば、人の心は自然に健全なものになる。その逆をやれば、健康をそこない病気 になり、ひどいときは死に至る。

 戦後の日本は、敗戦のショックのさなか、米国占領軍にこれを仕組まれてしま ったのである。その一例が、日本国憲法である。その米国も、こんにちではサタ ニストに支配され、すっかり死に体である。

 また米国は、ユダヤ・エリートに牛耳られている。つまり、ユダヤ・エリート こそ、今さらながらの結論だが、サタニストの主魁(しゅかい)の一派なのだ。 占領軍司令官ダグラス・マッカーサーは、フリーメーソンの最高メンバーのひと りであり、ユダヤ・エリートの使者だった。サタニスト集団の使いっばしりだっ たわけである。その使いっぱしりが指揮し、日本人がみずからを全否定するよ う、憲法を大急ぎで制定した。同時に、有害この上ない民主主義・自由思想とい う毒をばらまき、日本人が自国を愛せないようにしてしまったのだ。

 彼らは、日本が今日のようになることを、すでに五十年以上も前に知ってい た。戦前の価値観を否定すれば、日本国民がみなし児や迷える子羊状態になっ て、自滅に向かうということを熟知していた。だから、いずれどうなるか、はっ きり分かった上で、遠大な国家破壊計画を実行に移したのだ。なんという悪魔の しわざであろうか。

 だからこそ、断言できる。戦後を通じて戦前の価値観を悪徳視し、国を愛する 心を拒むよう導いてきたものたちこそ、サタニストであり、その走狗である。ノ ーベル賞をとろうが、文化勲章をもらおうが「サタニスト」である。

 彼らが標榜してきた民主主義、平等主義、人権主義の真の目的は、日本人に王 家と国家を愛する心をめざめさせないための手管なのだ。日本と日本人を台無し にするための虚説に、だまされてはいけない。変節・転向・食言・日和見・ヤラ セをくりかえす朝日新聞を代表とするエセ権威主義から、目をさまさなければな らない。

 筆者は問いたい。日中戦争から終戦までの十五年戦争で敗れたからといって、 なぜそれ以前の歴史や道徳まで否定されねばならないのか。たった十五年間の失 敗によって、なぜそれまで築き上げた二千年余の民族の歴史と伝統が、否定され ねばならないのか。十五年で、二千年を計って断罪する資格を、いかなる艮族や 国家が持ちうるというのか。

 勝者となった欧米各国が、過去三百年に渡り、アジアや新大陸でおこなってき た過酷な帝国主義、植民地支配、人種・民族差別を考えてみるがいい。日本の歴 史・精神史が、たった十五年間の戦争行為によって、否定されうるというなら、 他人種に対して残忍酷薄をきわめた欧米の歴史と伝統こそ、真先に否定され、こ の地球上から抹消されるべきではないのか。

 この日本が、半世紀以上も前におとしいれられ、サタニズムという悪しき果実 をむすばされた事実を、筆者は限りない屈辱と受け止めている。

 筆者のそんな感情はともかく、今も昔も、日本人にふさわしい主義主張は、欧 米流の民主主義でも人権主義でもない。義理と人情の天然主義こそ、もっとも似 合っている哲学であり行動原理なのである。

 だからあえて言う。日本人が戦前の道徳観を失わず、祖国を愛する自然な心を保ち続けていたなら、酒鬼薔薇事件は生まれはしなかった。オウム事件もありえなかった。まだ遅くはない。最低、国民の二割が、真にこの国の歴史に学び、国土を愛する心を持つならば、この国は充分に健全な再建が可能である。三割いれば御の字だし、二割でもう充分なのだ。

 そのためには、戦前だけではなく、明治維新よりも前の道徳観、価値観を復活させ、再認識することが必要だ。それこそが、サタニズムに抵抗し、打ち破る限りないカとなる。古きよき心を現代によみがえらせれば、大和の神々もお喜びになり、きっと加勢してくださるはずである。

第八弾(1):『一神崇拝と日ユ同祖論の落とし穴』』