第八弾(1):『一神崇拝と日ユ同祖論の落とし穴』

第八章 奇跡を生む国・日本(2)

☆ 2・聖書を審神(さにわ)せよ

 色々と調べたあげく、次のことについては、確信をもっていえる。一神崇拝が多神崇拝より優れているというのは、ウソである。

 なにより唯一絶対の神という概念そのものが、根拠の薄いあやふやなものなのだ。聖書をくわしく読むと、それがはっきりと分かる。旧約聖書「創世記」の第二章と五章に、神みずからの言葉として、次のようなものがあるからだ。

 まず神が、人間を創造するときに、「われわれにかたどり、われわれに似せて人をつくろう」(二章二五節)と語る。ついでアダムとイブが、禁断の果実を食べたのを知って、神が驚きの言葉を発する。「人間は、われわれの一人のように、善悪を知るものとなった」(五章一三節)

 神は、「われわれ」といっているのだ。これは日本版のすべての旧約聖書でも同じだし、念のために英訳聖書も当たってみたが、やはり"We"と訳されている。決してまちがいではない。

 しかも、この二章と五章の「われわれ」については、聖書翻訳者や研究者も触れたくないものと見えて、このふたつを結びつけた引用対照は、どの聖書にも記載されていない。

 つまり、聖書のはじめのはじめである「創世記」の人類創世の段階で、一神崇拝ではなく多神崇拝であることが、明言されているのだ。

 これについて、ユダヤ教のラビに聞く機会があるなら、ユダヤ人はこのくだりをどう解釈しているか、ぜひ説明してもらいたいものだ。(あるユダヤ教徒は、「われわれ」とは「神と天使たちを意味する」と解説してくれたが、八神はぜんぜん納得できないのである。神は造物主であり、天使は被造物である。その厳格な区別がついていないなら、天使も「神の仲間」であって、やはり複数の神々となり、多神教的色彩がのこっていることになる)

 聖書を読み、研究書をひもとくと、この創世記のみならず、旧約聖書の古い時代の記述の背景には、意外に多神崇拝と共通する要素があることを発見する。

 たとえば、旧約聖言の預言者のことを、へブル語で「ナービー=先見者」と呼ぶが、これは動詞「ナーバー=神がかる。霊がかかる。トランス状態になる」を語源としている。つまり、預言者とは「神がかりで、言葉を伝えるもの」というのが本意なのだ。

 高級・低俗の大きなちがいはあるものの、多神世界でもなじみ深い「巫女」「霊媒」「イタコ」などと、基本的に同じ形態であることを意味している。こう見ると、西洋に「チャネラー」が生まれるのも、別に不思議でもなんでもない。

 『日本書紀』などでも、三〜四世紀に神功(じんぐう)皇后が、神がかりになって神託を受けたという記述がある。「神がかり」は洋の東西を問わず、天意をうかがう重要な手段だったことがわかる。

 これからも分かる通り、まず日ユ同祖論の前に、日本人のアイデンティティを確認せねぱなるまい。何が同じで、何がちがうのか、それが判別できなければ、相手が敵か味方かさえ、はっきりしない。

 ましてや、自国の正体をよく知らないものが、「おまえたちの先祖は、おれたちの先祖」などと外国人のいいなりになって、よい結果を生むはずがない。ギリシャのアポロンの神託ではないが、まず「汝自身を知れ」である。

 というわけで、この多神崇拝の日本人が、古来より得意とした実践的な神がかり・霊がかりの世界の本質を、聖書の語る霊的な現象と比べながら探究してみよう。

 見出しの「審神(さにわ)」というのが、重要なキイ・ワードとなる。

「審神」の説明に入る前に、以下のことを認識ねがいたい。
 これから述べることは、次元の高い霊能者や宗教者なら、だれもが感知する風景であり、基本的な感性である。これを知らずして、霊的な世界に足を踏み入れることは、素っ裸で燃えさかる火事場に飛び込むような愚行である。

 古来、神官やシャーマンたちにとって、森羅万象は、すべて目に見えない世界からのメッセージにみちみちていた。もともと、「神々の意志」が、それらに宿ってさまざまな現象を起こし、人に解釈されるのを待っているという態度である。

 この延長線上に、以前に述べた「共時性=シンクロニシティ」などの現象が想定されている。では何故に古代のシャーマンたちは、それらの見えざるメッセージを読み解こうとしたのか。

 それは、現世の諸現象を神秘的な側面から解釈し、的確なメッセージを受け取って、家庭や国家の危難を避けるためだ。一種の霊的な災害予知、非常時への防備・保険としてあった。決して、自己顕示欲や金もうけなどを目当てに、森羅万象に宿るメッセージを解読しようとしたのではない。

 そこが、現今のインチキ霊能者や戦士症候群と大きく異なる点なのだ。もちろん、聖書の世界でも、為政者や庶民に迎合し、都合のいい虚言を弄する御用預言者やインチキ霊媒は山ほどいた。むしろ、そういう、ウソがたくみだったり、邪霊や悪霊が憑依するまがいものの方が、多数派だったのはまちがいない。

 それゆえ、人心を惑わすのを防ぐため、聖書ではくりかえし霊媒行為の禁止が説かれている。その証拠に、モーゼの律法にかぶせて「口寄せや霊媒は、石で撃ち殺せ」(レビ記20章27節ほか)などという過激な一条があったりする。

 しかし、実際は人々も為政者も、「口寄せ・霊媒」に頼っていた。律法では禁止されていても、いわゆる「霊能者」「神さま」にすがる気持ちは、洋の東西を問わず変わらぬものと見える。おかげで、被害者・犠牲者も洋の東西を問わず、おびただしく横たわってきたわけである。

 では、預言や神がかりの正否、真贋を見分ける方法はなかったのだろうか。ちゃんと、あったのである。それを「審神」という。日本では、その方法と能力の持ち主を一括して「審神」と呼んできた。読んで字のごとく、かかってきた神を「さばく=見分ける」役である。

 普通は、直接に神霊を受ける「霊媒(古くは「神主」と呼んだ。神社の宮司の意味になったのは、ずっと後代のことである)」と、その状態を見てかかった霊の素性・霊格を見抜く「審神」、また場合によって「霊媒」についた神や霊の語ることを筆記する「筆役」もついた。おおむね三人一組で、霊がかり、神がかりをおこなったわけだ。

 旧約聖書の世界でも、イザヤからマラキにいたる預言者たちが、「審神」の能力を持った本物の神託能力者だった。ただし、彼らは「霊媒」「審神」「筆役」を全部ひとりで請負った(もちろん、弟子格の人間が書記をすることもあった)。その結果、生まれたのが、旧約聖書の「イザヤ言」から「マラキ書」にいたる預言者の名を冠した預言書群である。もし、彼らが現代に生まれかわっていたら、おそらく霊能者、神官、作家(あるいはマンガ家)の能力をかねそなえた人物になっているはずである。

 このように、神託行為ひとつとってみても、日本では三人という「複数」であり、ユダヤでは「単独」でおこなう構造になっている。つまり、天才的な人物が、ひとりで何から何までやらねばならないのが、一神崇拝の世界といえよう。逆に、秀才クラスの人たちが集まり、それぞれの一芸をもちよって一事を為すのが、多神崇拝の世界といいうる。

 これは、背景の牧畜文化と稲作文化のちがいをも意味する。成人男性ひとりで何百頭もの羊を率い、野獣や家畜泥棒と戦いながら、命がけで保護しなければならない放牧者と、村をあげて種まきや草とりや収穫をおこなう水田農耕者とでは、文化に相違が生まれるのは当然のことだ。

 (ちなみに、過去のイスラエルでの羊一頭の価値は、その重要度において現代の自動車一台分に匹敵する。飼っている羊をなくすというのは、現役の自家用車をなくすのと同じであったのだ。キリストが「九九匹の羊をほおっておいても、見失った一匹の羊を、羊飼いは探す」という神の愛と解釈されるたとえを用いているが、一頭の羊が一台の自家用車と同じであるとわかれば、百台の車を所有しているタクシー会社の社長が、一台くらいなくしてもいいや、とはいかない。それと同じなのがよくわかる。

 また羊飼いは、よその家の羊を預かっていることも多く、預かった羊を一頭でも失えば、その分、損害賠償しなければならなかったから、必死で探した。キリストは、当時としては、ごく当たり前のことを、たとえにひいていたのである)。

 ゆえに、一神崇拝の世界では、ひとりの救世主が多数の人間を救済するという「救世主思想」が生まれ、多神崇拝の世界では「人は死ねばみな仏、神さまになる」、いわゆる「万人化仏思想」が発生する。

 前者は、羊飼いの生活の延長から、常に敵を想定する闘争的・個人的な色調を帯び、後者は皆が協調して農耕を行う生活から、平和的・協調的な傾向を帯びることになる。前者は「水と草と羊があれば、ひとりでも食うに困らない」が、後者は「協力しないと収穫できずに飢え死にする」わけで、「生きのびるための必要条件」がまるで違うのである。

 それぞれの文化の王権も、前者は侵略的な「覇道」になりがちだし、後者は抱擁型の「王道」に近づこうとする。前者は「従えば許す。逆らえば殺す(羊に対する態度)」がテーゼだし、後者は「去るものは追わず。来るものは拒まず(稲に対する態度)」が主なる態度だ。

 少なくとも、近世〜現代の欧米流の有色人種への植民地主義・帝国主義は、このような背景を持っている。これを知らなければ、なぜ彼らが侵略・略奪した国々に対して、全く謝罪しないのか理解できない。

 彼らにとって、異人種・異民族は潜在的に「かいならすべき羊・家畜、もしくは家畜を害する野獣」なのだ。羊や家畜を飼いならそうとし、害獣を殺すことのどこがいけないのかと、彼らは平然と思っているはずである。

 ユダヤ・エリートが他民族や他人種を動物のようにみなし、排他選民思想に走る理由も、そこにあると見てよい。

 砂漠と荒野の牧畜文化から生まれた「一神崇拝」は、唯我独尊が当たり前となりやすく、宗教的には他者を征服してでも同一の教えに服さしめようとする。逆に、「多神崇拝」を主なる信仰にすると、広く寛大になるが、他者からの攻撃・侵略に弱く、ほしいままに荒らされるという悲劇を生むことになる。

 インドや中国が、イギリスによって侵略を受けた史実そのものが、この両者のちがいを典型的に物語る。

 今日までわれわれは、彼ら「一神崇拝」勢力のやり口を、アジアにおける多大な歴史的犠牲をはらいつつ、だいぶ知りえてきた。これからが巻き返しである。一致団結でがんばり、人や家畜や獣の血の臭いのしない、清明なる「多神崇拝」の時代にしてゆかねばならない。

 SF作家・小松左京も指摘している通り、人類史のダイナミズムは「牧畜=一神崇拝」「農耕=多神崇拝」のふたつの勢力争いによって、引き起こされているからである。

 では、真正の預言者と、日本の「審神」という、一神・多神を問わない神霊判別法とは、いかなるものなのか。これを詳しく記すと、一冊の本になってしまう。残念だが、紙数の関係上、審神に必要な条件のみを土げ、これによってその輪郭をつかんでいただきたい。

 まず審神には、霊的な感受性を、極限までとぎすますことが必要である。人に宿った霊を見分けるには、ほかの森羅万象に宿ったメッセージを読み取る直綿万が不可欠だ。シャーマニズムの本質は、この「精確な不動の直観力」に帰一するといってよい。

 和風にいうなら「明鏡止水」の境地のことだ。極限の精神統一状態を、清浄な場所と、清浄な肉体条件のもとでつくりださねばならない。ここでいう清浄な場所とは、神事のために清められた場所のことをいう。この神事のためのロケーションを「審庭(サニワ)」と呼ぷことから「審神」という言葉が生まれたという説もある。

 清浄な肉体条件の方は、体を沐浴によって毎日きよめ、定められた日数、酒・肉・刺激物(ニラ・ネギ・ニンニク・トウガラシの類)・性行為を禁ずることによって準備される。聖書の預言者にいたっては、魚も食べない完全菜食状態を常とし、神託を受けるときは一週間以上の断食をする。この極端な食事制限は、洋の東西、宗教を問わず、一種のまっとうなトランス状態をつくる方法としては、ほとんど同じである。

 日本の古神道系の修行法の中では、これに「朝晩、神棚に大祓祝詞をあげる」「生理中の女性が、調理したり、火を使ったものは食べない」「人の悪口雑言を聞いたり、語ったりしない」など、細かい生体波動の調整にかかわる細則が加わる。

 常識的な見識と経験を積み重ねることプラス、こうした厳格な準備段階を通してのみ、はじめて正しい神霊の弁別力が備わるというわけだ。タバコも肉も酒も色事もやりほうだいの現代の霊能者が、正しい「審神」能力を持っているかどうか。もはや言うまでもなかろう。

 それほど、人間にかかった神や霊を見分けることは困難な作業なのだ。ましてや、大川隆法のように、何十冊もたて続けに古今東西の偉人の霊がかかって、霊言集を出版するに至っては、とっくの昔に断食しすぎて餓死していなければならないはずだ。

 安直な霊言屋やチャネラーたちが、いかにいい加減かが、これでよくわかる。もちろん現代のチャネラ−たちが、聖書の預言者や神功皇后より、明らかに優れた霊的素質を持っているというのなら、また話は別であるが。

 だいたい、素人がシンクロニシティや現実の出釆事から、霊的なメッセージを受け取り、解読しようとする場合、たいてい犯す大きなあやまちがひとつある。審神に通暁(つうぎょう)した人間なら、決しておろそかにしないことを、まずおろそかにするのである。

 つまり、「何かある」と直観してから、結論を出すまでの間に、現実的な問題への処理と責任の遂行をおこたってしまうのだ。解読に熟中するあまり、現実生活における責任・義務を放棄してしまう。

 たとえを使おう。自分の身に何かの事故があったとする。交通事故でもいい。すると、そこには示談や賠償やら、色々な現実的な義務が生じる。加害者だったとしたら、当然、見舞いや保険の申請もしなければならない。こうした義務や責任行為をおこたって、「この事故は、私に対して、いったい何を語りかけているのか」と、考えてしまうのが、審神の素人のやることだ。

 つまり(1)「問題・事件が起こった」とき、(2)「現実的な義務と貴任を果たす。事後処理をする」、そして最後に(3)「問題や事件を通して、語りかけられた見えない世界からのメッセージを推考する」という一連の作業が、審神には必要なのだが、この(2)をすっとばして、すぐ(3)にいってしまう。それで周囲からひんしゆくを買ってしまうのだ。

 つけ加えるなら、(2)のプロセスにも色々とメッセージはあるものなのだ。プロセスをはしょると、いずれにせよ損をするし、まちがいの元である。

 霊的なことに限らない。仕事でも人間関係でも、プロセスをはぶいて、楽できたと思うのは愚かものの考えだ。はしょった分だけ、必ず他人や家族にしわよせがいっている。それがたまりたまって爆発し、ある日突然に離婚を宣言されたり、リストラされたり、袋だたきにあったり、困ったときに見捨てられたりする。

 ことほどさように、この世の生活は、まことに厳しくむずかしい。人生に手抜きは禁物なのである。

第8弾(3):『峻厳なる真の霊的世界』