第八弾(1):『一神崇拝と日ユ同祖論の落とし穴』

第八章 奇跡を生む国・日本(5)

☆ 5・つつしみ深き日本の美徳

 ある日、たまたま教育テレビにチャンネルを変えたら、フランス語講座をやっていた。パリの有名な中華料理店の厨房を映している。ところが、字幕の解説の内容に、目をむく思いにさせられた。

「味の秘密は、これです」とかなんとかいって、料理人が白い粉を中華鍋の中へふりかけ入れている。同時に字幕で出たのが、「"中国の塩"と呼ばれているグルタミン酸」

 おいおい、ちょっと待て、コラ。グルタミン酸(ナトリウム)といえば化学調味料で、日本人が発明したものだぞ。昆布だしの成分を、化学合成したのも、企業化して大量生産したのも日本なんだ。何が"中国の塩"だ。勝手に中国の発明のようにいうな。味の素株式会社に訴えられるぞ。

 そう思って、いささか憤慨した覚えがある。中国の料理人がずるいのか、フランス人が無知なのか、あるいは両方なのか。とにかく他国の発明商品を、勝手に自分のものにするとはよろしくない。NHKも、よくぞそのまま放映したものである。

 このように、日本発、日本原産でありながら、今日、忘れ去られ、また意図的に外国のものにすりかえられてしまったものが、たくさんある。お人よしの日本人は、全くこういうことに鈍感なので、ついつい利用されてしまうのだ。

 十六世紀、日本にやってきたイエズス会の宣教師たちが、本国スペインに「この国の民は、みな礼儀正しくて親切、つつしみぶかくて謙虚です。あらためてキリスト教を宣教する必要はないと思われます」という内容の手紙を書いたくらい、善良で素性がよいのである。

 日本人は、もともとキリスト教と共通する徳目を、すでに会得していたことが、この史実からわかる。だから、キリスト教が明治以降、日本で大きな勢力にならないのは当然なのだ。これほど多くのミッション系の幼稚園、小中高校、大学、病院がありながら、キリスト教徒が増えないというのは、もともとあまり必要がなかったからとしか思えない。

 また、日本人の平和ボケはつとに言われるところだが、実はこれはボケなのではなく、もともとそういう性格なのではないか。そう思われる節がある。というのも、平安京など、首都たるべき都市が、まるで城壁を持たずに形成され、なおかつ維持されてきたという事実があるからだ。

 これは、ヨーロッパや中東、中国など、世界史に名だたる地域では、まずありえないことだ。諸外国では、町や都市といえば、まずはじめに城壁ありきである。外敵の侵入をくいとめる防壁を建設してから、初めて安心して中の町づくりをおこなう。城壁なしの町をつくろうなどといったら、正気を疑われる。

 平安京は、中国の長安をまねしてつくったというが、城壁をまねしなかったのだから、過去の中国人からいわせれば、できそこないの都である。現代ならいざ知らず、千年も前に無城壁の首都を構築するなど、世界史を見ても希有のできごとだ。

 古代・中世を通じて、大陸における都市とは、堅固な城壁に囲まれ、いざという時には要塞化するのが常識だった。日が昇るとともに門扉を開き、昼は門を内外の人間が往来するが、日没ともなれば門番だけを残して門扉は厳重に閉じられる。

 戦争の勝敗は、この門扉を強制的に開けうるか否かにかかっていた。城壁の中に敵になだれこまれたら、それで戦争は終わりである。さまざまな戦争に関する条約やとりきめが、西洋で生まれた。そのほとんどが、落城後の城内での敵の行為を制約し、戦後処理の駆け引きを許すためのものだ。

 くだって江戸時代を見てもいい。そのころ江戸は、百万人都市などという、とんでもない大都市だった。十八世紀から十九世紀にかけて、江戸に比べられる都市といえば世界じゆう見わたしても、ロンドン(約九十万人)、パリ(約五十万人)ぐらいなものだった。世界一の都市だったのである。ニューヨークにいたっては、たかだか六万人で、今日の繁栄など夢想だにできない状態だった。

(江戸が、自然と文明の調和したすばらしい都市だったのをリポートするすぐれた著作がある。『大江戸えねるぎ−事情』〔石川英輔・講談社文庫〕という本だ。「地球日本史』シリーズ〔産経新聞杜〕とともに、読者の江戸時代に対する認識が、大きく変わるはずである。一読を強く勧めたい。)

 この江戸にも、やはり市域を包囲する城壁がなかった。本丸の江戸城は城といっても平城(ひらじろ)で、都市の城壁を破壊、もしくは飛び越えて攻撃する西欧の大砲には、何の防御策もとれなかった。黒船でやってきたペリーは、そのことを熟知していたのである。

 京都、江戸だけでなく、日本じゅうの都市がそうだった。これは、欧米中心の世界においては、非常識な町づくりといえる。しかし、海の外から見れば非常識だが、国内では常識だった。

 なぜなら、城壁をつくっても無駄だったからだ。地震や火山の噴火が、すこぶる多い日本では、非常時の避難が大きな課題だった。そのために、城壁で町全体をとりまくような発想が出てこなかったのだ。目本とちがって、ヨーロッパでは地震はめったにない。震度四クラスの地震でも、二百年に一度ぐらいなものだ。「地震、雷、火事、オヤジ」ということわざは、ヨーロッパ人にはまるで理解できないのである。

 とにかく怖いのは戦争や疫病だけで、地震がないから、高い城壁でてっとりばやく囲むこともできた。おまけに、西洋の建物は地震の心配がないので、石づくりが主流だ。日本のように木と紙を基本にしていない。東京大空襲が、焼夷弾だけで、あれほどの犠性者を出したのは、日本の住宅が木と紙でできていることを、米軍が知悉していたからだ。日本各地の本土空襲は、もっとも少ない火薬量で、もっとも多くの人間を殺傷した作戦にちがいない。

 もし江戸や大阪が、西欧や中東、中国のように一つや二つの門だけ残し、四周を高い城壁で囲まれていたら、地震や火事のとき、どれほどの犠牲者が出たことか。より多くの天災にみまわれる土地柄のせいで、欧米とは異なる都市環境が、歴史的に整備されてきたのだ。
 
 また、この地震や天災の連続によって、日本人の天地をうやまう謙虚な気風がはぐくまれてきたともいえる。逆に、地震の脅威にさらされない欧米人が、傲慢で自我心の強い思い上がった性質を持ちがちなのは、当然といえば当然であろう。

 日本人には、人がどんなにがんばっても、うぬぼれても、しょせん人は人。地震・雷・火事には勝てないという諦観があるのだ。さらに地震や台風やひでりなどの自然災害が、人間の思い上がりに対する天誅、天罰なのだという感覚も、日本人の魂の深い所に根づいている。
 
だからこそ、天罰を招かないよう、日常的に互いに助けあって生きてきた。わが身わが家だけを可愛がることをせず、遠慮と気くばりを怠らずに生きるようになったのだ。いわば日本人は、天災によってしつけられ、キリスト教が不要なほどに、民族的な徳性を磨いてきたといえるのだ。

 そのノウハウの結晶が、前にも述べた「義理と人情/本音と建前」の二重構造なのである。そういう意味では、欧米人は天災による「しつけ」が「なっていない」といえる。それゆえに、彼らの言動や感情表現は、ともすれば過激で派手なものとなりがちだ。右にいっても左にいっても、上を見ても下を見ても、極端から極端に走り、ほどよいところで止めることができない。中庸・中道を欠きやすい性格(がさつで粗野・粗暴、繊細さに欠けがちな気質)は、どうもその辺に原因があるようである。

 まっとうな日本人なら、ものごとを表現するときには、できるだけ穏便に地味に、「それとなく、さりげなく、意識せぬよう」おこなう。この国での「徳」とは、それを基本にしているのだ。
 
 ところが西洋や大陸中国では、どうしても「大声で、派手に、目立つよう」という傾向におちいりがちだ。文化の交流に関してもそれが言える。それを証明すべく、いくつかの例をここで挙げてみよう。

 まず、海外から入ってきた思想や文化風俗が、いかにやかましく鳴り物で到来したか。これは、明治維新以降、だれもが知っているし、日常的な状態だから、ここではあえて述べない。調べれば、色々と面白いことがありそうだが、先を急ごう。むしろ、つつましいはずの日本が、西洋社会に与えてきた知られざる影響力を、さまざまな側面から御紹介したい。

 たとえば、スシ、ショーユ(ソイ・ソース)、トーフなどの日本食は、アメリカ人にもファンが多いしずいぶんと普及しているのは、ごぞんじの通り。玄米菜食を基本に、癌を完治させる食事療法(マクロ・ビオティック)の療養所や病院があちこちに建てられているほどだ。精進料理が、人間の自然治癒力を高める食事であることが証明され、実効をあげているのである。

(これについては、「がん・ある完全治癒の記録』アンソニー・J‐サティうロ/日本教文社に詳しい)

 さて、ここで醤油とソースの意外な関係から、御説明しよう。実は日本人がふつうに認識しているソース、特にウスター・ソースには、醤油がまぜられている。ウソだと思うなら、ラベルを調べてみればよい。ソース自体は、外国から入ってきたのだが、その発祥は日本の醤油が起源だ。

 すでに醤油は、300年前から樽や瓶(かめ)につめられて、オランダ船でヨーロッパに運ばれていた。当時から、フランスのルイ王朝はじめ、貴族しか食べられない超高級調味料として、「ショーユ」は宮廷料理の味つけに欠かせないものとされていた。

 以来、大量の醤油がヨーロッパに輸出された。向こうの既存の調味料にまぜられて使用されていたのである。ソイ・ソースはフランス革命前から有名だったのだ。そのうち、醤油の影響を受け、よりヨーロッパ人向けの調味料が、野菜の煮汁の発酵液とまぜられて開発された。それがソースである。そして、日本に逆輸入された。これが本当のソイ・ソースなのだ。

(一説には、「マギー・ブィヨン」で有名なマギー社の名は、「キッコーマン醤油」の前身の野田醤油の創業者・茂木一族の「茂木(もぎ)」に発祥するといわれている。ちょっと変わったところでは、インスタントコーヒーを発明したのも、アメリカの日系人である)

 食品の調味料という重要な日常品でありながら、日本人はそれを開発する源になったとは、おくびにも出さない。戦争で負けて萎縮しただけでなく、もともと目だたないことをもってよしとする慣習があるのだ。

 もしかすると、日本人は心のどこかで、大東亜戦争自体、被爆の事実そのものまで、なんらかの「天災」「天罰」とみなしているのではなかろうか。それが、正しいかどうかはともかく、実に日本人的であるといわざるをえない。

 食だけでなく衣の分野でも、有名なフランスのリヨンの絹織物の染色は、京都の西陣織りの影響を受けている。リヨンの職人たちが、どれだけ西陣織りに啓発され、新鮮な感動を覚えたか、想像にあまるものがある。

 また、美術史で有名だが、ゴッホやゴーギャンなどの「印象派」は、日本から流出した「浮世絵」のカルチャー・ショックから生まれた。陶磁器の世界でも、ドイツのマイセン焼きや、イギリスのチャイナ・ボーン(固くて薄い白磁をつくる土がなかったため、牛の骨や角を砕いた粉を、土にまぜて焼いたのがはじまり)などは、日本・中国の焼き物の影響を受けているのだ。

 また漆器(英語で漆をJAPANという)は日本特産のもので、他の追随をゆるさないし、椿や桜など樹木の品種改良の種類の多さでも、群を抜いている。古代人が装飾として用い、墳墓から出土する勾玉も、実は縄文時代からあるもので日本独自の産なのだ。

「まめ」で「達者」な手腕の要求されることについて、日本人は器用というより神わざ的な才能を発揮し、世界を驚かせ続けてきた。現代に目を移せば、黒澤明や小津安二郎などの巨匠が、海外の映画人に与えた影響は、はかりしれないものがある。

 また、「アニメ」「マンガ」が国際語になり、欧米アジアを問わない「国際オタク」を無数に生み出していることは周知の事実だ。映画監督スティーブン・スピルバーグなどは、『ドラエモン』の大ファンで、劇場版はおろか、テレビ版もすべてビデオにとってコレクションしているという。かの監督の飛躍的な発想の源がどの辺にあるか、わかるではないか。

 武道の世界でも、カラテ、ジュードーの名を知らぬ者はないし、そこからマーシャル・アーツなどの新しいスポーツ格闘技が生まれている。特筆すべきなのは、世界最強といわれる『グレーシー柔術』だ。名の通り日本の柔術を、ブラジルのヒクソン・グレーシー一家が、より実戦向きにアレンジして編み出したものである。ちなみに、このグレーシー一家は、菜食主義だそうで、<格闘家=肉食>の固定観念をみごとに打ち破っている。

 このように、挙げていけば、きりがないほど日本文化が世界に与えている影響は大きいのだ。アメリカ人なら「アメリカ万歳、おまえら、俺にしたがえ」といぱって鼻息あらく号令するところだ。でも、おのれの功績を誇ることを恥とする日本人は決して声高にいわない。あくまでも遠慮ぶかく、控え目に、さりげなく、それとなく・…。

第8弾(6):『世界を浄化するジャパナイズ』