第八弾(1):『一神崇拝と日ユ同祖論の落とし穴』

第八章 奇跡を生む国・日本(3)

☆ 3・峻厳なる真の霊的世界

 こうした厳しい精進潔斎(しょうじんけっさい)を通して、初めて繊細で精確な霊的感受性が養われ、人に内在する真の霊の判断力が発現する。このように、正式の審神は、厳格な作法や修法を、師匠・先達から学んで行わないと危険である。

 たとえば、古神道系の諸教団では、昔から「鎮魂帰神の法」といって、素人をにわか霊媒にしたて、色々な霊を発現させて、審神役の人間が対話・教導するというのがある。これも審神役がしっかりしていないと、逆に憑いた霊に言い負かされてしまうということになる。そのまま憑依しっぱなしが続き、追い出すにも追い出せないことにもなる。たいへんに危険でこわい行為なのだ。

 何だか、コックリさんに似ていなくもない。現に、「鎮魂帰神」によってかかってくる霊は、たいてい動物霊とか先祖の霊だとかで、本物の神さまが下りてきたという例は、あまり多くはない。

「鎮魂帰神」にしろ正式な審神にしろ、十代二十代の若者がやるようなことではない。いわば、霊的な無菌状態をつくりだすわけで、色々な霊にもっとも憑依されやすくなるからだ。当然、邪気にも巻かれやすくなる。

 神がかりと関係のない、俗世間の風によくあたり、ある程度、人の罪やけがれに免疫ができた上でないと、精神異常を起こす恐れがあるのだ。つまり、人の裏表、善悪、真贋を見分けるフィルターがしっかりしていないと、まずい局面を生む。

 具体的には、霊的なことに関わったとたん、複数の霊がいっしょにとりつく。そして、自分の心の中で、霊たちが闘争をはじめてしまい、精神分裂状態が起こってしまうのだ。

 この霊的な修行の危険については、何も神道系だけにあるのではない。たとえば、瞑想やヨガなどでも、健康体操の域を越えてのめりこむと、人によってはとんでもない病状を起こすことがある。

 生物通信学会の三角行徳氏は、それを「クンダリニー症候群」と呼んでいる。その述べる所を、抜粋・要約で引用すれば、『瞑想教室や講習会の中で、指導者の力量不足から、次のような体の不調を訴えるケースが増えた。

 心臓が発作のように痛む。呼吸困難(息苦しさ)におちいる。幻聴や幻覚が起きる。本を読んでも頭に残らない。眼球(眼底)がしぼられるように痛む。頭の両側に、金ブラシ・でおさえられたような、たとえようもない激痛が起こる。ムチウチ症のように、首が凝ってふりむけない。直腸が飛び出すような痛みとともに、急激な嘔吐、下痢、五分おきにトイレに駆けこむ。これらが、一〜ニケ月周期で波状に襲ってくる。

 病院にいって色々と調べても、あらゆる検査で異常なしと出る。痛み止めの薬も効かない。医者は困って『抑鬱症』『自律神経失調症』と診断するばかり。やっかいなことに、ヨガや瞑想をやったことのない人でも、この症状に襲われるケースがままあるという。霊能者をたよっても、新宗教でもだめ。漢方も東洋医学も気功でもまるで効果なし。

 これらは、瞑想を長期間にわたって、熱心にやった人ほど、よく見られる症状である。熟練した瞑想指導者にも、治療法がわからない場合が多い。本当の(ヨガの)師とよぶべきちゃんとした指導者の正しい導きによって、氷解する』(『パワー・スペース1999』1.2号/福昌堂)

 三角氏は、これらの症状が、いわゆる「振り子占い(ダウジング)」などでも起こると指摘している。振り子の動きを「守護霊の影響」や「神の示し」ととらえると、とたんにコックリさんのごとき憑霊現象が起こるという。

 ダウジングは、基本的に、意識の一部が筋肉を不随意に動かす「物理センサーの一種」と見るのがよい。割り切ったある種の物理現象としてとらえることが大切なのだ。まちがっても、ダウジングで「神のお言葉」「守護霊の示し」を聞こうなどとは思わないように。

 筆者も、何か霊的なものが振り子を動かしているのだと信じていた時期がある。そういう霊がかりの感覚でダウジングをやったら、てきめんに邪気が来た。前述したサタニズムの波動がやってきて、十年ぶりぐらいに恐怖に眠れぬ一夜を過ごしてしまった。

 ちなみに、ダウジングは、もともとヨーロッパ発祥で、失せ物探しや地下水脈、埋蔵資源探査に使われていたものである。延長した使い方としては、体の具合の悪いところや病因の探査、薬の適性検査などで実用化さている。

 素人でも、調査対象をその辺にしぼった方がよい。サンプルとなる物が人体に有害かどうかなど、物理的・肉体的な分野で活用するのが無難。物理的に形と質量があり、なおかつ五感では認識できない部分を知覚する「もうひとつの五感」として使えばよろしい。

 面白いエピソードとしては、アメリカ軍がベトナム戦争で、地雷探知にこのダウジングの技術を使ったとか。くどいようだが、くれぐれも前世探査や守護霊探査など、「霊感・第六感」の方には用いないように。

 とにかく、いかなる宗教がもとであれ、霊的な分野にまつわる初心者の危険さは、三角氏の指摘の通りである。

 瞑想や座禅とかは、特にちゃんとした指導者のいる場(寺や道場など)でおこなうべきだ。本やオカルト雑誌の記事などを参考に、素人瞑想などやるものではない。悪質な霊にとりつかれ、精神分裂状態におちいり、「クンダリニー症候群」のような原因不明、治療困難な激痛に襲われたくなければ、素人瞑想、素人座禅はやめた方がよい。

 ヨガにしても、ちゃんとした先生のいるちゃんとした道場でやるに限る。いわゆる「気功」も全く同じである。これらの業界は、未熟な先生のやるおそまつな道場というのが、多数派である。インチキさ満点というのが実情だからだ。

「審神」とは、まず上述した危険や困難をクリアし、澄明で透徹した境地に達しなければならない。なまなかな習練でできることではないのだ。

 いわゆる未開社会における呪術師やシャーマンたちも、一人前になるためには、師匠からものすごく厳しい習練を、長い年月に渡ってしこまれる。断食、禁欲、不眠はもちろん、長期間の奥地での独居など、当たり前の世界である。それくらい、霊的な事柄を仕事にするというのは、大変なことなのだ。

 文字通り、悪霊やら悪魔やら、魔界の連中と接触しなければならない「戦士」の仕事である。彼らはまず、教官や鬼軍曹にあたる師匠のもとで生活しなければならない。なぜなら、霊的に徹底的な鍛練をほどこし、完全武装の行軍に慣れたスペシャル・フォースでなければ、簡単に憑依現象と人格分裂を起こし、自殺、変死などの形で犬死にするからだ。

「戦士症候群」などというが、本物の「戦士」とは、血へど吐くすさまじい軍事訓練を、夜昼の別なく受けねばならない。その上、実戦で生きるか死ぬかのぎりぎりの状況を、何十回となくくりかえして、はじめてなれるものだ。プロの軍人や一流の武道家と同じく、徹底的な鍛練に耐える資質が要求される。

 巨大ロボットアニメでは、「ニュータイプ」が、すぐにモビルスーツを動かせるが、あれは、あくまでもアニメのお話である。たとえ、潜在意識が素晴らしい能力や人格を持っていたとしても、現実的な訓練によって基本を学び、習熟しなければ、人間は何ひとつものにすることはできないのだ。

 天賦の才能は、努力と熟練によってこそ、初めて、的確かつ安定した状態で引き出される。前世記憶を信じる人たちにいいたいが、前世で習熟した技とセンスがあるとしても、それは現在の努力と鍛練なしには発現しない。

 プロフェッショナルとは、こうした前世と現世にまたがる積み重ねが生んだテクニックを駆使する人々なのだ。エドガー・ケイシーのリーディング(睡眠透視)によれば、現世でいきなり天才として生まれてくる人はいない。必ず、複数の前世で長い下積み時代を送っているという。

 現世で大画家だったり、大音楽家、大作家だったりする有名人も、いくつかの前世では貧乏画家、音楽学生、作家志望者を続け、無名時代を長く続けているらしいのだ。われわれが普通「才能」と呼んでいるものは、そんな苦労の果てに習得したものだという。

 いくら天才だからといって、いきなり過去世の習得技術が、自在に発揮できるというわけではない。現世は、一種のやり直しなのだから、千里の道も一歩からである。

 たとえば、ここにプロのレーサーがいる。もともと素質があり、天才的なドライブテクニックを発揮している。だが、彼とて最初は、自動車学校に通って、基本動作を習ったはずなのだ。アインシュタインだって、足し算引き算から学習をはじめたはずだし、モーツァルトもいの一番に、楽器のひきかたを教えられたはずである。

 本物の霊能者や「審神」だって同じである。

 簡単に霊能者や「ハルマゲドン」の戦士になってもらっては困る理由が、これでお分かり頂けるだろうか。しかも、売名・私利私欲と無縁な本物の霊能者は、無欲であるがゆえに、世に出てくることはまずない。日本全国でも、本当にごく少数の人しか、その存在を知らないものである。ひっそりと、人知れず、世のため人のために祈り、誰にも知られぬように、そのカを発揮し続けているはずだ。もちろん、何かの教団や宗教的なグループをつくっていることもない。

 たとえて言えば、水不足で飢饉に苦しむ町を、夜中にひとり通ってゆく、偉大な僧侶のようなものだ。その僧侶は、天候を左右する通力を持っている。夜中にだれも見ていない間に、雨乞いの祈祷をし、夜明け前に町を去ってゆく。翌日、大雨が降り、町の人々は救われる。だが、それが誰のおかげかも知らず、人々はまた何気ない平凡な生活を続ける。本物の霊能者とは、この僧侶のような存在のことをいうのだ。

 そして、本物の霊能者・審神というものは、神事すなわちシャーマニズムの本質をなしているものである。彼らは、霊的・神秘的な解釈能力をもって、実生活に活かすすべを会得している人々なのだ。その前提には、現世の森羅万象に、目に見えない世界や存在からの、呼びかけや示し、警告、予告が宿り、現れるという信条がまずある。

 ユングの説く「シンクロニシティ」は、その端的な一現象にすぎない。直観力にすぐれ、霊感にめぐまれたシャーマン的な人間なら、その暗黙の潜在的メッセージを理解し、正しく読みとることが可能だ。むろん、普通の人間には、その隠されたメッセージ・黙示の解読は、非常に困難だ。失礼なたとえで恐縮だが、感受性が喚覚でいうなら、犬と人ほども差があるからだ。

 それらのあらゆる現象について現れる無言のメッセージの姿形、気配を東洋的には「相」という。「手相」「人相」という言葉を、思い出して頂ければわかりやすいだろう。たとえば、サイコロを転がして、ある特定の目が出ることも「相」のひとつである。バクチの次元でいうなら、目の合計が奇数になる「相」を「半」、偶数になる「相」を「丁」とよぶわけだ。

 この「相」として現れるメッセージは、さまざまなレベルに及んでおり、一筋縄では解釈できない。また解読するレベルも、人によって相当に異なるので、欲や願望の見せる幻想錯覚が入りこむ比率も高くなる。素人がうかつに手を出すと、先にも述べたが迷路に落ちる。それも、初心者には危険すぎる精神異常のラビリンスである。

「相」の解読には、真正の審神のきわめて次元の高い精妙なレベルから、次元の低い粗雑でおおざっばな段階まで、いくつかの段階がある。

 一番低いのは、サイコロや筮竹や石、カードなどを使って出た「相」を読み取るレベルだ。人為的な手法を用いたやり方である。これは占いに堕落した神事ということで、すでに詳述済みである。

 逆に最も高いレベルは、何の道具も使わず、自分の直観力だけで、自然や人間関係に起こったできごとから、瞬時に解読してメッセージをとりだせる。さらには、そのメッセージをもとに、ただちに行動を起こせる。この境地にいたれば、もはや超感覚といってよいレベルである。

 これは、ネイティブ・インディアンやアボリジニなどの、大自然とともに生きる人々の間で、特に強い能力だ。山々の表面をおおうわずかな気配の異変や、風にそよぐ草の具合、自他の声の調子、顔色、態度の徴細な変化などで、現在と未来の吉凶を、あっというまに読み取ってしまうのである。

 砂漠のベドウィンたちも、砂の上についた人の足跡だけで、人数、性別、年齢、健康状態、行動形態、所属部族などを、一瞬に判読できるという。いわゆる「死相」が出ているとか「殺気」があるとかも、たちどころに把握し、予防措置を構ずることができるのだ。

 それは、単なる直観力にとどまらない。想像を絶する観察力と洞察力をもかね備えた能力だ。ものごとの本質と実態、因果関係を、何の道具も借りることなしに、瞬時に正しく深く洞察する感覚でもあるのだ。眼前の現象にこめられた正邪、善悪、成否、吉凶のメッセージが、よけいな理屈ぬきで、ぱっと「分かってしまう」のである。

 これこそが、「審神」の能力の本質だ。この能力が安定していて、なおかつ徳性と情緒が豊かでなければ、本物の「審神」にはなれない。このように何ごとも、厳しく長い鍛練と修練・経験がなければ、人に認められる有用なカとはならない。それは、霊的・肉体的、いずれの分野にも当てはまることだ。

 山にこもって滝に打たれたり、聖地をめぐって霊的な修行ばっかりやっていればいいというものではない。そんなことをしても、まず良い結果は生まれない。山ごもりの修行を続けても、現実逃避が深刻化するだけで意味はない。その上、同じような現実逃避、修行好きの霊にとりつかれ、最悪の場合、社会復帰できなくなる。魔性、不成仏霊にとりつかれ、社会不適応者や精神異常者になってしまうのだ。

 むしろ、現実社会に生きながら、五感と肉体の鍛練を、正しくほどこすことで、ある種の霊能が発動して定着する場合も多い。プロのスポーツ選手や武道家の技術や感覚や能力が、その好例であろう。

 一般に、その道のプロと呼ばれる人々は、必ずなんらかの霊的な能力を、自覚しないまま行使している。先述した過去世で習得した技術も、そこから発動する。くどいようだが、厳しい鍛練と、たゆみない地道な技術の習得・基本の反復が、もっとも安全な形で潜在能力を引き出すのだ。

 味噌も味噌くさいうちは、本物ではない。霊能も同じである、自覚できる霊能など、実はたかが知れている。本当の霊能は、プロの腕前という形で、実際的に有用な働きをなす。プロフェッショナルな技能と現実的な成果に結びつかなけれぱ、霊能など、ただの見せ物か妄想にすぎないのである。

第8弾(4):『言い伝え〜あなどれぬ叡智』