六人部是香『産須那社古伝抄』(現代語訳:八神邦建)

『産須那社古伝抄』(うぶすなしゃこでんしょう)

六人部是香(むとべよしか)


○著者の六人部是香ならびに産土神信仰については、原文読みくだしのページの冒頭部を参照のこと。

○本文(現代語訳)

 [注:読みやすくするため、適宜に改行を入れ、原文よりも段落数を増やした]

 およそ天下は広いものだといっても、大昔からこのかた、産須那の神の御鎮座されない土地はありえず、その御蔭をこうむらない人もいることがない。

 そもそも、産須那の神のお社と申し上げる由来は、神々の時代から、天照大御神の御子孫が、代々世々、「帝(みかど・天皇陛下)」として君臨したまい、目に見えるこの世の政事(まつりごと)をつかさどられていらっしゃり、須佐之男大神の御子孫の大国主の神が、出雲大社に御鎮座されて、その御子孫の神々とともに、幽冥(*1)の政事を、つかさどっていらっしゃることにある。

 このことは、すなわち、天照大御神・高皇産霊大御神(タカミムスビノオオミカミ)などの、永遠不変の神の勅令によることで、今も現世の御政事は、公なる帝によって、明瞭に仁慈のまつりごとを施し広げられ続け、国民はその恵みに浴し、身分の上下を問わず安穏であり、このような太平の御代に安心して居ることは、どんなにありがたいことだろうか。

 また目に見えない神や霊の世界の御政事は、かの大国主大神の御子孫、または、そのゆかりある神々をはじめとして、その土地その土地において、功績や由縁のある神たちを、諸国の村里に配分して鎮座せられ、さらにまた神代から人代となった神武天皇以後、武内宿彌命(たけしうちのすくねのみこと)・菅原道真公などのような、天皇国家に対し誠忠にして義を重んじる人たちは、没して後は、かの出雲大社において尊い上段階の大兄と尊称される神祇の位に登用なされる、すなわち尊い神々でいらっしゃるので、これらの(人間出身の)神たちも、既存の産須那の神たちと並んで、その土地土地の目に見えない世界の政事をつかさどられる。

 この目に見えない世界の政事というのは、はっきりと人の肉眼には見えないけれど、(産須那の神が)その神社の産須那の土地として領界を定め、管轄・支配なさる土地に、人を出生させ、その土地に生まれた人々のために、五穀・草木・鳥獣・魚や水生動物・金属や石の類に至るまで、ことごとくを生み育てあらしめ給うのは、みな、この産須那の神の御蔭によることなのである。

 ただし、人間はじめ、五穀・草木以下の物たちを、この世に産出せらるるのは、産須那の神だけでなく、(*2 津速産霊・興台産霊・活産霊・足産霊・安産霊の)五柱の産霊大神(むすびのおおかみ)・造化の神(*3 風神・火神・金(属)神・水神・土神)たちが、おのおのの職掌において分担してつかさどられる深い由来もあるにはあるが、その土地土地について語るときには、それら産霊大神・造化の神たちが恵みの御神意を(生き物や自然物に)施されることも、その土地の産須那の神が、仲立ちして、産出を成り立たせられることなので、ここでは仲立ちしているという部分を省略して、産須那の神がすべての生き物や自然物をつかさどっていると言うのである。

 それは、人をはじめ、かの五穀等の諸々の品種にいたるまで、種を撒いたり育てたりする行為こそ、人の作業の上に成ることだけれど、その生き物たちが育って成長するというのは、ことごとく目に見えない世界での政事に関係することで、その政事のあらましは、もっぱら産須那の神の司られるところなので、その徳の恵みを受けないということはない。そうであるから、産須那と申し上げるのは、為産根(うぶすね)ということなのだが、「根」と「那」とは親しく通じる音なので産須那と申し上げるわけで、万物を生産せしめる根本の神という意味である。

 そうであるのに産砂(うぶすな)の意味であるとして、近世の学者たちが「産土」の文字を当ててきたのは大きな誤りである。このように産須那というけれども、万物の生産をはじめとして、人間が現世に存在する間は、その病苦・災難から守護してくださるのはもちろん、人々の存命中、常に仁慈といって人を憐れむ慈悲心、誠忠といって武士にとってはその主君に対し、民百姓にとっては自分の領主や地頭たちに対し、陰になり陽(ひなた)になって、目上のためになることを思うまごころの有無、さらに、それぞれの家業を大切にして精進するかどうかなどを、目に見えない世界からご覧になって、善良なる人には幸福・長寿・徳化・恩恵を与え、病苦・火災・水難などの悩み苦しみを免れさせ、その人生が終わるに及んでは、もともと人間の魂は、神より戴いたものであって清浄なので、死ぬやいなやすぐに、その地の産須那のお社に参上して、神からの御指図を守りながら暮らし、遺体は穢れに属するので墓地に葬るのが習いである。

 さて、その産須那の社に参上する(死後の)神霊たちは、その社で(生前の)善悪について階位が定められ、毎年十月(旧暦)になると、目に見えない世界の首府にして神々の朝廷たる出雲大社に引率され、その首府の政事の掟にお任せすることになる。それにより、抜群に善行優良だった人の魂は、抜擢されて、天地の間の生成化育の神の御用を仰せつけられ、あるいはあまたの諸外国にかかわる大任を受けることもあるけれど、それは別格の人の場合で、多くは出雲大社より元の産須那の社に戻され、その社における諸事にお仕えすることになる。ただし、その別格の大任を受けた人の場合でも、本体の魂こそ、その任務に就くけれど、分霊は元の産須那の社に留まっているのである。

 これに反して、生前に心を悪事に用いて、不忠・不義・無慈悲・不孝など、よろしくない筋の行いを為した人は、生きている間に厚くお守りくださらないばかりでなく、その身が死ぬに及んでは、同じく産須那の社に参上するとはいえ、凶徒界といって、いわゆる天狗の類の妖魔の群れにお加えになるので、この凶徒界に陥っては、さまざまな艱難・辛苦の所業があって、永く困苦し窮迫と災厄に見舞われるのである。

さて、これらの正しい古伝の事跡の動かぬ証拠などは、どれも『顕幽順考論』(*4)という書に挙げておいたので、その本源を探ろうと思う人たちは、同書を見て悟ってほしい。

 以上のようであるので、産須那の社は、出生(生産)の根元、現世の生活の守護、死後の霊たちへの決めごとに至るまで、ことごとくにあずかり給い、司らない事柄はない。それなのに、出生(生産)についてのみ、産須那と申し上げるのは、出生養育と現世守護と死後判定の三大事のうち、出生はその最初の事柄なので、最初の一事について産須那と申し上げるのである。

 さて、その産須那の神を、氏神とも申しあげ、その支配される土地に出生する人をさして氏子という。その理由は、その土地土地に属する氏族は、はなはだ多いけれども、どの氏族の人といえども、ことごとく産須那の神の御支配にあずかっているものなので、その土地に住む各氏族の神という意味で氏神と申し上げ、その氏神の出生・養育し給うところの子という意味で氏子というのである。

 それを、中世の書物にあるように、各氏族の祖先神を指して氏神と呼ぶこともあり、その祭りを氏神祭りといったことから、この産須那の神と混同する説もるけれど、それはまた誤りである。氏族の血縁に連なる先祖を氏神と呼ぶのと、地縁による産須那の神を氏神と呼ぶのとでは、同一の言い方でもそのこころは別なのである。混同して思ってはならない。そんなわけで、中世であっても、自分の祖先の神を氏神と呼ぶことはあっても、その子孫を指して氏子と呼ぶことは一切ない。

 さて、その産須那の社に鎮座まします神たちには、各種の神たちがいらっしゃる事だが、たとえば火の神なるもあれば、水の神なるもあり、あるいは歴代の帝王だった方や、臣下の人だった方たちもあって、火の神が火をつかさどり、水の神が水をつかさどられるがごときは、もとよりその神の分担される職掌ではあるけれど、産須那の神として、その産須那の土地の目に見えない世界の政事をつかさどられるについては、火にも水にもあずかりかかわることなく、ただひたすらに神と霊の世界での政事を重んじつかさどられるので、その産須那の社の御祭神の職掌はいうに及ばず、尊卑軽重などの差異は少しもない。どの神でも、あの世の政事でおこなうことは同一だからである。それなのに、どこそこの神社は、なになにの病にご利益がある、あるいは、あの神社は、これこれの事柄について御守護をくださる、などということが今の世の通弊となっているけれど、氏子(産子)の立場で見れば、その地の産須那の神を指していう時には、そのような区別はないのである。

 そもそも産須那の神は、このように自分自身が現世に生まれてくる本源で、もっぱら、その御蔭によってこの世に出生してきただけにとどまらない。現世に生きている間のあらゆる事柄について、昼となく夜となく、この神の御守護に漏れることはないのである。死後のことに及んでは、いうまでもなく、その霊を神の御用に登用したり、凶徒界に追放したりなさることは、もっぱらこの神の御処置によることなので、日常的にその厚い御蔭に感謝報恩し、さらに深い御守護を仰ぎ願わずにはいられない。

 それにつけても、死後の霊魂は、その善悪・邪正にかかわらず、だれでも皆、その土地土地の産須那の社に参上し、産須那の神が、それら霊魂のその後の行方をお決めになるという古伝は、天照大御神・高皇産霊大御神の神勅にして、天地を貫き地球全体に到達して何万世代も永遠に動かざる、きわめて深く尊く重要な古伝である。それを、中世以来、古語や古言がわからなくなり、その由来や歴史に通じることもできず、あまつさえ仏教の地獄・極楽の妄説に迷い、自己の悟りを追及して仏になるという偏見に陥り、あるいは死後の世界などなく神も霊魂も確かなものではないという臆説に惑わされて溺れ、貴族から庶民にいたるまで、この上ない古伝の神勅をさとることもできず、空しく精魂を費やし、生涯にわたって、その死後の魂のありかを確かに知ることができずに人生を送った人たちは、この数百年の間、幾千万人とも数えることさえできないほどなのは、きわめて憐むべき事である。痛ましいことではないだろうか。

 それを、太平の世の徳治によって、浮薄で妄りな臆説どもは、一時に破れ果てて、太古の神伝が世に明らかになるにつれ、幽冥の世界を看ることは、白日に大通りの十字路を行くごとく、何のまどわすものもなく、現世にありながら、死後の霊魂のありようについて安心することは、今の世ほど容易な時はない。それにつけても、泰平の御代の恩徳を、ありがたくかたじけなく思わずにはいられない。

 しかし、古伝の本源たる御神勅をはじめ、幽冥の世界の上でかかわるあらゆる事蹟の来歴などのくわしいいわれは、学者の間でこそ明瞭になったけれど、いまだその主旨を天下の庶民に及ぼして、無学文盲の人たちに至るまで、心に通じさせるまでには行き届いていないので、このような御代に生まれ合わせながら、いまだうかうかとして死後の地獄行きを恐れ、死後世界も霊魂も神もないという虚妄に迷っている者たちの多いことは、非常にいたましいことだと思える。それなので、死後の安心を究めようとする人々は、先ごろ『顕幽順考論』に、典拠をあげて幽冥世界の事蹟を精細に述べたので、知り覚えていただきたい。

 そこで、『神宮雑事』という秘書に記された内容は、「まず、自分のいる土地の産須那の神に、敬虔さをもって心をこめて奉仕し、その上でほかの神を拝む余裕があるときには、よその神社の霊験を仰ぐことである。かりそめにも、自分の産須那の神を差し置いて、ほかの神の御利益を仰ごうというのは、自分の仕えるべき主君をなおざりにして、他国の君主に向かうがごとき、不当なことではないだろうか。そうであれば、たとえ社殿や境内が狭いお社に坐す産須那の神であっても、その御恩と御神徳のありがたみをゆるがせにしてはならない。社殿が壊れたりしたならば、たとえ自分は、どんなに破れた襤褸の服を着ようとも、餓死を覚悟で費用を当てて奉仕すべきである。もし、ある土地の産須那の神が、不信心な産子をお咎めになり祟られたならば、いかに他の土地の神にご祈願しても、よその神はましてその産子をお助けになることはできない。よその土地の神の祟りならば、自分の所の産須那の神様がお恵みをたれ、よその神の祟りをなだめてくださる。このような心がけを常に忘れず、お仕え申し上げるべきである」と書いてあるように、ほかの土地の神といえども、適当に手を抜くなどということはしてはならないことだけれど、とりわけ、まず第一に、自分のいる土地の産須那の神を大切にしなければならない。

 そういうわけで、毎朝、まず朝日に向かって礼拝し、次に産須那の神社に参詣して礼拝・祈願する礼儀を欠いてはならない。その神社が遠く、あるいは多忙で毎朝参詣する時間のない人などは、たとえ直接に参詣できなくとも、自宅から遥拝を勤め行うことをしなければ礼拝しているとは言えない。

 その上、なお言うなら、産須那の神社には、それぞれ社殿の規模の大小、境内の広い狭いもあるだろうけれど、しっかりと氏子(産子)たち一同が申し合わせ、毎日、朝夕二度の日ごとのお供えを奉り、五穀は言うに及ばず、綿でも菜種でも、自分の田畑に成った初穂、または諸種の商売人たちも、毎年、その品物を扱う最初の時には、商品がなんであっても、まずその土地の産須那の神に奉献して、その御神徳に報い、御礼申し上げるべきなのはもちろんである。特に強調しておきたいのは、産須那の社には、目にこそ見えないものの、自分の祖先たちも皆、お仕え申し上げているので、今いったように初穂・初物を奉献したならば、神様とともに御先祖達も、ともにその饗応の供物にあずかるのは言うまでもない。そういう風にするならば、祖先たちの心にも、子孫がそのように丁寧に奉仕をつくすのを見て、どんなにか喜ぶだろうか。そのことをよく考えてみるべきである。

 さて、今の世も、貴賤を問わない人々はおしなべて、産須那の神のやんごとなく尊いいわれを知らない人もいないけれど、現世の生涯だけは御守護してくださり、その人の身が死ぬやいなや、即刻、その霊魂は産須那の社に参上しお仕えするということの顛末を、わきまえ知らない人たちの多いのを口惜しく思うに任せて、このような記述をすることになったのである。

 なお、産須那の神の御神徳の広大なることは、なかなかこの書で尽くせることではないので、あらましだけでもと書き出し、一般の人々にもわきまえ知らしめようとしたのである。

 以上、書き出した事柄は、神代より正しく伝わってきたわが国の神から授かりし古伝なのであるが、長い間、儒教・仏教など外国の教えのために覆い隠されて、明らかにされなかったのを、近来になって、博学宏才にして古今に卓越した国学の偉大な師たちが次々に現れて、古語・古言に通じ、ついに神明に授かりし古道に立ち還ることを得たので、産須那の社の御鎮座の本源から、現世の精神と死後の霊魂をも管掌なさる事の正しい証拠が、国史・神典(古事記・日本書紀)に明白であることを、はっきりと書き述べられたので、外国で建てられた道はともかく、わが神国に生まれ出て、社会的には朝廷・幕府の御政治をありがたく思い、精神的には天照大御神を尊崇し奉る人たちは、産須那の神のきわめて深い恩徳に報い奉らずにいられようか。しかし、今このように言うことも、なお疑い深く、もしも疑惑を抱く人でもあるなら、古道の国学者の大先生たちの著された書などを熟読すれば、その疑いの氷解すること、たなごころをさすがごとくに明白に見てとらずにいられようか。

安政四年(1857年)八月

六人部宿彌是香・記(むとべのすくねよしか・しるす)

(岩波書店刊・日本思想体系51 『国学運動の思想』P224〜230を現代語に訳した)

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