六人部是香『産須那社古伝抄』(原文の読み下し)

『産須那社古伝抄』(うぶすなしゃこでんしょう)

               六人部是香(むとべよしか)


○著者:六人部是香について

 むとべ・よしか。幕末の平田篤胤派の国学者。文化3年生〜文久3年没(1806〜63年)。
 伯父で山城国(奈良県)の向日(むこう)神社の神官・六人部節香の養子となり、17歳で江戸に出て平田篤胤に入門。平田派の関西における主要人物となる。孝明天皇にも御進講申し上げた。

 なお、ここでいう「産須那の神」とは「産土(うぶすな)神」すなわち、人の出生地において、一生の守り神となるもっとも近くの神社に鎮座される神を意味する。産土神信仰においては、人はその出生地を管轄する神社の神によって生命を与えられ、生前・死後世界に至るまで、その御守護と見守りのうちにあるとする。また、出生地から離れた場合、現住所を管轄する神社の神を「鎮守さま」と呼ぶが、これも第二の産土神社として崇敬すべきものとする。

 神道系では、産土神が、父母双方の系統の肉体的・性格的な土台を受け継いだ新生児の肉体に、分娩直後に魂を入れるという。産み落とされた瞬間に、新生児が最初に外気にふれた土地を管轄する神が、その子にとっての産土神になる。

 たとえば、高速道路を走っている救急車や、飛行機の中で生まれた場合も、生まれた瞬間に、その救急車が通った場所、航空機がいた上空の直下の場所を管轄する土地の神が、その子の産土神になる。

   産土神は、その土地土地を、それぞれ管掌しているため、上空もまた「領空」となる。かりに、宇宙ステーションで子供が生まれた場合も、生まれた瞬間に上空を通過した直下の土地の神が産土神になる。

 外国でも、土地土地の産土神がご鎮座されているので、異国人でも同じことがいえる。優先順位からいえば、自分の出生地をつかさどられる産土神が、第一に崇敬すべき神である。現住所がどこであれ、直接にお参りできない離れた場所にいても、心にかけて、日々、神棚や出生地の方角に向かって「遥拝」するのがよい。現住所を管轄される神様は、次いで崇敬すべき鎮守の神となる。

 どの神社が自分の産土神社、または鎮守さまかを知るには、生家または自宅のある地域・地区・集落などで、町内会・自治会・寄り合いが、おみこしを出したりお祭りをおこなう神社がそれに当たる。これは神社の規模の大小は、まったく関係ない。どんなに小さな、祠ひとつしかないような神社でも、その神社を崇敬する地域住民による祭礼がおこなわれているならば、地域のお年寄りや町内会等の役割をしている方に聞くのがもっとも早い。近年すたれて、祭りもされないような神社であっても、そこが土地の神ならば、そこで生まれた人々にとっての産土神である。

 産土神は、あくまでも子供が生まれた場所を管轄する神社の神が、その子の担当となる。ほかに異なる特定の御縁の強い神がいて、産土神になるというものではない。言いかえれば、直接的な地縁による神といってもよい。したがって、兄弟(姉妹)が複数生まれた場合、いずれも同じ土地で生まれたならば、産土神は同一である。兄と弟が(姉と妹が)別々の場所で生まれた場合は、当然のごとく産土神は異なってくる。

 また、産土神は、自分の管轄の土地に生まれた人間に魂を与えて、生涯を見守るだけでなく、死後にその魂を召し出してお膝元に暮らさせながら見守るので、人間にきわめて御縁の深い親のような神であるということもできる。

 なお、本文の現代語訳はこちらをクリック。

○原文の本文(読み下し)

 凡(おほよ)そ天下弘しといへども、太古より以来、産須那の神の鎮座し給はぬ地は、有ること無く、其の御蔭(おかげ)を蒙(こうむ)らざる人も有ること無し。

 抑抑(そもそも)、其の産須那社と称(まを)し奉るは、神代よりして天照大御神の御裔孫(みすえ)は、代々、至尊(みかど)と大坐(おほまし)まして、天下顕明の御政事を掌り給ひ、須佐之男大神の御裔(みすえ)大国主大神は、出雲大社に御鎮坐ましまして、其の御子孫と共に、天下の幽冥の御政事を掌り給へり。

 此の事は、則ち、天照大御神・高皇産霊大御神などの、永代不易の勅定によれる事にて、今も顕明の御政事は、公より明亮(あきらか)に仁政を敷き施し給ふまにまに、其の徳沢に浴し、上下安穏にして、斯く昇平の御代に安居するは、いかに有り難き事にあらずや。

 また幽冥の御政事は、彼の大国主大神の御子孫、または其の由緒の神々等を始めとして、其の地其の地に就きて有功所縁ある神等を、諸国の村里に分配して鎮座せしめ給ひ、尚また人皇となりての後なる武内宿彌命・菅公などの如き、忠肝義胆の人等は、没後に彼の大社にして、尊き上津大兄と尊称する、神位に謄用し給へれば、則ち、尊き神明にますが故に、是等の神等をも、彼の産須那の神等と並びて、其の地其の地の幽冥政を掌らしめ給へり。

 此の幽冥の政と申すは、顕当に人の目には見えざれども、其の社の産須那の地(ところ)と境界(さかひ)を定めて、関(あづか)り掌り給ふの土地に、人を生産せしめ給ひ、其の人の為に、五穀・草木・鳥獣・魚鼈(ぎょべつ)・金石の類に到るまで、悉く生産せしめ給ふは、皆、此の産須那神の御蔭に依れる事なり。

 但し人よりはじめ、五穀、草木以下の物どもを、世に生産せしめ給ふには、産須那神のみならず、五柱の産霊(むすびの)大神・造化の神等の、各々其の職掌に就きて、分掌(わけつかさど)り給ふ深き謂れもある事にはあれど、其の地々々に執りて云ふ時は、其の産霊神・造化神等の徳化を施し給ふも、其の地の産須那神の執奏(とりまを)して成しめ給ふめれば、姑(しばら)く言を省きて、如此(かく)は述(いひ)つるなり。

 其は人を始め、彼の五穀等の諸品に到るまで、種蒔(しゅじ)培養(ばいよう)の所爲(しわざ)こそ、人の動作の上に成つれ。其の物どもの生々化育するは、悉(ことごと)く幽政に關係(あづか)れる事なるを、其の幽政の大綱は、專(もっぱ)ら、産須那神の掌り給へれば、其の徳化に係(かか)らずといふ事無し。されば産須那と称(まを)すは、爲産根(うぶすね)といふ事なるを、根と那とは親しき通音にて、産須那とは称(まをせ)るにて、萬物を生産せしむる根本の神と申す義(こころ)なり。

 然るを産砂の義なりとて、近世の学者の、産土の字を填(あて)きつるは、大きなる誤りなり。さて、如此、産須那とは称し奉れど、萬物の生産を始めとして、人の顕世に存在するほどは、其の病苦・災難などの上を、守護し給ふ事は勿論にして、其の人々の存生中、恒に精神(こころ)に、仁慈と云ひて人を(あいれん)するの慈悲心、誠忠と云ひて、士(さむらい)に執りては其の主君、民百姓にしては、吾が領主・地頭方に対して、陰になり陽(ひなた)になりて、御為方(おためかた)を思ふの真実心の有無、さては、其の家業を大切に出精するや否やなどの上を、幽かに鑑み給ひて、良善なる人には福寿徳沢を与へ、病苦・火災・水難等の憂苦を免れしめ、其の身、没するに及びては、素々、其の精神は、神より賜りたる物にして、清浄(しょうじょう)なるものなれば、死するや否や、忽ち、其の地(ところ)の産須那の社に伺候して、其の下知(おほせ)を守り居り、屍(なきがら)は、穢(けがれ)に属して、墓所に葬る習ひなり。さて其の産須那社に伺候する所の神霊等は、其の社にして、善悪に就きて位を定め、毎年十月に到れば、其の本府の神の朝廷(みかど)たる出雲の大社に率て行き給ひて、其の本府の政令(まつりごとのおきて)に任せ給へり。されば抜群の善良の人の霊魂は、抜擢せられて、天地の間の造化の幽役(かみのごよう)を命付(おほせつけ)られ、或は萬国に係れる大任(おもきやく)をも蒙れども、其は格外の人にして、多くは元の産須那社に率て還り給ひて、其の社の幽政に資用し給へり。但し此の大任を蒙りたる人といへども、其の本体の精神こそ、其の任に趣け、別魂(わけみたま)は、尚(なほ)本の産須那社に留れり。さて、是に反して顕世に在る程、心を悪事に用ひて、不忠・不義・不慈・不孝などの、良からぬ筋の事どもを成したる人は、顕世中に厚く守護り給はざるのみにあらず、其の身没するに及びては、是も同じく産須那の社に参集するといへども、凶徒界と云いて、謂ゆる天狗の類の、妖魔の群党と爲さしめ給ふ事なるを、此の凶徒界に陥りては、種々艱難辛苦の所行ありて、永く困苦に窮厄せり。

 さて是等の正しき古伝の、先蹤(ことのあと)の動くべくもあらぬ徴象などは、何(いづ)れも顕幽順考論という書に挙げ置きたれば、其の本源を探らんと思ふ人等は、彼の書を見て暁(さと)るべし。

 かゝれば産須那の社は、生産の根元、顕世の守護、没後の使令に到るまで、悉く関掌(あづかりつかさど)り給はずといふ事無し。然るを、其の生産の上にのみ就きて、産須那と称(まを)し奉るは、此の三大事の中にしても、生産は最初の事なれば、其の初めの一事に就きて、産須那とは称し奉れるなり。さて其の産須那を、また氏神とも称(まを)し、其の支配し給ふ地(ところ)に、生産する人をさして、氏子といふ。其の故は、其の地其の地に隷(つけ)る氏氏は、甚(いと)多かれど、何れの氏の人といへども、悉く、産須那神の御支配に関り居るものなれば、其の処に住める氏氏の神といふの義(こころ)をもて、氏神とは称し奉り、其の氏神の成造し給ふ所の子といふの義もて氏子とはいふなりける。然るを、これも中古の書籍(ふみ)に、氏々の祖先の神をも指して、氏神とも云ひ、其の祭りを氏神祭と云ひつる事より、此の産須那の神を氏神と称すとは、同語(ひとつことば)ながら、其の義(こころ)別なり。思い混(まが)ふべからず、されば、中古といへども、祖先の神を氏神とは称しつれど、其の子孫をさして、氏子と云へる事は、一切ある事なし。

 さて、其の産須那社に、鎮座し給ふ神等には、種々の神等まします事、譬(たとへ)ば火の神なるもあれば、水の神なるもあり。或いは、歴代の帝王なるも、臣下の人等なりしもありて、火の神の火を掌り、水の神の水を掌り給ふが如きは、素より、其の神の分け掌り給ふ所の職掌にはあれど、産須那神として、其の産須那の土地の、幽政を掌り給ふ上に執りては、火にも水にも関(あづ)かり拘わらず、唯一向き(ひとむき)に幽政をのみ重みし掌り給へれば、其の産須那の社の祭神の職掌は更にもいわず、尊卑軽重などにも少しも拘はるべきにもあらず。何れの神たりとも、幽政の趣(おもむき)は同一(ひとつ)なればなり。然るを、何れの社は、何の病に御幸福(ごさち)あり、或いは、彼処(かしこ)の社は、此の筋の事を守護りたまふなどという事、今の世の習弊(ならはし)となりつれども、氏子の上より、其の地の産須那の神を指していう時は、かかる区別(わかち)は無き事なり。

 抑々(そもそも)、産須那神は、如此(かく)自躬(みずから)が顕世に生まれ来(きた)るの本元(もと)より、全(もはら)、其の御蔭(みかげ)を蒙りて、世に生産し来つるのみにあらず。顕世に存命するの間の万緒、夜となく昼となく、此の神の御守護(みまもり)に漏るるの隙(ひま)ある事無し。況んや、死後に及びては、其の霊魂(たましい)を謄用(あげもちひ)もし、擯斥(しりぞけおとし)もし給ふことは、全(もはら)、此の神の御進退に依ることなれば、恒に其の厚き御蔭を賽(かえりまをし)し、はた深き御守護(みまもり)を仰ぎ願はずんば有るべからず。

 いでや、死後の霊魂は、善悪邪正に拘はらず、何れも皆、其の地其の地の産須那の社に参勤し、産須那神は、其の霊魂を進退し給ふというの古伝は、天照大御神・高皇産霊大御神の神勅にして、天地を貫き、一地球に通達して、万代無窮に動くべくもあらぬ甚(いと)深く尊く重き古伝なるを、中古以来、彼の古語古言に蒙(くら)く成りつるより、其の本末を通暁すること能わず、剰(あまつさえ)、彼の地獄・極楽の妄説に迷ひ、見性成仏の偏見に陥り、或いは、消散睡夢の臆説に惑溺して、貴賎の衆庶、無上の神勅を暁(さと)ることあたはず。空しく心魂を労して、生涯、其の死後の魂の在所(ありか)を、慥(たしか)に得悟り知らずして、世を過ごしつる人、数百年の間、幾千万とも算(かぞ)ふべくも有らざりしは、甚も甚も憐れむべし。慟(いたま)しかりし事に有らずや。然るを、昇平の徳化に依りて、浮妄の臆説どもは、一時に破れはてて、太古の神伝、世に明亮(あきらか)に成りつるままに、冥中を看る事、白日に十字街道を行くが如く、何の惑はしき事もなく、在世にして死後の霊魂の安心する事、今の世ばかり易きは有る時無し。さるにても、泰平の御代の恩徳を、有難く、辱(かたじけな)く、思はずんばあるべからず。然れども、本源たる、彼の神勅を初め、幽冥の上に関係(あづか)る万緒の事蹟の来歴などの委しき謂れは、学者の上にこそ明亮(あきらか)に成りつれ、いまだ、其の趣きを天下の衆庶に推及(およ)ぼして、不学文蒙の輩に到るまで、心裡に通ぜしめるまでには行き届かざれば、かかる御代には生まれ合ひながらも、尚、うかうかとして、彼の堕獄を恐れ、消散睡夢の虚妄に惑い居る者どもの多かるは、甚も傷ましく思ゆる事なれば、死後の安心を決(きわめ)んと思ふ輩は、近く彼の順考論に、本源より挙げもて来て、其の事蹟を精微に述べたるを見て、覚知すべくこそ。

 されば、『神宮雑事』といふ秘記に記せる趣きは、「まづ其の地の産須那神に、慇勤(ねんごろ)に奉仕して、其の余暇には、他所の霊験をも仰ぐべし。権(かり)そめにも、我が産須那の神をさし置て、他所の利益を仰ぎ奉らむは、吾が主君を等閑(なおざり)にして、他所に参るが如く、不当なるにあらずや。然れば狭少の所に御坐(おは)すとも、其の恩徳を忽(ゆるが)せにすべからず。社の損はれたらむには、何(いか)なる弊衣(やぶれごろも)を纏(まと)ひ着ても、餓死せむを期(ご)として、奉仕爲(す)べきなり。若し、当処の神、不信者を咎めて祟り給はば、いかに憑(たのみ)奉るとも、他所の神、更に助け給ふべからず。余社の祟りは、吾が産須那神の恵み給はば、宥(なだ)め給はん。この心を恒に忘れず、仕へ奉るべきなり」と見えたる如く、他所の社といへども、疎略には為すべからざるといえども、取別(とりわけ)、まず第一に、其の地其の地の産須那の社を、太切に為(せ)ずんば有るべからず。されば、毎朝、まづ朝日に向かひて礼拝し、次に産須那の社に参詣して、礼拝起請する礼儀は闕(かく)べきにあらず。その社程遠く、或ひは、繁勤にして暇無き人などは、よし其の社には参詣(もうで)ずとも、其の家より、遥拝をだに勤行(つとめおこな)はずんばかなふべからず。

 尚また、大小広狭も有るべけれど、いかにも氏子中申し合わせて、日毎に朝夕両度の日供(にっく)を備え進(たてまつ)り、五穀は更なり、綿にもあれ、菜種にもあれ、吾が田畑に取り扱う初(はじめ)、何にもあれ、まづ、其の地の産須那の神に進献して、其の御蔭(みかげ)を賽(かへりまを)し為べきは、勿論の事なり。殊更、其の社内には、目にこそ見えね、吾が祖先等も、皆、伺候し居る事なれば、如此、進献しつれば、則ち、己れ己れが祖先等も、倶に、その饗膳供物に預かるべき事は云ふも更なり。されば、其の祖先等の心にも、吾が裔孫の、斯く慇懃に心を竭(つく)すを見て、いかで歓ばざらむや、熟(よく)按(おも)ふべし。

 偖(さて)、今の世も、貴賤押し並(な)べて、産須那の神の止事(やんごと)無く、貴き謂れは知らざる人もあらざれど、唯(ただ)、顕世の上をのみ守護らせ給ひて、其の身、死するやいなや、即尅(そくこく)、其の霊魂は、産須那の社に参勤伺候し居る事の本末を、辨(わきま)へ知らざる輩(ともがら)も多かる事の遺憾(くちおし)く思ゆるままに、斯く、記しは出(いで)つる物から。

尚、産須那の神の徳化(みいづ)の、弘大なる事は、中々、此の書(ふみ)などに竭(つく)さるべき事にあらざれば、其の大綱をだにとて記しいでて、普(あまね)く人にも辨へ知らしめむとは為(す)るにこそ。

 上件(かみのくだり)記し出つる趣(おもむき)は、神代より正しく伝はり来し、吾が神授の古伝なるを、久しく、外国(とつくに)の道々の為に覆ひ隠されて、明亮(あきらか)ならざりしを、近来に及びて、博学宏才、古今に卓越たる大学師、次々に出でて、古語古言に通達(つうだつ)し、遂に、神明授受の古道に立ち還る事を得つるが故に、産須那の社の御鎮座の本源より、顕世の精神・死後の霊魂をも、摂(かさね)掌り給ふ事の正しき徴証、国史・神典に昭昭たることを、著明(あきらか)に書き述べられしかば、外国々にて建てたる道々は、左(と)まれ右(かく)まれ、吾が、神国に生まれ出でて、顕には、公武顕明の御政事を有難く思ひ、幽には、天照大御神を尊崇し奉らむ輩(ともがら)は、産須那の神の甚深(じんじん)の恩徳を報じ奉らずんば有るべからず、されども、今、如此(かく)いふを、尚、疑ひ深く、若しも疑惑を懐(いだ)く輩もあらば、古道学師の著されつる書どもを熟読せば、其の疑ひを氷解せむ事、豈(あに)、掌(たなごころ)を看(みる)るが如くならざらめやも。

安政四年八月

六人部宿彌是香記

(岩波書店刊・日本思想体系51 『国学運動の思想』P222〜230より)

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